-11『碧の竜』
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かちゃり、と少女は自分の首につけられている太い金属の輪に指を添えた。
令嬢のような一級品の布地を使った洋服を着せられていて、細く長身、眉目秀麗であるその少女にはひどく不似合いなそれだが、少女にとっては、むしろこの首輪こそが最も自分を象徴していると思った。
生まれながらの整った顔立ちも、エメラルドのような艶のある長い髪も、綺麗な衣服も、誰もが欲しがり羨むものだろう。しかし少女にとってそれがどれほど価値があるものなのか、まるでわかりもしなかった。
少女にとっての価値観とは、『いる』か『いらない』か。ただそれだけだった。
美麗な容貌など必要ない。
女性らしさなど必要ない。
着飾った服など必要ない。
ただただ、首元にずしりと乗っかっているその鉛色の感触だけを、少女は常に、確かめるように求め続けていた。
「俺の決定が不服とでも言うつもりか、ユーステラ?」
不意に投げかけられた言葉に、少女――ユーステラは沈ませた顔を持ち上げて急ぎ首を振った。
持ち上げた視線の先のいる男。ルーン王、ガセフ。
ファルドの王都ハンセルクにやって来た彼は、一度も王城には上らず、その足元に作られた古い聖堂にやって来ている。そこで、使えていた神官たちを根こそぎ殺し、神聖なる竜の紋章が入った旗を赤く染め上げさせていた。
彼がひどく不機嫌であることは、ユーステラに投げられた言葉の荒々しさからも容易に伝わっていた。
五十を越える齢だというのに程よくついた筋肉。伸びきった背筋は歳を感じさせず、しわの寄った顔を除けば若々しい体つきである。無骨な甲冑をつけた姿はやや地味さがあるものの、その毅然とした佇まいには、見る者を萎縮させるほどの力強さがあった。
これが元ファルドにて前王の片腕と称された男。
そしてその前王を裏切り、ルーンという国家を作った男。
「ルーセントの件は俺が決めたことだ。お前が不満に思おうと拒否権はない」
「いいえ、不満などというようなことは……」
「取り繕わなくてもいい。イヤならイヤと顔に出せばいいのだ。どちらにしろ何も変わりはないのだから」
「そんな、ことは……」
「ふん。どうせしばらくはお前も竜の力を解放できぬのだ。ならばせめて、できる範囲での貢献をしろ」
「……はい」
「お前がどれだけイヤな顔をしようが、お前には隷属の契約が施されている。この首輪があるかぎり、お前は俺の言葉に背くことはできないのだ」
「――はい。承知しています」
「ならばわざわざ俺のところまで来る必要はないだろう」
「それは、そうですが」
「ファルドの雑兵どもの相手は任せると言っただろう。俺は今、忙しいのだ。お前などに構ってやっている暇はない」
「……申し訳、ありません」
「失せろ」
「はい」
もはや会話というよりも、一方的な押し付けである。しかしユーステラには頷くほかなかった。彼女の首元にはまっている鈍色の首輪。それがある限りは。
それは契約の証だった。
竜人族による支援として使わされた少女。人のために働き、人のために生きる。そう宿命付けられて生まれたのがユーステラである。
卵の状態でガセフに渡され、孵化した時に最初に見たのは、厳つい表情をしたガセフの顔だった。
ガセフは竜人族のために人間の国を壊すという。
竜人族による世界の平定。
その協力を申し出、その対価として彼らから受け取ったのが、竜の子ユーステラだ。
生まれたときからガセフに協力することを決められていたユーステラには、決してガセフに逆らうことが出来ない契約が施されたのだった。
この枷のごとくはめられた首輪があるかぎり、ユーステラはガセフから離れることはできない。万が一逃げ出しても、念ずることでユーステラの見ている景色や音も共有され、把握されてしまう。
念じて会話のように意思疎通が出来るのはユーステラからの場合も可能だが、必要なとき以外は彼女が何を言っても相手にされることはなかった。
自分という存在はただの駒にしか過ぎないのだろう。そうユーステラは悟っていた。
竜人族から与えられた、強大な力を持った便利な駒。
ユーステラの見ている情報は共有しても、彼がユーステラの心を汲むことはない。
故に、まだ生まれて数年しか経っていないユーステラは、果てしない空しさを心に芽生えさせていた。
ガセフに命令されて、聖堂から外に出る。
彼はこの王都へやって来てからずっと、この聖堂にばかり執心している様子だ。
財宝などない。王城の敷地に併設されているだけあって外見や内装こそやや豪奢な造りだが、決して目を引くようなものがあるわけでもない。
そんな場所に足繁く訪れては、必ずユーステラを引き剥がし、一人で何かをしているようだった。
いったい何をしているのか。
気になったユーステラは、ついついそれを覗き見るようになっていた。
大事の時でもなければガセフがユーステラの視界を共有することはない。そもそも彼の興味など、普段のユーステラに向けられてなどいないのだ。
建物の隙間から覗き見たのは、ガセフが一日ごとに神官一人ずつ殺している光景だった。ひどく猟奇的なそれは、しかしただ意味もなく殺戮を楽しんでいるという訳でもないようだ。
「いい加減に吐かないと、ここにいる神官どもが全員死ぬことになるぞ」
神官を剣で貫きながら呟いた独り言のような言葉は、しかし、彼の目の前に座り込む一人のあどけない女の子に向けられていた。
白い肌に、これまた同色のような白銀の髪。きっぱりと見開かれた瞳も灰色で、しかしそれはひどく虚ろに濁っている。おそらく目が見えていないのだろう。
他の神官たちとは違う厳かな服を着たその女の子は、ガセフによって剣で貫かれた神官の姿は見えずとも、その苦しい呻き声を耳にして悲嘆に表情をしかめさせていた。
「これほどしてもまだ吐かぬか。見た目よりも、化けの皮の肝は据わっているようだ」
「私もかつては竜と相対した身。ただの童子と見ないことです」
「ほう。だが、そうやって強がるのは構わんが、お前の強情のせいで他の連中が死んでいくだけだぞ」
この聖堂に軟禁状態にされている神官は、女の子を含めてあと数名。だがガセフはその全てを躊躇わんとばかりに殺していっている。
ユーステラには、彼の目的がわからないでいた。
ミレンギという少年の台頭。その内乱による綻びを利用してファルドに侵攻し、破竹の勢いで王都ハンセルクを陥落させた。
圧倒的優勢。
この機に北方まで全勢力を投入させていれば、ノークレンを討ってでもすぐさまファルド統一が出来ていたかもしれない。
しかしガセフはどういう訳かこの聖堂にばかり執着しているようだった。
この王都へたどり着いたルーン兵の最たる目標の一つとされていたのが、この聖堂の制圧と、そこにいる盲目の少女の幽閉であったほどだ。
ガセフはこの聖堂で何かを探している。
だがそれが何なのか。そこまで優先すべきことなのか。尋ねようにも、ユーステラに答えてくれるはずもないことであった。
「ただ一言、場所を言うだけでいい。これ以上悲鳴を耳にしたくもなかろう? 俺だって、人間をむやみやたらと殺したいわけじゃないんだ」
「去りなさい、逆臣ガセフ。言っているでしょう。貴方の望むものはここにはありません。ここは世の安寧を願い祈りを捧げる場所。貴方の行いは人の世を壊しているのですよ」
虎を前にした赤子のようであるのに、盲目の少女は果敢に言葉を返す。
そこにはなにか、ただの無鉄砲ではなく、譲れないといった力強さが感じられた。
だからこそガセフも直接的、短絡的な恫喝などで脅そうとするのではなく、彼女の精神を蝕んでいくような執拗さをもって質問を投げかけていく。彼女の仲間である神官の悲鳴が一つ聞こえるたび、その牙城は着実に削れ、少女の口調もやや当初よりは勢いがなくなっているのがユーステラにもわかった。
「俺は世を正そうとしているのだ。この地に住まう人間を救うためにな」
「人間を救う? 竜人族に供物として差し出すの間違いでは?」
「俺は何も間違ったことは言っていない。全ては人間のため。この国は、最も強き者によって統治されねばならん」
「そのために、弱者は蔑ろにしても良いと?」
「必要悪であるのならば当然だ。心身の癌は、それが身を蝕むより先に取り除かねばならない。だからこそ、そのために『アレ』が必要なのだ。竜の力を秘めしあの聖具が」
「ガセフ……やはり貴方は英雄ではない」
「英雄さ。英雄というのは、施しをして道半ばに息絶えるような馬鹿ではなく、歴史の最後に頂点に立っていた者のことを言うのだよ」
「詭弁を。貴方は歴史に輝かしい名を残すことはありません。私の子らが、貴方のような悪を必ずや討ち滅ぼすでしょう」
「それはそれは。とても心地よい願望だな。十年以上も時の牢獄に囚われ続け、ついに心の目すらも盲目となったか。憐れなものよ」
また探し物の話。
つい気になって身を乗り出そうとしたユーステラは、しかしつい足元の小石に蹴躓き、物音を立ててしまった。
ふと、ガセフの動きが止まったかと思うと、ぎろりと視線が動き、覗き見ていたユーステラと目が合う。その目つきは身の毛もよだつほどにおぞましく、ユーステラの全身から冷や汗が流れ出た。
「覗き見とは、竜人族の命令か?」
明らかに気付かれた。
おそらくユーステラの視界を共有して。
もはや誤魔化す意味もなく、ユーステラは大人しく姿を現した。
「……申し訳ありません」
「俺が求めているのは謝罪なんてものじゃあないだろう?」
「……それは。ただ、私の単独の行いです。竜の国は関係がありません」
「いったいどれほどが本音か。竜の考えることなどわかりもせん」
冷ややかな視線が向けられる。
しかしユーステラからすれば慣れたものだ。
彼に会ってから一度たりとて、情愛を感じられたことなどない。
ぐっとガセフがユーステラの首を掴み、絞めるように片腕で持ち上げる。突然のことにユーステラは息も出来ず呻き声を漏らしたが、振りほどこうとはしなかった。
その様子は音だけでも感じ取れるのか、盲目の少女が怪訝に顔をしかめる。
「竜をまるで奴隷のように……。貴方は、いったい竜をなんだと思っているのですか」
「お前たちこそ『コレ』をなんだと思っているんだ。神か? ならば俺は今、神の首を絞めていることになるのか?」
「ガセフ。貴方はどこまで――」
「俺は人を導こうとしているのだ。正しき道へとな。誰も賢王と呼べとは言わん。しかし全てが終わった後、人間は俺を結果的に正しかったと語ることだろう」
そう不敵に笑うガセフがしばらくして気が済むまで、ユーステラはただただ、息の出来ない苦しさに耐え続けていた。
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