-9 『王女の決意』
簡易宿舎の並ぶ路地の片隅。
町外れとなったそこに、木組みの小さな小屋が建てられていた。
三角屋根の上には急ごしらえの十字架と、それを抱くように施された竜の紋章。
そこは教会だった。
つぎはぎの木材で体裁だけ繕われている不恰好なものだ。ステンドグラスも綺麗な燭台もなにもない、がらんどうな吹き抜けのようであるそこに、老若男女多くの人々が集まっていた。
アーセナによって構内へと連れ入られたノークレンはそこで、竜の紋章が刻まれた十字架へ祈りを捧げ続けている人たちの姿を見た。
地面に膝をつき蹲る彼らは皆、王都から家を失くして逃げ延びてきた者たちだ。悪夢のような災禍に見舞われながらも、しかし信仰をやめず、竜神への祈りを絶やさずにいる。
ノークレンも、昔は一日と欠かさず彼らに混じり、ファルドの安寧を思ったものだ。
孤児であった頃は純粋な平和への願いから。そしてグラッドリンドによって王座への道が敷かれてからは、いずれ自らが英雄アーケリヒトのように彼らを平和へ導かんと、その情熱を捧げてきたはずなのに。
今となっては彼らの平和への祈りを壊した張本人であるノークレンには、目に痛い光景に思えた。
「おお……もしやノークレン様では?」
ふと声をかけられ、ノークレンは怯えるように外套を深く被りなおした。
声をかけてきたのは、この教会の司祭だった。彼は隠れようとしたノークレンの顔を覗き込むと、「やはり」と頷いた。
その司祭はノークレンもよく知っている、王都の町外れにある教会で毎日のように顔を合わせていた老紳士だった。
「いえ、あの……私は……」と取り繕おうとするが、すっかり気付かれていて手遅れである。
いつ叱咤の声を浴びせられるか。
棒か何かを持ち出して殴りかかってきやしないか。
恐怖に駆り立てられ、思わずアーセナの背後に隠れてしまう。
しかしそんなノークレンの背中に、身の丈半分ほどの少女ががっつり離さないように抱きついてきた。
「お姉ちゃん、王女様なの?」
ノークレンを見上げて純朴に尋ねてくる少女。
「あのね。おうち、燃えちゃった。お布団のところにね、大好きなお人形さんがいたの。あの子、大丈夫かな?」
無垢な瞳を向けてくる少女に、ノークレンは視線を逸らすことしかできなかった。
それを奪ったのもノークレンである。
家だけではない。多くの住民が王都から逃げられたものの、ここにいる中には、逃げ遅れて家族や財産を失った者もいることだろう。
ノークレンの存在に気付き、わらわらと他の住民たちも集まってくる。
「本当に王女様なのか」
「本物なのか」
口々に、その真贋を見定めるように、住民たちは『偽物』の王女を見やった。
逃げ出したくなった。
けれど足は震え、竦んでしまっている。
もはやどんな罵声をも覚悟したノークレンだが、しかし取り巻くように集まった者たちは皆、一様に頭を垂れて膝を折っていった。牧師までもが傅き、深く頭を下げる。
「よかった。ご無事だったのですね、ノークレン様」
恐れていたよりもずっと柔らかい声調に、ノークレンは驚きながら、俯いた視線を持ち上げた。
見渡した彼らに、一切の敵意を向けてくる者はいなかった。
「どうして……」
言葉が漏れる。
グラッドリンドに利用され、ファルドを窮地へと陥れた売国奴と責められても仕方のないノークレンに対し、しかし彼らの表情は驚くほどに柔和だった。
「私を責めないの? 貴方たちの家を失わせてしまったのは私のせいなのに。私が、何も知らなかったから……」
「いいえ、ノークレン様」
力強い否定が住民から返ってきた。
「じゃあ、今回のルーンの侵攻はノークレン様が企てたとでも?」
「え……いや、私はそんな」
「誰もノークレン様がやったとは思いませんよ」
「どうしてそこまで」
純粋な疑問だった。
ノークレンが王座について何年と年月を重ねてきたわけではない。それなのに、どうして彼らはそこまでノークレンを信頼できるのか。
そんな疑問を一蹴するかのように住民たちは言葉を返す。
「そうだ。なにもかも、グラッドリンドの裏切りのせいだ」
「あいつがルーンを招き入れなければこんなことにはならなかった」
口々に漏れる彼らの不満はグラッドリンドばかりに向けられている。知らぬまま、気付かぬままだったノークレンに無知の責はあるだろうに。
「ノークレン様。どうかまた、ファルドのために祈りを捧げてはいただけないでしょうか」とすら彼らは懇願してくる。
「私に……今更そんな資格は――」
「ノークレン様」
震わせながら返そうとした言葉を、しかしアーセナが遮る。
「貴女はご存知ではないかもしれませんが、実は私も、王都の教会にはよく通っていたのです。そこで即位される前から、献身的に祈りを捧げておられる姿を見ておりました」
牧師が頷く。
「私の教会に、ノークレン様は毎日のように訪れ、私たちのために竜神様へ祈りを捧げてくださっていました。わざわざ町外れにまでご足労いただいて。それほど熱心な御方はそう多くありません。そんな貴女様のファルドへの想いが偽りであるとは、その姿を見てきた私たちには到底思えぬことなのであります」
諭すように優しくそう言った牧師の言葉は、ノークレンの心に染み入るように耳へと届いた。
ふっと、アーセナが微笑を向けてくる。
「それとも、皆のために毎日捧げていたその優しさすらも偽りであったと?」
出生。地位。
嘘偽りで作り上げられてきたノークレンだが、その積み重ねてきた献身は、間違いなく本物である。グラッドリンドに与えられたものでもなく、自分で抱いたものだ。それは誰にも譲れないし、否定させない。たとえグラッドリンドにだって。
ぽたりと、懐に添えていたノークレンの手に水滴が落ちた。それは彼女の目許から頬を伝って滴り落ちていた。
どんどん零れ落ちていく。
抑圧されていた感情を代弁するかのように。
「ノークレン様。どうかファルドを助けてください」
「竜神様は私達を見捨てていない。そうですよね」
「ファルドを捨てたくない。愛すべき母国なのだから」
「どうか、ファルドはまだ死んでいないと――まだノークレン様がいらっしゃると、我らを導いてください」
ああそうか、とノークレンは気付いた。
彼らにとって、未だノークレンは王なのだ。
まだ彼女が偽物であるという事情を知らないのもあるが、それ以上に、竜を崇拝する敬虔なノークレンに対し、まさしく竜の国であるファルドを象徴する者として重ねているのだろう。
王女の祈りが途切れぬ限り、竜の加護は失われない。
牧師が改めてノークレンの前に行き、傅く。
「女王陛下。どうか、迷いし私どもをお導きください」
その限りない忠心に、しかしノークレンは戸惑いを募らせてしまう。
自分なんかでいいのか。
また誰かに騙され、今度こそはファルドすらも滅ぼしてしまうのではないか。
こんな、はりぼてでてきただけの少女が――。
「私がみんなを導くなんてできないわ。私はミレンギのように選ばれたわけでもない。ただの置物なのよ」
どうして足にまとわりつく負の感情。
しかし、アーセナがそれを取り払うように寄り添った。
「旗は立たねばなびかない」
「……?」
「ミレンギ様が言った言葉です。よい言葉だと思います。どうやら彼も誰かからの受け売りではあるらしいですが」
「旗……あの子――ミレンギのことよね」
「ええ。そして、貴女もですよ、ノークレン様」
「…………わた、し?」
「ミレンギ様は、通商連合やユリア様たちが立てた古きファルドの旗。そしてノークレン様は、今のファルドに息づく民草に支えられて根ざす民衆の旗。このファルドには今、二つの旗が掲げられているのです」
竜の使者として立つ者と、人の使者として立つ者。
正統なる王家を継ぎし、古きファルドを背負うはミレンギ。
しかし今のファルドを背負い続けているのは、偽りの泥で作られてはおれど、王の冠を授かっているノークレンである。
そう。
ノークレンもまた、ミレンギと同じく『背負わされし者』であった。
グラッドリンドに利用された時点で、もう『ただの少女』ではなくなっているのだ。
「皆、王の言葉を待っています」
先の道を選ぶのは、ノークレン次第。
その選択によって、彼女に付いてくる国民全員の命運が左右する。
今、こうしてノークレンの前で頭を下げる者たち全ての命が――。
それはただの少女が背負うにはあまりに重い。その責に押し潰されて逃げ出しても、彼女の境遇を思えば同情すら与えかねないだろう。
しかし、その国民たちを救えるのもまた、ノークレン以外に他ならない。
それからしばらく、ノークレンは頭を悩ませたまま教会を後にした。
自室に戻ってからも、独りきりの安心感はなく、教会で励ましの声をかけて見送ってくれた住民たちのことばかりが脳裏を過ぎっていた。彼らだけではない。道端で悲嘆に明け暮れていた者たちのこともだ。
彼らを救いたい。
そんな思いが沸々と込み上げてくる。
しかしどうすればそれができるのか。偽りの王である小娘ごときに。
「私だからできること……」
なにかあるのだろうか。
ひたすらに考え暮れ、やがてノークレンは決意の顔で部屋を飛び出した。
訪れたのは、アドミルの軍師として名を馳せる少年、アイネの元。
突然の来訪に驚く彼に、ノークレンは据えた眼差しで言葉を投げかける。
「私の名において、ルーン軍に書状を送りたいの」
「ノ、ノークレン様! 急にどうしたんですか?!」
たじろぐアイネに、ノークレンは毅然とした顔つきで返した。
「い、いったい何と送るつもりで?」
「――私、ノークレン=ファスディ-ドは、民の安全と引き換えにルーンへ降る用意がある、と」
「ええっ?!」
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