-2 『湯あたり』
荘厳な扉の向こうは、王城のように広々とした内装を持つ屋敷の広間だった。
大理石の床にしわひとつない赤絨毯が敷かれ、壁などは透明な水晶のようなもので飾られている。その水晶の透明度はセリィの魔法の氷柱によく似ていて、ミレンギがミケットからもらった御守りの石にも類似していた。
広間はどうやら応接室のようになっているらしく、装飾の施された大きな皮椅子にミレンギたちは通された。
そこで、久しぶりに出会った少年――アイネと対面する。
「お久しぶりですね、ミレンギ様」
「アイネ……まさか、君が……」
ふと、アイネが目を見開いて首を振った。
「あ、いえ。誤解のないように先に言っておきますが、僕は竜神様ではありません」
「なあんだ、もうー」とシェスタが気の抜けた声で息をついた。「びっくりさせないでよ」とぐいぐいと頬を引っ張られ、アイネが困った風に眉間を寄せて苦笑する。
「僕もここの存在を知ったのはつい最近なんです。ミレンギ様がひとまずクレストを討ち、アドミルが解散されたことによってひとまずはハーネリウス様の元へ戻っていたんです。結局王政はグラッドリンドによって掌握されましたし、僕の居場所はなかったので。そこで勉学に励んでいたところ、通商連合の方に声をかけられたのです」
「アイネは博識なうえに知的好奇心旺盛な子だったからねー。聡明な未来ある子に先んじて現状を理解させるため、一足先に呼んでおいたんだー」
「はい。ミケットさんにここに案内された時は本当に驚きました。まさかこんなところに町があっただなんて。いや、それ以上のことも知れましたし」
そう話すアイネはどこか興奮気味だった。
「あらあら。いないと思ったら、そういう事情だったのね」とラランが穏やかに微笑む。軍師としてだけではなく、まるで弟――いや、妹のように可愛がっていたラランには嬉しい再会のようだ。シェスタも、見知った顔が出てきたことで肩の力がすっかり抜けて破顔している。
しかしことミレンギにいたっては、セリィのことが心配でたまらなかった。
この屋敷に入ってすぐ、セリィは執事服を着た男たちによって屋敷の奥へと運ばれていった。追いかけたかったミレンギだが、ミケットに厳しく制止され、気が気でない思いで我慢している最中であった。
「ミレンギ様。セリィさんのことはご心配なく。竜神様ができる限りのことをしてくださると思います」
「……そう。アイネが言うなら、そうなのかな」
一応は身内であるアイネの言葉も、せいぜい気休め程度にしかならない。
そんなミレンギの陰気めいた雰囲気を振り払うように、アイネが大きく拍手を打つ。
「皆さん、今日はとにかくお疲れでしょう。夜も遅いです。部屋を用意した頂いているようなので、そちらでまずは一休みなさってください。詳しい話は、また明日にでも」
そうしてミレンギたちは、この屋敷の使用人と思われる男たちに案内され、それぞれの部屋へと通されたのだった。
洞窟の中に建てられた木造の部屋はなんとも不思議で、窓から見える景色は空ではなく岩だ。光が差し込む中庭のようなものはあるものの、いくつか草花が茂っているだけで、とても庭園と呼ぶには貧相すぎる。
「ここは何も娯楽がない場所ないんだー。でもここの屋敷の洞窟風呂はとても解放的で心地がいいから、一休みする前に入ってみるといいよー。きっと頭もさっぱりすると思うなー」
そうミケットに勧められたのを思い出した。
どうせぼうっとしていてもセリィのことを考えてしまう。自分を庇うように倒れてしまった彼女は、果たして今も無事なのか。本当にミケットたちに任せていて大丈夫なのだろうか。
堂々巡りの思考を一度消し去るためにも、ミレンギは一人、屋敷の中にあるやや離れた浴室へと足を運んだ。
洞窟の中のため露天とまではいかないが、巨大な空洞を横に掘って作られた洞窟風呂は、壁面の岩に湯面の光沢が反射してとても綺麗だった。
泉質もやや白く濁っていて、ほどよくぬるい水温がじんわりと手足の先まで温めてくれる。しかし夢見心地な幸福感も一瞬で、ミレンギはすぐに、またセリィのことで頭をいっぱいにさせてしまっていた。
それだけではない。
テストの町のこと。ルーン軍のこと。
この数日での出来事が走馬灯のように頭を巡っては、ミレンギに無言の責を押し付けるように脳裏を抉り、去っていく。
ふと、からり、と風呂場の入り口の戸が開く音が聞こえた。
誰かが入ってきたのだろう。公衆浴場だ、関係ない。
ミレンギはただただ自分の思慮に更け続けた。
これから自分たちはどうなっていくのか。
そんな不透明さが怖くなって、濁り湯の中に溶け込んだ自分の体が、今にも消えてなくなってしまえばいいと思いながら、ミレンギは眠るように瞳を閉じた――。
「…………すまぬな。我が愛しき忌み子よ」
沈みゆく意識の中、切なげな声が遠くから、しんしんと聞こえてきたような気がした。
はっと目を覚ましたとき、自分が横になって寝かされていることにミレンギは気付いた。
どうやら逆上せてしまったようで、見開いた視界はどこかぼんやりとしている。明るさは感じられるが、火照った体はいやに熱く、それと同時に肌には寒気が走った。
涼しい風が肌にあたったのだ。
どこか隙間風でも吹いているのだろうか。
いや、違う。
誰かが扇で風を扇いでくれている。
ミレンギの頭を膝に乗せ、まだ目をはっきり開けず意識が朦朧としたミレンギの顔を、微笑を浮かべながら覗き込んでいる。
ミレンギの額に手を乗せ、優しく、赤子をあやすようにそっと撫でてきた。さわさわとくすぐったかったが、妙に心地よくて、いつまでもこのまま眠っていたい思うほどだった。
もし揺り籠で母親にあやされているとしたら、このような心地なのだろうか。孤児であるミレンギにはそんな記憶などないが、それ故に憧れていたものではあった。
こんなことをしてくれるのはラランだろうか。
もうずっと緊張してばかりだったミレンギの心が少しほだされていくようだった。
やがて意識が遠のいていくような眩暈がして、それがようやっと収まると、ミレンギはやっと鮮明な視界を取り戻した。
「おや、気がついたか」
寝転んだまま見上げたミレンギの目に入ったのは、ラランではなく、まったく知りもしない幼い少女の顔だった。
「うわぁっっっ?!」とたまらず大声を出して慌てて顔を持ち上げるミレンギだが、また眩暈に襲われ、その少女によってまた寝かしつけられてしまった。
「まったく大きな声で叫びおって。無理をするでない。まだ安静にしておくのじゃぞ」
優しい口ぶりで、小ぶりな手を這わせてミレンギの頭を優しく撫でる少女。
どうやらここは風呂場の脱衣所のようだ。そこにある背の低い机に、ミレンギは横になって寝かされているらしい。
しかしこの少女はどうしてここにいるのか。
生糸のように綺麗な、床にまで届くほどまっすぐに伸びた白髪。それを同じくらい白い肌。見た目相応のあどけない声に、真ん丸いくりっとしたつぶらな赤い瞳。
そのミレンギによく似た色の眼は、まるで水晶のように透明で、見ていると呑み込まれてしまいそうだった。
「キミは……」とミレンギがそう返そうとした時、ふと思い出した。自分がお風呂に入っていた最中であることを。
咄嗟に自分の体を見やると、腰に布が一枚かけられただけで、ほとんど裸に近い格好だった。気付けば解放してくれている少女も胸元からまいた布地一枚で、まだ貧相な二つの膨らみが薄布越しに眼前に迫り、ミレンギは慌てて逃げるように床へと転がり落ちてしまった。
「ほっほっほっ。元気な奴じゃな」と少女が愉快そうに、淑やかに笑う。
しかしミレンギは笑っていられる気分ではない。
どうしてこんな状況なのか。この現場を誰かに見られたらどう言えばいいのか。
と、運が悪く、脱衣所の扉が開かれる。
「ミレンギ! さっきの悲鳴はなに! 大丈夫?!」
息を切らせて駆けつけてきたのはシェスタだった。
彼女は室内にいる半裸のミレンギと半裸の少女を交互に見やると、顔を真っ赤にして激しく怒鳴った。
「あ、あんたたち、なにやってんのよ!」と。
それは洞窟中に反響したほどの騒がしさだったという。




