-11『幼き竜』
それからのことは、ひどく現実味のない夢の中の出来事のように、ミレンギの瞳に映っていた。
馬車から崩れ落ちるように落下したセリィ。
慌てて荷台の外を見やったミレンギに、眩い光が視界を奪った。
次の瞬間、路端にセリィの姿はなく、見上げた頭上から、日の光を遮る大きな影が落ちていた。
日輪を背にして頭上に浮かび上がる、青みがかった何かの輪郭。
――それは、竜だった。
暗緑色の竜よりは少し小柄だが、宝石みたいな綺麗な鱗が輝き、透き通るような翼膜を大きく広げ、赤い瞳を浮かび上がらせるそれはまさしく竜であった。
その澄んだ蒼の色をした竜はややふらつきながら、巨大な翼を羽ばたかせて飛翔する。そして暗緑色の竜へと一直線に向かい、鋭い牙を突き立てた。もう一方の竜もそれをかわし、喰らい返してやらんとばかりに襲い掛かる。
青い竜はひどく動きが鈍く、緑の竜の牙に尻尾を噛みつかれて悲痛な咆哮をこぼした。よく見ると尻尾どころか、最初から肩に深い傷ができている。血が流れ出て雨のように地面を赤く染めていた。
しかしそれでも青い竜は必死に緑の竜に食らいつこうと、激しく翼を動かし、口から蒼炎のブレスを吹きかける。片方が一度距離をとってはすかさず追いかけ、八の字の軌道を描きながら、時に青と緑の二色の炎がぶつかり霧散する。
緑深き竜と青白き竜。
二匹の竜による、人知をはるかに超えた戦い。
逃げ惑うファルドの馬車を屠るように暴れる竜と、それを阻止して守ろうとするように向かい行くもう一匹の竜の激突を、ファルド軍もルーン軍も、夜空の流星を眺めるがごとく夢心地に見上げていた。
「この世の終わりなのか」と誰かが声を漏らす。実際、天災でも訪れたのかと思うほどだった。
目の前の光景を、ミレンギはただ、茫然自失と眺めていることしか出来なかった。
やがて青い竜が緑の竜に深く噛み付かれ、一際大きな鳴き声を轟かせた。
そこは元々傷口があった場所、左肩だ。緑の竜が傷を更に抉るように首を捻ると、青い竜は大量の血と傷口から噴き出させ、やがて気を失ったように地面へと落下していった。
「……セリィ」
ミレンギは思わずそう呟いていた。
いや、あの竜はどう見てもミレンギの知る少女ではない。しかし左肩の傷や、地に叩きつけられてもなおミレンギを守るように立ち上がろうとするその青き竜の姿を見て、思わずそう口にせずにはいられなかった。
いや、もはや確信だった。
「ちょっと、ミレンギ!」
ミレンギは突然荷台から身を乗り出すと、シェスタの驚きの声も待たず、そのまま馬車を飛び降りた。そうして、大量の血を流して地に落ちた竜へと駆け寄る。
「大丈夫か! 傷は?」
苦痛に唸る竜の体を擦ってやった。
竜の赤くつぶらな瞳がミレンギを映しこむ。
竜はミレンギに気付くと、甘えるような声を出してミレンギの顔に鼻先を擦りつけた。
次第に竜の体が光り、巨大な竜が幼い少女の姿へと変わる。それはやはり、ミレンギのよく知る銀髪の少女、セリィだ。
ミレンギは不思議と何の驚きもなく、セリィの体を思い切り抱きしめた。
セリィは身体中が傷だらけで、いたるところから血が止まらずにいた。頭を力なくうなだらせ、瞼もほとんど開いていない。かろうじて息はしているものの、眉間を寄せてひどく苦痛を訴えかけていた。
「セリィ、立てる?」
声をかけてみるが反応がない。
頭上には未だ、あの暗緑色の竜が飛び回っている。
今はセリィが何者かなんてのはどうでもいい。とにかく逃げなければ。
「背負っていくから捕まってて。いいね」
声をかけてみるがやはり返事がなく、指先がほんの少し動く程度だった。
「その子はもう無理だよ」
ふと、背後から声が投げかけられた。
振り返ると、馬車を引き返して戻ってきたミケットが立っていた。
「無理って、どういうことさ……」
「竜の力を使い果たしてる。きっと、ずっと無茶をし続けてたんだ。このままじゃあ放っておいても死んじゃうよ」
「そんな!」
ミケットは明らかに何かを知ってる風な口ぶりだった。
しかし今はそれよりも、セリィが助かるかどうかが、ミレンギにとっての全てだった。
止まらない血。傷だらけの身体。
瀕死であることは見るまでもなく明らかだ。
「どうにかならないの! 傷を癒す薬草でも、魔法でも! なんでもいいよ! 通商連合なんでしょ! 万病に効く薬とか、」
「竜の力はそんな俗人的な方法じゃ癒せない。回復魔法を使える者がいたとしても、せいぜい痛みを和らげられるくらいだよ。力までは取り戻せない」
「そんな……やってみなきゃ、わからない、じゃないか……」
「わかってるんだよ」
ミケットの言葉は現実を突きつけるように重く、鋭かった。
魂が抜けたように力なく手足をしな垂れさせるセリィの体をミレンギは強く抱きしめた。彼女の白雪の肌は血と土で汚れ、ミレンギがこぼした涙の跡だけが、綺麗な筋を作って流れていく。
「――助けたいかい」
またミケットが一言。
咄嗟に顔を持ち上げたミレンギに、ミケットが手を差し伸べる。
「だったら一緒に来て。今ここで、貴方とその子を死なせるわけにはいかないんだよ」
何をこんな状況で悠長にそんなことを言っているのか。そう思いたくなるほどに絶望的で、すぐ真上には蝋燭の火を吹き消すように容易く命を奪ってくる死神が飛んでいるというのに、どうしてそんな前向きな言葉をかけられるのか。
「どうして、ボクを」
「ミレンギ。キミじゃなきゃできないことがある。キミがあたしたちの希望なんだ」
「ボクじゃなきゃ……」
ついさっきセリィにも投げられた同じような言葉に、ミレンギはゆっくりと顔を持ち上げた。それっていったい、と尋ね返そうとするミレンギだが、そう悠長にしている時間などない。
上空を飛び回る竜の真紅の瞳がミレンギたちを捉える。そして竜はすぐさま急降下し、狙いを定めて突っ込んでいた。
「まずい」
焦るミケットだが、かわす手段などない。
仮にかわせたとしても、追撃に出てきたツーんぐんの隊列が目と鼻の先にまで迫ってきている状況だ。
もはや絶体絶命。
せめて抱きかかえたセリィだけでも守ろうと、ミレンギが必死な思いで背を向けた時だった。
――グォォォ! と竜が突然高く唸り、動きを止めた。
その竜の翼膜に、数本の矢が突き刺さっていた。
「ふぅー。なんとか間に合ったみたいだねー」と、大袈裟に溜め息をついたミケットが軽口を叩く。
彼女が見やった視線の先、逃げ道となる北方の街道に、幾十人と並んだ弓兵が矢を番えて構えていた。
その背後に立つ赤色の鎧兵にはミレンギも見覚えがある。
途端、追撃に迫る大勢のルーン軍の頭上に巨大な獏炎魔法が降り注いだ。
隊列の一部を吹き飛ばしたその爆発によって土煙が周囲に立ち込め、視界が悪くなる。
その隙に乗じるようにミケットはミレンギの腕を強く引き、セリィごと馬車に押し詰めた。すかさず発車させ、弓兵たちの構える北方へと馬を走らせる。
なおも上空から襲い来ようとする竜を弓兵による斉射が牽制し、地上の敵も爆炎魔法によって道が塞がれる。
竜と魔法で荒地となった街道を、ミレンギを乗せた馬車は縫うように蛇行して走りぬけていった。やがて弓兵部隊までたどり着き、通り過ぎた馬車を追うように彼らも撤退を始めていく。
弓による牽制。いや、セリィとの戦闘で消耗しているのか、竜の勢いも衰えてきはじめている。
やがてミレンギたちは王都北方の宿場町アゼットにまでたどり着いた。しかし足を止めている場合ではない。
「このまま森に入るよー」
やや余裕を薄めた笑みでミケットが言うと、馬車はそのまま速度を落とさずに北方の大森林――静寂の森へと突入していった。
狭くなった街道に車輪が弾み、激しい振動に襲われる。
衝撃で荷車ごと瓦解するのではないかと思うほどの揺れだ。足に力を入れてなくては転倒しかねないほどに。
しかしミレンギはそんなことにもまったく気を向けず、ただただ、懐で苦しそうに息を乱して瞼を閉じているセリィを抱きかかえ続けていた。




