-10『無謀の献身』
――竜。
それはファルドで古くから語られる伝承の中の生き物。
国を興した英雄アーケリヒトを支え、この国に多大な繁栄をもたらしたとされる伝説的存在。しかし現代に竜の姿を見たものなどなく、もはや竜そのものは空想上の絵物語の生き物だろうと思う者もいるほどだ。
竜とはファルドを見守る守護神の象徴。
その姿を象った国旗が示すとおり、竜の存在あってこそのファルドであった。
王都の教会では毎朝信心深き者たちが竜に祈りを捧げ、今日の繁栄と将来の安寧を願う。この国で生まれた子どもは寝物語に竜の伝承を語り聞かされる。ファルド国民の生活の根幹に深く根ざす、偉大な存在である。
「どうして……竜神様はファルドのお味方ではないのか……」
「我々を護ってくださらないのか……」
護られるべきものに命を狙われている。
ファルド兵がそう絶望に満ちた声を漏らすのは仕方のないことだった。
ファルド軍の馬車が北門から町の外へと一斉に逃げる。
突如現れた巨竜に幾台かの馬車が潰され、何十という兵たちが路端に放り出された。そんな彼らにすかさず暗緑色のブレスと結晶柱が襲い掛かる。
中空に浮かぶ巨大な影を前に、遁走するファルド兵たちはひたすらの恐怖に怯えていた。
ミレンギたちも馬車を出し、巨竜から逃げながら先発したノークレンを追う。
「いったいあの竜はなんなんだ」
荷台の天幕からその獰猛な羽蜥蜴の姿を見上げたミレンギは、目を逸らしたくなるほど怖気づく心を必死に堪え、真っ直ぐに見据える。
あの眩い閃光の時からだ。
ユーステラという女性がいたはずの場所から突然竜が現れた。
どういう手品か。
魔獣を召喚することができるとでもいうのか。
聞いたことがない。
そもそも魔獣を手懐けているアニューすら珍しいのだ。それを自在に出現させ、使役するなんて芸当が魔法でもできるのだろうか。それも、竜という怪獣を。
「あんなの反則だって」と馬車に同乗するシェスタが憤慨をする。目の前に広がるのは悪夢そのものな光景だが、自分の中の不安を押し殺そうとする精一杯の強がりなのだろう。
上空を飛来してくる竜は手当たり次第に、目に入った馬車へと攻撃していく。
どうやらノークレンの馬車を見失っているらしい。獣のような唸り声を上げながら、知性をなくしたように雄牛のように暴れまわっている。
王都から北に広がる街道は、竜が通り過ぎるたびに暗緑色の炎で焼かれた焦土へと変貌していた。まさに災害が通り過ぎているような光景だ。
確実に一つずつ馬車を破壊していっているその竜が、先行しているノークレンの馬車を捉えるのも時間の問題である。
「あの竜を止めないと」
ミレンギはそう言ってはみるものの、その手段なんて思い浮かぶはずもなかった。
人知を超えた脅威を前に、冷や汗を垂らしながら、ただ見上げて奥歯を噛み締めることしかできなかった。
願わくば目の前の光景が夢であれば良いのに。
馬車にゆられるファルド兵たちは揃ってそう思っていることだろう。
一台――また一台と、ミレンギたちの後続の馬車が竜に襲われ、粉々になって停車していく。
「どうすれば……ボクには、何もできないのか……」
自分の非力さが胸を刺すように痛い。
前王の隠し子として持ち上げられ、その真偽が疑われて失脚した後もファルドのためにと努力をし続けてきた。その結果がこれだというのか。
そう、ファルドのため。
それなのに、今はその象徴である竜に命を狙われている。
自分は間違っていたのだろうか。
ルーンこそ、竜に守護を受けし正統なる後継とでもいうのだろうか。
自分がこれまでやって来たことは――。
ガーノルドやチョトス。これまでミレンギのために犠牲になってくれた人たちのことが脳裏を過ぎった。
もうぶれないと、もう頭を下げないと決めたはずなのに、その根幹が崩れようとしている。一瞬にして後悔が押し寄せ、遥か広大な海の底に叩き落されたようで、自責の渦に心ごと呑み込まれてしまいそうだった。
そんな彼の握り締められた拳が、そっと優しく包まれる。
「……ミレンギ」
セリィだ。
ずっと馬車の荷台で横たわっていた彼女は、まだ傷口が癒えていない体を無理に起こし、ミレンギの元へと寄り添ってきた。
ミレンギが挫けそうになった時にはいつもこうやって勇気付けてくれた、小さくて温かい手。けれど今度ばかりは、それだけではとても収まらないほどに沈み込んでしまっている。
「ミレンギ……私が、助ける……」
傷の痛みを堪えながらも、尚もセリィは甲斐甲斐しくそう言ってくれる。けれどそれが、今のミレンギにはひたすらの苦痛にしか思えなかった。
「……なんで」
「…………?」
「なんでそこまでしてボクに尽くそうとするんだ」
つい言葉尻が強くなってしまう。
「どうしてボクなんだよ! ボクに何が出来るって言うのさ! これまでさんざん戦ってきて、右も左もわからずに突っ走ってきて、その結果がこれなんだよ!」
ミレンギは救国の英雄でもなんでもない。
少し曲芸が得意なだけのただの子供なのだ。
そうやって育ってきたし、目の前の命を救えるような全能の力なんて持っているはずもない。
「こんなの……ボクが背負うには重過ぎるよ」
珍しいミレンギの激昂に、周りにいたシェスタやラランたちも驚いた顔を向けていた。
「ボクじゃ……無理だ……」
久しぶりの弱音。
堪えたいのにどうしても零れてしまう。
もう下を向かないと、ガーノルドに誓ったはずなのに。
しかしそれでも、セリィは決してミレンギの手を解こうとはしなかった。
ひたすらに優しい目でミレンギに微笑みかける。
「――できないことは、私がする。だから、大丈夫」
まるで母親が子を諭すような慈愛に満ちた声だった。
「ミレンギは、ミレンギにできることを、すればいい……」
「ボクに、できること……」
「その道を開くのが、私の、役目だから……」
のろりとセリィが立ち上がる。
車輪がくぼみを踏んで激しく揺れたが、彼女は精一杯に顔をしかめながら踏ん張る。
「セリィ?」
「……ミレンギ。護る、から」
そして、ひどく穏やかな横顔を見せながら、セリィは高速で走る馬車の荷台から飛び降りたのだった。




