-9 『悪夢の怪物』
平然と立ち尽くす碧髪の女性に、ファルド兵たちは騒然とざわついていた。
魔法による圧倒的殲滅力。
暗緑色をしたその結晶の刃がいつ自分たちへ向けられるのかと、多くが恐怖に身を震わせていた。
それでもなお勇気を奮って取り押さえようとした兵すらも、彼女の魔法によって一瞥すらされないままに身を貫かれたのだった。
血も通っていないかのようなユーステラの冷淡な瞳が、ふとノークレンへと向けられる。瞬間、ノークレンの頭上に降り注いだ結晶を、アーセナが身を引き寄せてどうにか回避した。
「ユ、ユーステラどの。奴は生かしたまま確保するはずでは」
「容易に降らぬならば確実に滅せよ。主様の命令です」
「私の手元に預けてくださるお約束では」
「それは貴方が失敗しなかった場合のこと」
ユーステラの赤い瞳がグラッドリンドを鋭く睨む。
その眼圧の責に、グラッドリンドは蛇に睨まれた蛙のように身を縮こまらせた。
ユーステラ。
彼女はいったい何者なのか。
その不明瞭さがより一層の不気味さを駆り立てる。
しかし明確にわかっているのは、彼女が一兵卒にはとても敵わないほどの強者であるという事実のみ。もはや彼女を取り囲むファルド兵のほとんどが、無闇に手を出そうという気力を削がれていた。
この女に関わってはいけない。そう暗黙に理解した。
そんな緊張の走る中でも唯一平静を保っていたのはアーセナだった。
「退きましょう」
でたらめな魔法を使うその女性を相手にして果たして敵うのかもわからない。それに無駄に時間を使えばルーン軍が防衛線を乗り越えてやって来ることだろう。
そんな切羽詰った状況での迅速で、的確な判断だった。
「軍の厩舎の確保も先ほど済ませました。そろそろ馬車の準備が整った頃のはず。ノークレン様はそれですぐにでも撤退を」
進言したアーセナに、ノークレンが悲痛な表情を浮かべて掴みかかる。
「王都を見捨てるというの? まだこの町には逃げられていない市民だっているはずなのに!」
「下手な抵抗をしなければ、彼らの命も無下にはしないはず。民草とは国の血肉。そう身を削ることもないでしょう」
それがどこまで真実かはアーセナにもわからない。しかし今はその言葉を鵜呑みにさせ、この国の心臓を止まらせないようにするほかなかった。
「撤退する!」
もはや指揮系統すら混濁した防衛拠点に、元騎士団長補佐の少女の声は清くはっきりと響き渡った。
それとほぼ同時に、ルーン軍との狭間に設けられ障壁の方から何かが崩れ落ちる巨大な音が届いてくる。ユーステラの魔法を皮切りに攻め入ってきたルーン軍が突破してきたのだろう。
いよいよ状況は切迫し、表情を渋らせ続けていたノークレンもついに頷かざるを得なくなっていた。
「王女様を守りながら後退! 北門の馬車へと向かう!」
ノークレンを引き連れて走り始めたアーセナを中心に、ファルド兵たちが一斉に撤退を始める。しかしユーステラもそれをよしと眺めているはずもなく、すかさず追撃の足を進めていた。
要人を護る為に身を挺してでも進路を塞ごうとするファルド兵を容易く魔法で振り払うユーステラ。その背後には、グラッドリンドを囲んでいた黒色の鎧兵や突入してきたルーン軍が波のように続いてくるのが見える。
その波に呑まれたら最後。
絶望的な物量が、急ごしらえに敷いた木柵すらも踏み潰すように襲い来る。
アーセナの指示は徹底した撤退。無駄に交戦せず、可能な限り逃げ延びる。
「ファルドの血潮を途絶えさせるな! 自分がファルドの手であり足であることを忘れず生き延びろ!」
鼓舞するような猛々しいアーセナの声に、ファルド兵たちは力の限りの逃走を繰り広げた。
「まったく。なんか俺たち、川の向こうから今日はずっと逃げてばっかりじゃねえですかい?」
ミレンギも自分たちが乗ってきた馬車の元へ逃げ始める中、ハロンドが自嘲まじりにふざけて言う。
笑い話にするには些か厳しすぎる状況だ。その無神経さに、併走していたラランが嘆息をこぼして呆れる。
「ハロンドさん。もう少し真面目にしてください」
「俺はいつだって真面目ですぜい。俺にかかりゃあ、奴らを食い止めるなんてちょちょいのちょいでさぁ」
「調子の良いこと言って……。蹴躓いても置いていきますよ」
「おいおい、そりゃあねえですぜ」
ふざけた調子のハロンドだが、軽口を叩けるだけ良いほうだろう。少しでも逃げ遅れたファルド兵たちは、そんな口も利けぬままに、ユーステラの魔法によって撃ちぬかれていた。
アーセナたちが北門へたどり着き、すぐにノークレンを乗車させる。彼女を乗せた馬車は護衛の兵をつれ、急ぎ出発して難を逃れた――かと思った。
しかし。
「……逃がさない」
そうユーステラが重たく呟いたかと思うと、その言葉とは正反対に、彼女の足がぴたりと止まる。途端に彼女の体が、これまでにないほどの強い発光を纏い始めた。
巨大な魔法か。
いったいどんな、どれくらいの規模の。
馬車にたどり着いたミレンギが、思わず見惚れるようにそれに注視する。しかし一向に周囲に暗緑色の結晶が現れる気配はなく、しばらくの静寂の中、ユーステラはやがてその光に全身の呑み込まれていった。
そして雷光が走ったかのような一瞬の眩しさが辺りを照らしたかと思うと、眩んだ目を持ち上げたミレンギは、目の前に広がる光景に絶句した。
「…………っな。なに、これ?」
唖然と声が漏れる。
開いた瞳に飛び込んできたのは、眼前に広がる、まるで焦土のように焼け焦げた風景。敷かれていた木柵が全て黒炭に変わり、周囲の建物すら崩れ落ち、所々に緑色をした奇妙な火がくすぶっている。
まるで最初から平野であったかのように焼け焦げた地面が広がっていた。
いったいどんな魔法を使ったのか。
――いや、それ以上にミレンギが目を疑ったのは、その焼け野原となった中心に浮かぶ『それ』だった。
まるでグルウのような鋭い牙。縦長の瞳孔を持つ赤い瞳。金属のような光沢を見せる暗緑色の皮膚。そして、背中から生えた巨大な翼。
獣と呼ぶにはあまりにもおぞましく、しかしどこか神々しさすら纏っているそれは、まさしくこの国の者たちが『竜』と呼んでいるものだった。
蜥蜴のような体躯に広々と羽ばたかせる巨大な翼。グルウですら小さく見えるその巨躯が見下ろす様は、足が竦みそうなほどの圧を感じられる。
日の光に照らされて上空に浮かび上がるその『竜』の姿は、神が光臨でもしたかのごとき神聖さがあった。見上げたファルド兵たちはその光景に見惚れ、逃げる足を止めてしまう者すらいたほどだ。
しかしそんな者たちに、竜は息を吹きかけるように容易く暗緑色の炎を吐きだし、一瞬に炭へと変えてしまっていた。その竜の足元で逃げ遅れたファルド兵は、炎こそ当らないものの、今度は結晶魔法が余すことなく襲い掛かって殺されていく。
ファルドに古くから伝わる竜という伝説の存在。
それが今、自分たちに牙を向いているという異常な光景に誰もが目を疑った。
「おいおい……さすがにあれは食い止められやしませんぜ」
ハロンドも、嘲笑を浮かべる余裕すらなく呆気にとられていた。




