-10『伏せる獅子/始まりの狼煙』
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ぽつり。ぽつり。
水の滴る音が、広すぎる空間に反響していた。
いくつもの丸い柱が連なった場所。天井ははるか高く、まるでそこは巨大な洞窟かなにかのよう。静かで、無機質で、生命の存在の切れ端すら存在しないのではないかと思うほどだった。
そんな虚無と静寂を体現したかのような部屋に、ただ一人、腰掛ける男の姿があった。
筋肉のついた体格のいい身体。獅子の鬣のような金色の髪。
厳つい顔つきのその男は、ただ静かに、瞼を閉じて瞑想をしていた。
そんな彼の背後に、音もなく、一つの人影が歩み寄る。
外套を被っているが、胸元のたわわなふくらみから女性と窺える。
その女に気付き、男はかっと目を見開いた。
「申し訳ありません。邪魔をしてしまいましたか」
「そう思ったならば、これ以上邪魔せぬよう声をかけぬことだ」
「…………申し訳ありません」
影の声に、男は不機嫌さを明白にして応える。
薄暗い部屋に浮かび上がった男の鋭い眼光がその人影を捉えた。
蛇が睨みを利かせるような力強さ。
並大抵の人間であれば卒倒してしまうのではないかと思うほどの威迫。
しかし彼の傍らに寄り添った人影は、それをまったく気にも留めず、男の目の前に傅いてみせた。
「ファルド軍は着実にシャンサへと集結しているようです。聖堂も健在の様子」
「そうか」
「こちらも準備を問題なく進めています。ガセフ様はいかがいたしますか」
そう問いかけられた男――ガセフはおもむろに立ち上がり、深く鼻息を吐いた。
「言わずもがなだ。仕度をしろ」
「かしこまりました」
頭を低く下げ、外套の女はまた音もなく姿を消す。
空虚な部屋に独り残されたガセフは、その空間の真ん中にぽつりと存在する、この場から浮き立つほど無駄に豪奢な椅子へと歩み寄った。
それは簡易の玉座であった。
仮初の玉座。
設けられたものの、長く誰も座っていないそれは埃が被っている。その手すりをガセフを思い切り蹴飛ばし、砕いた。
「ついにこの時が来た。竜の加護に選ばれしはどちらか……」
不敵な笑みがこぼれる。
「竜の子よ。いずれ相見えようぞ」
その孤高な男の呟きは、誰もいない深淵へと消えるように失せていった。
◆
「やいお前たち! ノークレン様への忠義はしかと持ったか!」
部隊長ギッセンは、シャンサの指揮所前で立ち並ぶ義勇兵たちに声を張り上げていた。
ミレンギやシェスタ、ラランたちも列に並び、耳を傾ける。
「お前たちはノークレン様の矛であり、盾である。その栄誉をしかと胸に抱き、これよりおこなう任務を遂行するのだ。作戦内容は聞き逃さないようしかと耳を傾けるのだぞ。お前たちがノークレン様のお顔に泥を塗らぬよう、その立ち居振る舞いと立派な戦功をもって、ファルドの栄光をしかとルーンの奴らへしらしめるのだ!」
ギッセンの喋りは非常に饒舌だったが、その高圧的な口調には耳にまとわり付くような不快感があった。
シェスタが聞こえないように舌打ちをしている。よほど嫌いなのだろう。ミレンギは苦笑を浮かべながら、その音が彼に届かないかとヒヤヒヤしていた。
ギッセンは自他共に認める王族への忠誠深い信者だ。
王家の命令であればその命すら差し出す覚悟だという。
いつかの港町の住民たちを思い出し、ミレンギは複雑な気分だった。
王のためならば命すら。
それほどに、王族というものは大事なのだろうか。
自分が王族とは関係がないとわかり、改めてファルドの内情を見てみると、その得意さが際立って見えてくる。いくら王政の国があれど、これほどに信心を得続けているのは奇妙な光景だろう。
命を賭してまで信念を貫く。
ガーノルドのことを思い出して、ミレンギはやるせない気持ちに駆られた。
遺志を託されることの重み。
ミレンギは、ガーノルドに託された思いをまっとうできているのだろうか。彼の死を意味のあるものにできているのだろうか。
考えれば考えるだけ、その思考は卑屈に掘り下がっていく。
――命の重さはみんな一緒なのに。
けれどそれを口にすると、なんだかガーノルドを裏切るような気がして、ミレンギは喉の奥に呑み込んだ。
「それではこれより、出陣する! しかと心を奮い立たせよ!」
ギッセンの号令にミレンギたち志願兵も声をあげ、拳を高く掲げた。
義勇兵を主力とした突撃部隊による越境作戦が始まる。
士気の高まりは十分だった。
現在の時刻は深夜。
曇天で月も星も隠れ、身を隠せるほどに暗い。
ノークレンの政策による軍備拡充によって武器や防具も質の良いものを義勇兵にも配られ、人数だって多く集まっている。
なにもかもが好条件。
ミレンギたちに風が吹いていると、誰もが感じた。
これからファルドによるルーン攻略の波が押し寄せる。自分たちがその一波になるのだと、兵士たちは各々に気分を昂ぶらせていた。
「それでは行くのである!」
「おおおお!」
ギッセンの威勢の良い指示に、志願兵たちは雄叫びのような声を上げた。
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