-8 『決戦前夜……シェスタ』
――決戦前夜。
テストの町はいくつもの篝火を燃やし、戦いへと赴く兵たちの最後の宴とばかりに飲めや歌えの大騒ぎが繰り広げられていた。
ついに竜との戦いが始まる。
その恐怖や不安を消し去るように、ノークレンたちが大盤振る舞いで用意させたものだ。ミケットら通商連合がたくさんの酒や食料を工面してくれた。火を囲んで踊ったり、酒樽を開けて飲み競ったりと、一年に一度のお祭り以上の盛り上がりを見せていた。
「まるで昼間のような賑わいね」
領主邸の一室。
宿泊用に用意されたその部屋の窓から外の喧騒を眺めながらシェスタがそう呟いていた。チョトス候に宛がってもらったその部屋は広く、二つ並んだベッドの片方ではアニューが気持ちよさそうに寝息を立てている。
「明日は大忙しになるからね」とミレンギは苦笑を浮かべ、シェスタに飲み物を渡した。酒ではないが、このテストの近隣でとれる名産の葡萄を絞ったものだ。香りがよく、苦味もなくて口当たりがいい。
シェスタはミレンギから受け取って口をつけると、美味しい、と満足そうに口許を緩めていた。
「いよいよ明日なのね」
「そうだね」
珍しく緊張しているのか、シェスタの声は少し高かった。
さすがに竜を相手にするのだ。それも、十数年前には父親であるガーノルドやユリアも挑み、それでも失敗した英雄の救出に臨もうとしている。
竜の強大さはセリィやユーステラでよく知っている。だからこそ、余計にその恐怖が肌身に感じてしまっているのだろう。
「……シェスタ、やっぱりキミは」
「あたしも行くわよ!」
たまらずミレンギが言おうとした言葉を、シェスタは強い言葉で遮った。
「まさかここに残れとでも言うつもりだった?」
「……だって、シェスタはこの前の戦いで怪我もしてるし」
「平気よ、もう治ったわ」
「明日の戦いはきっと熾烈なものになると思うし」
「今までだってそうだったじゃない」
「もしシェスタに何かあったら、ガーノルドになんて言えばいいかわからない」
「それこそ、ミレンギも守らずに安全なとこでぬくぬくしてたなんて知られたら怒られるわよ」
何か言えば簡単に反論で制してくる。
どうにかして彼女を留まらせることは不可能のようだ。
内心、ミレンギもそうなるのだろうとはわかっていた。けれど彼女のことが大切であることも事実で、言わずにいることもできなかった。結果として見事に予想通り拒否されたわけだが。
苦笑を浮かべたミレンギに、シェスタはふんと鼻を鳴らして胸を張る。
「英雄の息子だろうが、あたしの可愛い弟だからね。お姉さんとして最後まで面倒みてあげるわよ」
「もう、シェスタはまだそんなことを言う」
「……言わせてよ。もう戦いも最後かもしれないんだからさ」
「シェスタ――」
「あんたを守らなきゃってずっと思って生きてきた。それが私の役割だって、お父さんから託された使命だったから。いつかはミレンギを中心に戦いが始まる。だから兄妹のような関係も崩れ、主従としてこの生を費やすんだってわかってた」
ふとシェスタは腕を頭の後ろで組み、からっと笑った。
「でもさ、ちょっと思ってたんだ。ミレンギと一緒に、ううん、ミレンギだけじゃなくてお父さんやアニュー、ララン、他のみんなと曲芸団として走り回ってたあの日々。芸の稽古は大変で、つらいこともいっぱいあった。けれど見に来てくれるみんなは楽しそうに笑ってくれて、公演を終えるとみんなで飲めや歌えやで騒ぎ通した。あんな毎日が、ずっと続いたらいいなって」
それはミレンギの成人によって唐突に終わりを迎えた。定められていた終幕だった。
「もしミレンギの運命が決まってなくて、普通の人としてあのまま暮らしてたら、あたしたちはどうなってたのかな」
「曲芸団のこと?」
「それもそうだし――」
シェスタの頬が赤く染まり、口許の前で指を絡めて唇を隠す。そして消え入るような小さな声で、
「あたしとミレンギのことも、さ」
そう呟いたシェスタはやがてすぐに、顔を熟れたりんごのように真っ赤にさせていた俯いてしまっていた。そうしてミレンギに、部屋に置かれてあった寝具の枕を投げつけてきた。
「うわっ、なにするのさ」
「うっさい馬鹿。乙女の発作よ、馬鹿!」
「な、なにそれ?!」
「女の子はいろいろと複雑なの!」
次に机においてあったメモ帳。筆ペン。
近くにあるありとあらゆるものを投げてきた。
ようやく投げられるものもなくなった頃にやっとシェスタは大人しくなった。
「ねえ、ミレンギ」
「なに、シェスタ」
「あたしは、ちゃんとミレンギの役に立ててるかな」
急降下したように沈んだ声でシェスタが問う。そんな彼女に、ミレンギはそっと歩み寄り、抱きしめてやった。不思議と恥ずかしいという気持ちはなく、ごく自然に体が動いていた。シェスタも一瞬だけ驚いていたが、すぐに眼を細めて身を委ねた。
シェスタの体は思っていたよりもずっと小さくて、本当に、ただただか弱い女の子のようだった。いつもミレンギを叱ってきたり、強く言ってきたり、そんなお姉さんのような力強さはそこにはなかった。
ミレンギが成長したせいもあるだろう。
けれどそれは、彼女やガーノルドたちがミレンギをこれまで守ってきてくれたからだ。
「なってるよ、とっても」
「……うん」
「今もそうだ。シェスタの声を聞くと、シェスタの姿を見ると、シェスタの優しい手に触れると、ボクのいる場所はここなんだって、とっても安心させてくれてる」
「…………うん」
瞳を閉じて身を預けたシェスタの目許から一筋の雫が伝った。
「今までボクのことを守ってくれてありがとう。でも、今度の戦いできっとその関係も終わる」
「ミレンギ? ……まさか、死ぬつもりで」
「ううん。違うよ」
はっと顔を持ち上げたシェスタに、ミレンギは優しく首を振る。少女のあどけない顔が吐息が触れそうなほど近づいた。
「竜の国でセリィを助け出し、アーケリヒトも連れ帰る。それで竜の因縁も、ボクの使命も終わる。そうしたらもうただのミレンギだ。だから、それからは主従じゃなくて、新しいボクたちの関係を築けるはずさ。もちろん、新しい家族だってね」
「その家族に、シェスタもいるんでしょう?」
涙を拭い、シェスタがいたずらに笑みを浮かべて言う。
「えっ、まあ、それは」
「わかってるわよ。セリィも大切な家族。譲れないものだものね」
とん、とシェスタはミレンギの胸を押すように弾んで離れると、軽快な笑顔を浮かべて見せた。それはどこか強がったような儚さを感じさせたが、それでもやっぱりお姉さんなのだと言いたげな力強い笑顔を、ミレンギは嬉しく受け止めていた。
「絶対に戻ってきなさい、ミレンギ。あたしたちと一緒に、この場所に。これは命令なんだから。あんたの大切な家族からの、ね?」
「わかったよ、シェスタ。必ず戻る」
「当然。約束を破ったらわかってるでしょうね」
「ははっ……。また殴られるのかな」
「それも良いわね。あんたを殴るために、どこまでだって追いかけてやるんだから」
「それは恐いや」
ミレンギは肩をすくめながらも、面白おかしく大笑いした。
シェスタと二人で話している時は、ミレンギも肩の荷が下りる。気付けばいつも支えてくれていたのは彼女だった。セリィとはまた違い、直接ミレンギを押し上げてくれる。
だからこそ一緒にいて安心するし、大切だと思える。
シェスタ。
彼女もまた、ミレンギにとってのかけがえのない人だ。
そんな彼女の期待を裏切らないためにも、ミレンギは窓の向こうに見える夜空の月に誓い、心の決意を固く締めたのだった。




