元王が存命であれば齢八十になったであろう年の、ある雨期の日
クーデターによりセメルケト王が王位を失い、処刑され死んだと発表されてから四十年以上が過ぎた。
首都では次の王が即位して長く治世を行ったが、その王も亡くなり、さらに代が移った。
一方、神の屋敷を中心に構えるこの都市は、かつてほどの賑わいこそ失ったものの、地方の一都市として多くの人々が生活を続けていた。
そして変わらず、神の屋敷に挑戦する者たちの訪れがあった。
今では、二つの組合が挑戦者たちに奨励金を出していた。
一方は、商人の組合。その長は語った。「セメルケト王には恩義がありますから。我々は意志を汲みます。……おっと、いいえ、遺志を継ぐ、ですな。今はもうセメルケト王はいないのですから」
もう一方は、日々訪れる流れ者やならず者を治安維持のために管理し、また自警団を組織して安全を取り仕切る組合。ただ、そんな建前の彼らこそが実は近辺の盗賊やその他の犯罪者たちのまとめ役であることは、公然に近い秘密だった。その長は語った。「ああん? 金を出す理由? そりゃ、もらえるもんもらってるからだ。誰に? ぐははは、言えねえなあ! とにかくそいつが金を出す間はこちらも働いてやってる。そいつが死んだら丸ごと奪ってやろうとも思ってるんだが、あのくそじじい、なかなかくたばらねえ。だがもうすぐだろうよ。ぐははは」
尽きない金のにおいに惹かれてか、今では遠い他国からさえも挑戦者が訪れていた。この国には本来いられないはずの、異邦の神を崇める集団さえもが国家の目を逃れて訪れた。
ある日。
雨期の途中、小雨が降る薄暗い雲の下。
一人の老人が、炎の線のすぐ外側に立った。
険しい顔をした老人だった。何百何万の人死を見続けても眉一つ動かさず生きてきたと、その目がそう語っていた。背筋は強情に伸ばされて、年齢に逆らって真っ直ぐだった。
人面の牝獅子が彼を見て、言った。
「愚か者よ。
月の一巡りの間、姿を見せなかったな。ついに死んだと思っていた」
「ふん。死に切れぬのでな。病床から戻ってきた」
「ではまた、叶わない願いのために人々をわたしの元に扇動するのだな」
「ああ、そうだ。死ぬまで」
老人の目が、そこでわずかに伏せられた。付け加えた。
「……だが、長くはないだろうよ。さすがに俺も生き過ぎた」
しかし、自嘲的に口を歪め、人面の牝獅子を真っ直ぐに見た。
「それでも。
死ぬまでは止まらぬ。俺は止まれぬ」
「死ぬまで、か」
人面の牝獅子は、じっと、老人の目を見た。
「いつ頃からか、わたしは考えている。
わたしは、その線を越えた者を殺す機構だ。それがどのような者であれ、排除するのに適した存在へとわたしの身体は変化する。それはわたしの意志でもあり、直感でもある。何かが線を越えた瞬間に、わたしが考えなくとも、わたしの頭には自分が何に変化するべきかが思い浮かぶ。
だが、わたしは考えている。
線を越えていないおまえのことを。
おまえが線を越えたとき、わたしは何に姿を変えるだろうか?
おまえに終わりをもたらす相応しい姿は何だ?」
「ふん。それで、答えは見えたのか?」
老人は、自分の足下数寸先の炎の線を眺めた。
人面の牝獅子は言った。
「はっきりとではないが、予感はある。
おまえに相応しい死を、与えられるだろう。
愚かなおまえの、執念を終わらせるための死を」
「……」
しばらくの間、老人は炎の線を見つめていた。
それはかなり長くの間。
最後に自嘲的に口を歪め、言った。
「ふん。ならば見せてみろ」
老人の足が、炎の線を踏み越えた。
その瞬間。
じっと動かずにいた人面の牝獅子の姿が、その位置のまま、ぼやけた。老人は一瞬、自分の霞んだ目のせいかと思った。だがその姿はすぐに、別の形を取った。
二本の足で立つ、人の姿を。
若く美しい女性の姿を。
老人が忘れたことのない、若き日に失った想い人の姿を。
蘇らせたいと思い、蘇らせると誓った姿を。
老人の口から、声にならない声が漏れた。
「おおぉ、おおおぉ……!」
老人の足が、我知らず、よろよろと前に進んだ。
若い女性の姿は、自分からも静かに歩を進めながら、微笑んで老人を迎え入れた。腕を回し、昔よりもずっと背の縮んだ老人を優しく抱きしめた。
「不思議な気分……。
愚かなあなた。ずっとここであなたを見てきたのに、とても久しぶりのように思えます。あなたがずっとわたしのことを想っていてくれたことが、嬉しくてたまらない。いいえ、わたしはあなたが想っていたわたしそのものではないことをは分かっていますけど、それでも」
「はは、これは残酷でもあるな。
若いままのお前に比べて、俺はくたびれすぎた。お前の姿はまぶしすぎる。
俺に相応の姿になったりはできないか?」
老人は、涙をこぼさぬように瞼を強く閉じながらそう言った。
彼女の声が答えた。
「本当に、わがままなんだから。
ええ、できますよ。
それに、それだけでなく。
あなたに、わたしと過ごした幸福な記憶を与えさせてください」
そっと、頭の両側に彼女の手が添えられるのを感じた。
その瞬間。
老人の頭に奇妙な記憶が宿った。若き日に失ったはずの彼女と、死に別れず、約半世紀にわたって一緒に過ごした記憶。子供を作り、二人で育て、長男に王位を譲り、孫が生まれるまでを見守った記憶。
それは今や、老人が本当に送った人生と平行する形で、彼の中で奇妙に共存していた。
目を開けた。
自分と同じほどの年を取った、けれど好ましい年の取り方をした愛らしい老婆が目の前にいた。新しく得た記憶の中で一緒に年を経た彼女そのままの。
彼女と目が合った。彼女が皺の多い顔で微笑んだ。
老人は言った。
「今、初めてお前の主人とやらに感銘を受けたよ。残された屋敷の番人に過ぎぬはずのお前にすらこんなことができるのだからな」
老婆は静かに首を振った。
「疲れたでしょう。座りましょう」
「ああ」
「わたしの隣に。ほら、わたしに寄りかかって」
「ああ」
老人は座り、彼女の肩に身を寄せた。
ぼんやりと、老人は街の景色を眺めた。
自分の身体が景色の中に溶けていくような気がした。ずっと降り続けていて肌寒くうっとおしいとしか感じていなかった小雨すらが、今は優しく降り注ぐ溶解液のようだった。
眠気を感じて目を閉じながら、言った。
「しかし、話が違うな。
お前は俺を殺すのではなかったか」
「いいえ、違ってはいません。
だって、あなたは、こうならなければ後もう何十年も生き続けたでしょう。あなたの身体はもうとっくに死へと足を踏み込んでいたのに。執念だけであなたは生きながらえたでしょう。
病さえも、あなたの心を少し弱らせこそすれ、止まらせることはできなかった。
だから、わたしはあなたの執心をこそ殺さなければいけなかった。あなたの身体ではなく。
あなたの心が弱っているうちに、あなたをこうして誘って」
「ふん、だとしても俺が線を越えた後は余計だろう。
俺を誘い込んだところで殺せばよかったんだ。俺は死ぬつもりでいたよ。
こうして話をする時間など、本来のお前には無意味だろうに」
「ええ、そうでしょうね」
彼女は否定しなかった。ただ、言った。
「でも、わたしはこうしたかった。それだけ」
「そうか」
「さようなら。愚かなあなた」
「ふん。愚かでも、俺は幸福だったよ。いや、幸福になった、か」
それが、最後の言葉になった。
眠気が意識の全てを覆った。それに逆らうつもりはなく、ただ全てを任せて意識を手放した。
そして、もう目を開けることはなかった。




