第3話 騎士と戦士1-6 追悼
無言でタイオスは、人気のない路上にひざまずいた。
見開いたままの瞳を閉ざしてやり、最期まで男の握り締めていた細剣を固まりゆく指からはがして、鞘に収めた。
おびただしい血痕とえぐられた傷痕を隠す手段を探したが、いい案は浮かばなかった。
「なあ、ニーヴィス」
彼は死んだ男を呼んだ。
「ハルは無事だぜ。とりあえずだけどな。だが、心配するな。お前の遺志を継ぐ……と言えるほど俺は立派じゃないが、できるだけのことはする」
戦士は死んだ騎士を抱き起こした。
「どうする。嫁さんのとこに帰るか。もっとも、俺ぁお前の嫁なんざ知らん。誰かに訊けば判るくらいには有名人なのかねえ、お前らってのは」
タイオスには普段、独り言を言う癖はない。ただ、いまはニーヴィスに話しかけるようにした。彼なりの、それは追悼だった。
「ニーヴィス様……? そちらは、もしやニーヴィス・ハント様では」
驚愕したような声に目をやった。タイオスが小道に入り込んだのを見ていたのだろう、誰かがあとをついてきていることは戦士には判っていたが、素人の立てる無造作な足音だと考え、警戒する必要がないことも判っていた。
案の定、彼が振り向いたそこにいたのは、数名の町びとだった。
「知ってるのか」
「騎士様を知らないシリンドルの人間なんていません」
ひとりの女が進み出た。
「ニーヴィス様……」
「ハント様が」
「亡くなった」
彼らは衝撃を受け、悄然とした。
「何てことだ」
「いったい、誰が」
「誰がやったんでもいい」
タイオスはそう言っていた。
「ニーヴィスは、王子殿下をお守りして、戦った。そのことだけを覚えておけ」
彼がルー=フィンの名を口に出さなかった理由は、ふたつあった。
ひとつには、彼らが仇を討とうとしてあの剣士に立ち向かうようではいけないと思ったこと。タイオスや、ニーヴィスですら敵わなかった若者に、彼らが投石で立ち向かえるはずもない。
もうひとつは、弔い合戦というような方向に持っていきたくなかったことだ。憎しみのために戦うのではなく、あくまでも、シリンドルに平和を取り戻すために行動してもらいたいと。
(……俺には関係ない、はずなんだが)
自分はあくまでも余所者だと思っている。そのはずだったのに、いつの間にかタイオスはシリンドルの騒動を自分の戦でもあるかのように対処していた。
もちろん、この場にいる以上は彼は戦う。だが、あくまでも「雇われ戦士」としてのつもりだった。
だと言うのに――。
「あなたは、タイオス様ですね」
「様」呼ばわりに中年戦士はむずがゆいものを覚えたが、ここは黙ってうなずいた。
「ニーヴィス様のことは、どのように」
「ああ……そうだな」
タイオスは考えた。
「ハルの、いや、王子殿下のところに連れて行ってやりたい気もするが、まだ事態が落ち着いた訳じゃない」
「それでは、私たちのところでニーヴィス様をお預かりしてもよろしいでしょうか」
女は、彼女にできる限りの丁寧な礼をした。
「ボウリス様が、守ってくださいます」
「誰だって?……いや」
戦士は首を振った。
「誰でもかまわないさ。こいつをきちんと〈シリンディンの騎士〉として処遇してくれるんならな」
「もちろんです」
女はうなずいた。
「彼と結ばれたメリエーレは、私の友人なんです。こんなことになるなんて……」
そう言って女は目頭を押さえた。タイオスは慰めるようにうなずいた。
「判った。頼む」
彼女の夫だろうか、ひとりの男が進み出ると、やはり戦士に軽く会釈をしてから神妙な顔で哀悼の仕草をした。タイオスはもう一度「頼む」と言って、ニーヴィスの遺体を男に託した。
アンエスカはこの結果を冷静に推測した。タイオスもだ。もちろん負けるつもりではなかったろうが、おそらくはニーヴィス自身も。
だが年若いハルディールやレヴシーに、勇敢な男の死を告げるのは気が重かった。
(奴らのようなつながりとは少し違うが)
(もし俺があれくらいの頃……アースダルが死んだとでも聞かされれば、どう思ったことか)
かつて、同じ師匠についていた兄弟子のことを思い出した。若かったタイオスをいいようにあしらってはからかった、兄貴分。
実際には彼の訃報など聞くことなく、タイオスは若い内に師匠ラカドニーや兄弟子アースダルと分かれたが、いまでは彼らもどうしているものか。
死んでいるかもしれない、と思う。ラカドニーは無事に引退したとしてももう老齢であるし、アースダルも戦士を続けていれば、若い内に戦死していても何も不思議ではない。
いまでは、そう思う。だが、戦士はいつでも死と隣り合わせだということをまだよく判っていなかった頃であれば、どんな衝撃を受けたものか。
しとしとと降り出した雨に、戦士は驚いて空を見上げた。
(さっきまで、雨の気配なんざなかったと思ったが)
(……まさか、な)
〈峠〉の神が、その騎士の死を哀しんで空から涙を流している――などという思いつきは、神官か詩人のものだ。タイオスは首を振り、肩を落として、きた道を戻った。
否、戻ろうとした。
(ん?)
(こっちだった、はずだが)
何とも注意の足りなかったことに、とでも言うのか。
彼は、道が判らなくなってしまった。
王家の館は町の南、山のふもとと町の中心の間にある。そこから、ハルディールが一緒ではないとは言え、念のため目立たぬようにとくねくねした裏道を通ってきたことは確かだ。
だが、タイオスは決して方向音痴ではない。西の方に沈み行く太陽の姿が見えなかったとしても、方角を誤りはしなかった。
だと言うのに。
判らなくなったのだ。
(ええと)
彼は意味もなく咳払いなどした。
(ニーヴィスと離れた場所から、ヨアティアを斬りつけた場所を通って、館に着いた)
(あれはまっすぐでも最短距離でもなかった。それでも、あの辺だろうとあたりをつけて、きちんとニーヴィスのところまで戻れたのに)
改めて、タイオスは慣れぬシリンドルの街路図を頭のなかに描いた。
否、描こうと、した。
(何だ?)
(思い出せない)
つい先ほど通ってきた道の長さ、曲がった方角、まるで霞がかかったように彼の脳裏で塗りつぶされていた。
(ど忘れ、ってやつか?)
彼は首をひねった。
(情けない。俺も年なのか)
若い頃は、四十五十の商店主がついさっき指示したばかりのことを忘れたような様子に笑っていたものだが、そろそろ笑えなくなってきたか――などと彼は嘆息する。
(だが、歩いてきた道筋をきれいさっぱり忘れるなんざ……)
四十五十どころか、七十を超して痴呆という段階ではないだろうか、とタイオスは苦々しく思った。
カツン、と背後に足音が聞こえた。
恥を忍んで尋ねるか、と彼は振り返る。王家の館の場所を訊くなど不審かもしれないが、僧兵ではないことは見た目で知れようし、運がよければ既にタイオスを見知っている町びとかもしれない。
そこで、タイオスは心臓を跳ね上げさせた。
それは、確かに既にタイオスを見知っている男だった。
「どうしました、タイオス殿」
彼は言った。
「もしかすると、道が判らなくて困っているのでは」
「成程」
戦士は皮肉めいて口の端を上げた。
「いくら年でも、ちょっとおかしいなとは思ったんだ。ある意味、安心できる答えだな。――これは魔術か、イズラン」
「おやおや」
灰色の髪をし、黒いローブを身につけた男はにっこりと笑った。
「ご自分のうっかりを私のせいにされるので?」
「帰り道が判らなくなって放浪するなんてのは、早くてもあと十五年後くらいにしたいもんだ」
彼が返せば、魔術師はやはり笑っていた。
「そうでしょうね。あなたのように演技達者な戦士は、四十くらいではなかなか呆けないでしょう。お察しの通り」
イズランは片手を空中に走らせた。樫の木杖がそこに現れた。
「魔術です」
「それを聞いて実に安心した」
タイオスは嘯いて、剣の柄に手をかけた。




