第2話 シリンドル3-10 忠実な娘
「もしも私であれば、好奇心のあまり、どうにか理屈をつけてついていきますが」
「私はお前ではない」
ふん、とヨアフォードは笑った。
「判らぬか、イズラン術師。私はシリンドルの神殿長だ。王を弑した反逆者であろうともな」
「正直に申し上げれば、判りません」
イズランは息を吐いた。
「敬虔な神殿長は、王を殺害しない。だがあなたは、その一点を除いては、立派にその座を勤め上げておいでのようだ」
「無論、私は〈峠〉の神を崇めているとも」
ゆっくりとヨアフォードは、神に敬意を示す仕草をした。
「お前がそれを信じようと信じまいと」
その言葉に魔術師はじっと神殿長を見た。ヨアフォードが本心から言っているものか、はたまた揶揄をしているものか、イズランには判定できなかった。
「〈峠〉には神がおわし、神殿には祭壇がある。たまに、王や王女巫女が、夢で啓示を見るなどして〈峠〉を閉ざすこともあった。だがラウディールの代には起きず、いまは王女巫女もいない。定期的にある穢れの日はふた月に一度。まもなくだ」
彼はちらりと山の方を見た。
「気にかかるのであれば、もう少しここに滞在して、その日に上の神殿を訪れてみればよい。守り手の騎士がおらぬ代わり――神の怒りに触れて、死ぬやもしれんがな」
「……ヨアフォード殿はそれをお信じになっているのですか」
「さあな」
男はまた言った。
「どうだろうな」
イズランは少し黙ってヨアフォードの返答を考えていた。
「お前の知的興味につき合うのはここまでだ、イズラン術師。これから忙しくなるところなのだから」
「ああ、そうでした」
はっとなったように――いくらか、わざとらしかった――魔術師は夜紺色の目をしばたたいた。
「私は、ヨアフォード様がアンエスカの生け捕りにこだわられるのは、ハルディール王子がまだ知らされていない〈峠〉の秘密でも……彼が握っているためかと思いまして」
ゆっくりとイズランは続けた。
「条件によってはご協力をと思いましたが、不要だったようですね」
「イズラン」
彼は低い声音で、魔術師を呼んだ。
「詮索をしたいのであれば、ことが済んだあとだ。ルー=フィンやヨアティアに万一のことがないように術を使ってこい」
派手な攻撃魔術などは、ヨアフォードは求めなかった。と言うのも、イズランとの契約がそうなっているからだ。魔術師は、魔術で死者を出すことを拒んでいた。魔術師協会の決まりごとに抵触するからだと言う。
だが、それだけでもない。忌まわしいとされる魔術師の力を借りて王子を殺害したとなれば、彼の「正義」に傷がつく。ヨアフォードは、イズランの魔術で暗殺をすることは考えなかった。
アル・フェイルに借りを作るべきではない。
そして、シリンドルの浄化は、シリンドル人の手で。
「仰せのままに」
イズランは礼をした。
「では。ことが済みましたあとで」
そう言って男は黒いローブを翻らせた。
ふん、とヨアフォードは鼻を鳴らす。
(アンエスカも油断ならんが、あれも同様だ)
敵対こそしていないものの、彼に従属するのでもなく、あくまでもアル・フェイルのために判断し、行動をしている。たとえばハルディールの所在を見誤ったことについて謝罪をしないのも、そのためだ。イズランは、自身の失態をアル・フェイルのものに置き換えられることを避けた。
(小賢しい)
ヨアフォードはイズランをそう判定した。
(それに、目の付けどころも悪くない)
〈峠〉の秘密。いや、王家の秘密と言うべきか。それは同時に、神殿の秘密でもある。
王と神殿長、そしてごくわずかな者だけが知る、真実。
それは長い年月、ひた隠しにされてきた。王と神殿長は代替わりするたびにその秘密を共有し、口をつぐんできた。
しかし、それももう終わりだ。
いつまでも、神殿だけが暗部を担う日々は終わる。
ただ、その事実を知っているだけでは意味がなかった。利用するには、ほかにもまだ知らねばならぬことがある。
そのためには、ラウディールに近しい人物が必要だった。だが、王の信頼を得ていた者は、市井に下った元王族も含め、王への忠誠を守りつつみな死んだ。神殿長に媚びを売って生き延びた者は、つまりは王家の秘密を託されるほどの器ではなかった。
残るはシャーリス・アンエスカのみ。
「あの……ヨアフォード様」
細い声がした。
「すみません。お返事がなかったもので、勝手に扉を開けました」
「ミキーナか。かまわん」
娘の姿に、男は鷹揚に手を振った。
「何だ」
「カラン茶をお持ちしました」
「茶だと? 生憎だが、ゆったりと茶を楽しんでいる時間はない」
「存じております。ルー=フィン様もヨアティア様も、兵を率いて出ていかれた。ですが」
両手で銀盆を持って、ミキーナは神殿長を見上げた。
「館じゅうに緊張が走っています。その大元は、こちらのヨアフォード様のお部屋から」
じっと、彼女は男を見た。
「険しいお顔をされています。お心を鎮めていただきたくて」
「怖い顔か」
「いえ、決して」
ミキーナは首を振った。
「ヨアフォード様は厳しいところもおありですが、本当はお優しい方です」
真剣に娘は言い、男は少し笑った。
彼がこの娘を近くに置くようになったのは、神への敬意を神殿長への敬意とはき違える程度の頭であれば、彼の言いなりになるよう仕込めると思ったからだった。
もっとも、男が女を「何でも言いなりにさせる」、言い換えれば夜の事情のため調教するというような生臭い話ではない。
予定ではルー=フィンの妻、つまり王妃に仕立てるつもりだった。賢い娘では、閨で若者に何を吹き込むとも限らないからだ。
ミキーナには神女のような教育を施し、彼女はルー=フィンと同じように、神殿長に恩を感じてよく尽くすようになった。ヨアフォードは神への畏敬や〈死の腕輪〉の恐怖で僧兵たちを操る傍ら、喜んで彼のために死ぬような人間も育てていた。
この娘は、ヨアフォードがルー=フィンと結婚をしろと言えば、従順にうなずいただろう。
だが予定は崩れた。新王の王妃にはエルレール王女を当てる。ミキーナは――不要な駒となった。
ならばヨアティアに、というつもりはなかった。
放り出してもかまわないのだが、なかなかどうして、忠実な娘だ。このまま使用人として置いてやってもいいだろうと考え出していた。
「ではせっかくだ。もらおうか」
男は娘を招き寄せた。ミキーナはほっとした顔をして、かがみ込むようにしながら、座る神殿長に茶杯を手渡した。
「……誰も彼も私の気を揉ませるが」
ヨアフォードは呟くと、手を伸ばしてそっと娘の髪を撫でた。
「お前だけは、そのようなことがないな」
ミキーナは敬愛する神殿長に触れられたことに少しびくりとして、それからはにかむような笑みを浮かべた。
「穏やかなお顔になられました。私は、そうしたヨアフォード様が好きです」
男はまた笑い、娘の髪をもう一度撫でた。それはまるで、仲のよい父娘の姿のようだった。
「ミキーナ」
「はい、ヨアフォード様」
「ルー=フィンとエルレールの婚礼について、どう思う」
尋ねれば、娘はぴくりとした。
「それが……ヨアフォード様とルー=フィン様と、そしてシリンドルのためになるのでしたら、歓迎すべきことと」
「そうか」
彼は短く応じた。
「若い頃は、思った。愛する者同士の結婚こそが、幸せを呼ぶと」
「ヨアフォード様……?」
「だが、思うままに振る舞うばかりでは、逆に不幸を招くこともある。ことに、我らのように上に立つ者であれば」
「あの……」
娘は困惑したように、身じろぎをした。
「お前はルー=フィンを好いているのだな」
その指摘にミキーナは慌てて手を振った。
「わ、私は、そのような大それたことは」
「隠さずともよい。責めはしない。ルー=フィンもはっきりとは言わぬが、同じように思い、ふたりで会っているだろう。判っている」
神殿長が言えば、娘は顔を赤くした。
「まるでお前たちの仲を引き裂くようで済まないと思っている。だが、愛し合うなとは言わぬ。エルレールはルー=フィンを拒むだろう。お前が慰めてやれ」
その言葉に娘はゆだったようになった。
「私は」
そのとき、町の方から叫声が聞こえてきた。ヨアフォードは手を引いて窓を振り向き、ミキーナは身を固くした。
「はじまったな」
神殿長は立ち上がり、茶杯を卓に置いた。
「座して結果を待つというのも、楽ではない」
そんなことを呟いてから、男はもう娘を見もしないで歩き出すと、部屋をあとにした。
残されたミキーナは、結局ヨアフォードが一口も茶を飲まなかったことに気づくと、落胆した風情で息を吐いた。
彼女は仕方なく茶杯を片づけ、踵を返そうとして、悲鳴を上げかけた。
「イ、イズラン様」
去ったと見えた魔術師が、彼女の背後に現れていた。
「ミキーナ殿、でしたね?」
魔術師は笑みを浮かべて尋ねた。ミキーナはうなずく。
「ひと仕事、ご協力いただけませんか」
「何ですって?」
娘は目をしばたたいた。
「私に、何ができるんでしょう?」
「簡単なことです。ヨアフォード神殿長のためになります」
「本当ですか?」
ミキーナは期待に満ちて瞳を輝かせた。
「ヨアフォード様のお力になれるのでしたら、何でもいたします」
「気負うほどのことではありませんよ、本当に簡単なこと」
イズランは繰り返し、彼女に手を差し出した。
「どうぞこちらへ」
彼女は魔術師の顔を少しだけ不安そうに見たが、ヨアフォード様のため、シリンドルのためにと呟いて、盆を置くとそっとその手を取った。




