第2話 シリンドル1-10 どうして神は
朝も昼も夜も、神に祈った。
これまでこんなに祈り続けた日々はなかったほど。
それだと言うのに、平和だったときに感じていたほどにすら、彼女は〈峠〉の神が近しくあるという気持ちになれなかった。
「――レウラーサ・ルトレイン」
声にならぬ声が呟く。
王女も、神殿長も、同じ神に同じ言葉で祈っている。それは何という皮肉か。エルレールはふと、そんなことを考えた。
(もしや、私は)
エルレール王女は胸に手を当てた。
(あろうことか、〈峠〉の神を疑っているのかしら)
〈峠〉の神は天罰など下さない。彼女はヨアフォードにそう言い放ったし、それは本当のことだ。
そうであると同時に、天から雷が降ってきてシリンドレン一族を撃っていないという現実に、理不尽なものを覚えているのではないか。
そんな心持ちでいれば、神を感じられなくても当然だ。
少女は深く、息を吐いた。
弟が自らの命を惜しんでカル・ディアに逃げたのだ、などという出鱈目を彼女が信じることはなかった。
だがアンエスカの訃報には、騎士たちと同じように衝撃を受けた。
嘘をつくのであれば、ヨアティア自身が言ったように、ハルディールの死を捏造するはずだった。
血塗れの護符。
真実なのか。
王女は両手で顔を覆った。
(あの子は、ひとりでいる)
(アンエスカを失い、知る者のいない遠い場所で)
自分に翼があったら、いますぐにでも飛んでいって、ハルディールを抱き締めてやるのに。
エルレールの思いは本物だったが、それでもいささか、現実逃避じみたところが混じっていた。
クインダンとレヴシーを救いたければ、ヨアフォードの権力を確実にするために、政略結婚をしろと。その話を考えるのが、少女は嫌だった。
父王が生きていても、政略結婚は有り得たかもしれない。チルシ大臣の息子やスリート庶務長の息子は、受けた教育も年齢も王女の婿に相応しく、王が父親たちの労に報いたいと思えば、彼らのどちらかと結ばれよと彼女に命じたかもしれないからだ。
だが、嫌だと言えば、それも通っただろう。自分はルトレイスの巫女となるからと。
山の神の巫女は、特に処女性を求められない。処女であれば神の声を聞きやすくなるとは言われており、歴代の王女巫女はあまり結婚をしなかったが、前例がない訳ではない。
しかし、信仰を大事にしたいのだと言えば、父は無理強いをしなかったはずだ。
もっとも――どうであれ、彼女の本当の望みが叶うことはない。
内に秘めたる思いが叶うことは、ないのだ。
そのことはよく判っていた。
だがしかし、ヨアティアや――ルー=フィンなど。
ヨアティア・シリンドレンよりは、銀髪の剣士の方が幾分ましだ。少なくとも、ヨアフォードの息子ではない。言葉を交わしたことはなかったが、神殿長と話をしているのを聞くともなしに聞いたことはあった。礼儀正しく、〈峠〉の神を真摯に崇める、よい民であるように思えた。
それでもいまや、反逆者の一味であることに変わりはなかった。たとえ、本当に従兄であるのだとしても。
ルー=フィンが、昇るはずのない王座に昇るというだけでも、許し難い。だと言うのに、彼女を妻にすることで、血筋の足りない部分を補おうなど。
(どうして)
(神は何も仰らないのか)
〈峠〉の神はシリンドルの民を見守るが、伝説に言われているようにひとの姿を取って現れることもなければ、王家の者に不思議な力を与えることもない。唯一の奇跡が奇病の治癒。現状には、役立たない。
そうしたことはよく判っているのに、望んでしまう。
伝説のような奇跡が起きること。
(神は決して、我らを見捨てない)
巫女になる娘は信じた。いや、信じると言うよりも、願うと言うのが適していた。
(そうよ、〈白鷲〉がきっと、ハルディールを助ける)
すがるように少女は願う。それだけが、望みだった。
かちゃりと扉が開けられた。僧兵が食事を持ってきたのだと思った。
逆らいきれなくて食事を摂るようにはなったが、空腹感を覚えても、何かを食べたいとはちっとも思えなかった。
億劫だったが、次に食事を絶てば、ヨアフォードは本当にレヴシーを鞭打ちにするだろう。彼をそんな目には遭わせられない。
新王に忠誠を誓えなどとは、彼らには酷だろうと判っていた。だが、それで彼らの命が助かるのならばとも。
暗い思いで少女が顔を上げれば、姿を見せたのは、僧兵ではなかった。
「ご機嫌麗しゅう、美しき王女殿下」
「――ヨアティア」
少女は仇の息子を睨みつけた。
「私を嘲笑いにでも、きたのかしら」
「とんでもない。私はあなたを称えにきたのですよ、美しい姫様」
薄い笑みを顔に張りつけて、ヨアティアは言った。エルレールは細い眉根をひそめる。
「お前たちの賞賛ほど、この世で聞きたいものもない。侮蔑や嘲笑の方がずっといいわ」
「残念なことだ。私は心から、あなたを賞賛するのに」
嫌な笑いを浮かべたまま、男は続けた。
「生憎なことに、あなたを我が妻にすることはできなさそうだ。せめて、近くでその美を称えさせていただきたい」
「汚らわしい。近寄らないで」
男が寄れば、少女は後退した。
「汚らわしい?」
ヨアティアは繰り返し、笑顔の仮面を落とした。
「お前が巫女として生きる間、神殿長としてお前の上に立つ私に、そのようなことを言うか」
「上ですって。愚かしいことを。神の前には、誰もが平等よ」
「神殿長は、特別だ。神の代弁者。私は近い内に、父のあとを継ぐ」
「好きにすればいいわ。でも、私はお前の下につくなどとは思っていない」
「生意気な」
男はずいと進んだ。少女は更に退いた。だが、部屋の中央にいた訳でもない。すぐに壁際にたどり着いた。
「そのような口を利けるのも、いまだけだ。女は男に敵わぬことを知れば、従順になろう」
「馬鹿らしい。腕力で敵わないことは、全てではないわ」
「そう思うか」
男はせせら笑った。
「まるで処女の言い様だ。いや、お前は本当に、処女なのだろうな。ラウディールが目を光らせていたはずだ」
「何を言いたいの」
エルレールは心臓が激しく音を立てるのを感じていた。ヨアティアの瞳に浮かびだしたものが何であるか、判るように、思った。
「寄らないで。それ以上――」
「若く、そして美しい。ルー=フィンに処女をやるのはもったいない」
男は舌なめずりをした。
「俺が奪ってやろう」
ヨアティアの手が伸びた。王女の細い手首を掴む。
「放しなさい!」
王女の威厳を持って、エルレールは叫んだ。
「おかしな真似はおよし! 誰か、すぐにくるわ」
「こないとも」
荒い息で男は言った。
「僧兵どもは退けてある。お前が泣き叫んでも誰にも届かない」
ぐい、とヨアティアは細い少女を引き寄せた。抗おうとしても、敵わぬ。エルレールは掴まれていない手でヨアティアの頬を叩こうとしたが、届く前にその手首も捕らえられた。
「おとなしくしていれば、痛いことは一度だけで済む」
たいそうな冗談を言った、というように男は笑った。かりそめにも神殿長を継ぐと言った男の顔とは思えなかった。
「床の上などでは、王女殿下に申し訳ない。寝台にお連れしよう」
ヨアティアはそのまま少女の両脇に腕を差し入れ、持ち上げた。エルレールは必死で男を叩いたが、彼女の腕力などたかが知れていた。