第2話 シリンドル1-9 シリンドルのために
「エルレールだが、署名をするのは時間の問題だ」
「では」
ヨアティアの瞳が光った。
「早々に日取りを決め、私の――」
「いや」
その父は手を振った。
「計画は変更を余儀なくされている、と言ったろう。ハルディールの生存を前提とする以上、王女にはほかの役割も果たしてもらう」
「どのような意味でしょうか」
息子は心配そうに父を見た。
「あの娘は、私に下さるのでは」
「諦めろ」
「な、何ですって」
ヨアティアは驚愕した。
「王女は、新王に娶らせる」
「何と」
呆然と、ヨアティアは口を開けた。
「父上、何故、そのような」
次には、息子はがたんと椅子を蹴って立ち上がった。
「剣技にばかり長け、流れ戦士の愚考に釣られて襲撃を行い、それでも王子を仕留められなかった若造じゃありませんか。これが新王だと言うだけでも腹立たしいのに、女まで与えるのですか!?」
ヨアティアは――ルー=フィンを睨みつけた。
「落ち着け、息子よ」
神殿長は眉をひそめた。
「お前がルー=フィンを好かないことは知っている。だが、お前たちは次代の神殿長と王だ。親しく言葉を交わすことはなくとも、無駄にいがみ合うことはならぬ」
「ですが……ですが、王の娘は私に下さると約束を」
「王子が死んでいれば、ルー=フィンの血筋だけで充分だった。王弟の私生児。ラウディールは弟に認知させなかったが、それは事実であるのだから、問題はない。神は必ず、その血を認める」
「それは、父上の仰る通りでしょう。ハルディールがいなければ、王にのみ開かれる扉はルー=フィンを新たなる王と認めて開く」
「ハルディールが死ねば、間違いない。生きていても、王子が逃亡したままである以上、その座に相応しきはルー=フィンであること、神もご存知だ」
ルー=フィンは黙って聞いていた。
彼の父は、ラウディール王の弟ケイダールだ。もう、十年以上前に死んでいる。
ケイダールの隠されし愛人だった母アズーシャも、時をほぼ同じくして死んだ。
彼らの死には、不審な点があった。
市井で暮らしていたケイダールは、強盗に襲われた。だが、彼の財布は手つかずのままだった。
町外れに暮らしていた母アズーシャは、近くの森のなかで、ならず者に暴行されて死んだ。だが彼女には森へ行く理由がなかった。
ルー=フィン自身も――狙われた。覆面をした男に追いかけられ、あと少しで捕まるところだった。捕まれば、殺されただろう。
当時は少年だった彼を助けたのが、ヨアフォードの指示を受けた僧兵だった。
やがて、少年は知る。
シリンドル王ラウディールが、自らの息子ハルディールの王位を脅かす者がいないようにと、擁立され得るルー=フィンを狙い、王家の血を引く男児がいることを知る彼の両親を暗殺したのだと。
それを知った彼には、復讐をしたいという気持ちが湧き起こった。ルー=フィンはラウディールこそ手にかけなかったが、その息子は自分の手でと。
だが、それだけではなかった。彼はシリンドル国を愛していた。
そのような狂王と、その血を引く息子がシリンドルの王座に君臨する、それは彼の怒りを呼び起こした。
ルー=フィンはヨアフォードに拾われ、育てられた。
いつか両親の正当なる復讐をし、それから彼が王座に就くために。
権力欲などはなかった。恩人とその息子に仕えるような形になることに、彼の誇りは傷つかなかった。
ヨアティアの方では、十近く年下の相手に剣技で劣ることにはじまり、驕らないルー=フィンが格下であるように感じては、彼につらく当たってきた。身分的に自身の上となることが定まっているルー=フィンに、精神的優位を得ようとした。
エルレールを娶りたがるのも、正当なる王家の娘は自分のものだという、いくらか矛盾のある歪んだ優越感を持ちたいがためだ。
父親の決定でその望みが打ち砕かれたことに、その息子は、まるでルー=フィンがそれを企んだとでも言うように、きつく彼を睨んでいた。
「ルー=フィンには、異論なかろうな」
「私は……」
ハルディールを生かしておくという流れには、素直にうなずけないものがあった。しかし、彼はこう続けた。
「私は、ヨアフォード様のお言葉に従うまでです」
一度、既に独断をして、そして失敗している。これ以上、何か主張することはできなかった。
「その呼び方も、そろそろ改めた方がよいだろう」
男は両腕を組んだ。
「国の王たる人物が、他者に『主人』などと呼びかけるのは奇妙な話だ」
「セラン」との敬称には、大きな身分の差か、絶対的な服従を思わせるものがある。家来と王、下僕と主人、そうした関係で使われるものだ。
「お前のこと故、呼び捨てるなどは難しかろうが、『殿』かせいぜい『様』程度にとどめるがよい」
「セル」は一般的な敬称であり、「セラス」は尊敬を表す程度で使われるものだ。それならばかまわない、と剣士の恩人は言った。
これにはルー=フィンは、お前が王になるんだと言われたかつてや、王女を彼の妻にと言われた先ほどよりも、困惑した顔を見せた。
「むしろ、ヨアティアよ。お前が『ルー=フィン様』或いは『ルー=フィン殿』と言わねばならぬほどだ」
神殿長は告げた。息子は、むっとした顔を隠さなかった。
「父上もそうなさるのでしたら」
挑戦的な、或いは子供じみた台詞は、笑いで迎えられた。
「無論だ。今後は必ず、ルー=フィン殿と呼ぼう」
ルー=フィンは戸惑い、ヨアティアはますます子供じみて拗ねた。
「しかし、セラン……セラス・ヨアフォード」
言いづらそうに言い直して、若者は神殿長を見た。
「気にかかるのはハルディールのことです。本当に、生かしておいてよいのかと」
控えめに、ようやくルー=フィンは尋ねた。
「アンエスカが生きていれば、あやつが何を企むか知れたものではなかった。カル・ディアルの伯爵の館であるという危険を冒しても、襲撃をする必要もあったやもしれぬ。だがハルディールひとりでは、その伯爵にいいように利用されるのが関の山」
ヨアフォードは鼻を鳴らした。
「あれが成人し、自分が正当なる王であると名乗りを上げ、カル・ディアルが背後についたとしても、それまでにルー=フィン王がアル・フェイルを取り込んでおけば、カル・ディアル王も戦争を起こしてまでハルディールを擁立はすまい」
もっとも、と彼は続けた。
「楽観視して危険の芽を無視するは、愚行。キルヴン伯爵自身を買えれば最善だが、ハルディールに正義ありと信じる、またはそう信じるふりをして自らの利得を計算しているのであれば、からめ手から攻めるのがよかろうな」
「たとえば、どのような」
ヨアティアが尋ねた。
「ほかの貴族を抱き込めばいい。大国には、家名高く歴史や誇りを持つが金はない、という類がいるものだ。そうした連中を買って、遠く南方の小国にかかずらってアル・フェイルとことをかまえるなど愚かだ、という気風を作ればよかろう」
神に仕える男はそう答えて笑った。
「何、金なら幾らでも入る」
「……ですが」
慎重に、ルー=フィンは口を出した。
「そうした貴族を探し出すのに、もしやイズランをお使いのおつもりでは」
「まだ、視野は狭いか?」
ヨアフォードは唇を歪めた。
「考えを変えろ、ルー=フィン殿。『魔術師』に抱く思いをそうそうに変えられぬのであれば、イズラン個人を有用と考えろ。彼はアル・フェイル宮廷魔術師の弟弟子であり、兄弟子を介して、宮廷に食い込める人物だ」
その助言は、若者の心を少し落ち着けた。
「判りました」
彼は答えた。
「――シリンドルのために」
「よい言葉だ」
笑みを浮かべて、神殿長はうなずいた。
「シリンドルのために」
彼は酒杯か何かを掲げるように、片手を上げた。
「アンエスカは死に、ハルディール王子も遠くへ逃げたまま」
つまり、と神殿長は続けた。
「〈峠〉の神は、我らとともにある」
レウラーサ・ルトレイン、と神殿長は祈りの言葉を口にし、シリンドルの男たちは唱和した。




