第1話 英雄の伝説1-5 細い小道
卑猥な演目を見せる舞台を併設した〈紅鈴館〉は、そのまま二階に上がって踊り娘やら給仕娘やらと夜をともにできる仕組みの娼館だ。
男たちには定評のある老舗で、少し値段は張るが、その代わり病気持ちの女などはいないし、眠っている間に身包み剥がれることも、財布から銀貨が盗まれていることもない。若い頃に安い金で女を買って酷い目に遭ったこともあるタイオスとしては、〈紅鈴館〉のような場所が安心できるのだ。
何より、ティエがいる。
彼女は春女としては年が行っているが、逆に言えば熟練だ。本業は踊りの方で、毎晩客を取っている訳でもないから、年齢の割には身体もいい。男を喜ばせるコツもよく知っていて、タイオスは必ず彼女を指名した。
もっとも、彼は若い頃、まだコミンに居を定めない頃から、ここを訪れればティエを指名した。そういう間柄であるから深い仲だのどうだのと言うのではない。かつて縁あって知り合った、馴染みなのだ。
あれから月日が流れた。
ティエは年を取ったが、自分も取った。
四十を越した戦士が、しみじみと過去に思いを馳せていたときだった。
すっと、彼の前方を遮る影があった。
「うん?」
タイオスは顔を上げた。そこは〈赤羽根通り〉と〈風の谷通り〉の間、名前も付けられていない抜け道のような細い小道で、こちらとあちらから誰かが通れば、どちらかが少し身を寄せないといけないことになる。
戦士だからと言って威張り散らすつもりはないが、腰の剣を見れば、たいていの人間が怯む。こうしたとき、よけるのはたいてい、向こうだった。
しかしこのときは違った。
向かいの相手はぴたりと足をとめ、その場に立ちはだかっている。
(何だこいつ)
俺様が通るのだからどけ、などとは思わない。物事にはリズムや気分やタイミングというものが関係して、タイオスから道を譲ることもあるし、向かい合う相手が、彼どころではない強面の、見るからに荒くれ者が相手だってどきたくないと思うことはあるものだ。
だが道の向こうにいる人物は、たとえば何か苛立つことがあって、戦士が相手だろうと喧嘩を売ってやろうと考えている様子ではない。タイオスが道を譲ることを待っている感じでは、なかったのだ。
何故なら、茶金髪の男は、足をとめてじっとタイオスを見ていたからだ。
まるで、通りすがりの戦士ではなく、ヴォース・タイオスを待っていたかのように。
「何か用か」
タイオスも足をとめ、じろじろと向こうを見た。
上等な服を身につけ、手触りのよさそうなマントを羽織っている。編み上げ靴も質がよさそうだ。金持ちなのは間違いない。
貴族か何かだろうか。かしずかれ、道を開けられることを当然と思っているような。
いや、そうではない。この男は、タイオスを越えて道の向こうに行きたいとは、思っていない。
「用」
少し高い声が言った。
年の頃は、三十前後と見える。わずかにきらめきを見せる茶金の髪は長く、後ろできちんと束ねられているようだった。それは決して、不精をして伸びてしまったというのではなく、意図的な洒落っ気でもって作られた髪型だ。
「そう。用がある」
男は繰り返し、タイオスははっとなった。背後に、誰かがいた。
戦士が気づいたときには、しかしもう遅かった。反射的に広刃の剣に手を伸ばしながら振り向けば、細い剣の切っ先がぴたりと彼の喉元に当てられていた。
「……おい」
ぎくりと身を固くしながら、彼は声を出した。
「何、考えてんだ。追い剥ぎにゃ、見えないんだが」
町の壁のなかで抜剣すれば、罰せられる。法律は街町によって異なるが、このことだけは、ほとんどの場所で通用する原則だ。
もっとも、自衛のために応戦するのは、犯罪ではない。おとなしく金を奪われるか殺されるかと言うだけであれば、襲った者勝ちである。
何であれ、普通は、こうして胸当てを身につけ、腰に剣を帯びる戦士を襲う盗賊などいない。しかし、裏路地で見知らぬ相手に前触れもなく剣を突きつける、それは追い剥ぎ行為としか見えなかった。
しかし――そうは見えないのだ。
いまはタイオスの背後となった男の、金のありそうな様子。改めて彼の前方にいる銀髪の男は、二十歳前後と若いが腕のいい剣士だ。ぶれない切っ先と、射抜くような緑の瞳は、それが戦いを知る者だと語っていた。
「お前の金になど興味はない」
鼻を鳴らして、背後の男が言った。かつん、かつん、と石畳が鳴って、男が近づいてくるのが判った。
「問題は」
茶金の長髪を持つマントの男は、すぐ後ろにまで迫っていた。
「これだ」
くん、と腰の辺りが引っ張られた。均衡を崩すほどではなかったが、思いがけぬ場所にかかった力に、タイオスは戸惑う。
財布ならば、左腰手前。
男の引いた右腰の後ろには、何も身につけていない。
「これ見よがしに身につけて歩くとはな。ここまで我らが追ってきていないとでも思ったか? ずいぶんと甘く見られた」
「はあ? 何を言ってる」
切っ先が気にはなったが、殺気はない。いきなりぶすりとやられることはないと判断すると、タイオスはゆっくり振り返った。
「両手を上げろ」
鋭い声音で、剣士が言った。背後から剣を突きつけられているのはよく判る。渋々とタイオスは従った。
「いったい、何の話を」
「お目にかかれて光栄だ。――〈シリンディンの白鷲〉」