第1話 英雄の伝説4-3 二十年前の〈白鷲〉
沈黙が部屋を支配していた。
アンエスカの顔色は沈み、ハルディールは唇を結んでじっと従者を見ていた。
「……彼は」
三十秒以上にも渡る静けさを破ったのはハルディールであったが、彼は自分で自分の声にびくりとした。
「彼は」
それから、もう一度改めて声を出す。
「死んだのか」
「ええ」
アンエスカはうなずいた。
「かの〈白鷲〉の名は、サナース・ジュトン。こちらの館の主、キルヴン閣下の無類の友で、閣下がまだ家督を継がれる以前から、彼の護衛剣士をしていた人物です」
「サナース・ジュトン」
ハルディールはその名を繰り返した。二十年前にシリンドルを救った騎士にして、いまはもう、亡い男の。
「彼が亡くなったのは、ざっと四、五年前。宮廷陰謀劇に巻き込まれた閣下を守って、刃に倒れたのだとか」
ナイシェイア・キルヴンはサナースがシリンドル国を救ったことを知っていた。何故なら、彼もまた、そのときシリンドルにいたからだ。と言うより、ナイシェイアがいたからこそ、その護衛剣士にして無二の友人たるサナースもそこにいた。彼は父伯爵の所用でアル・フェイル南方の町を訪れ、その用事を済ませたあと、マールギアヌ南端の小国まで足を伸ばしてみたということだった。
その気まぐれと、山賊の来襲が重なったのは、偶然にすぎない。
それとも或いは、神の意志であったかもしれない。
ともあれサナースは、その優れた剣の腕で〈シリンディンの騎士〉たちとともに山賊を撃退し、〈白鷲〉と呼ばれた。
当時の王はハルディールの父ではなく祖父であったが、彼はサナースに改めて護符を与え、その称号を与えた。
かと言ってそれはサナースをシリンドルに縛りつけるものではなく、サナースは主たるナイシェイアと共にカル・ディアルへと帰った。
それから、十五年。
〈シリンディンの白鷲〉は、その名誉に相応しく、主を守って逝った。
ナイシェイアは〈白鷲〉の護符とともに彼の訃報をシリンドルへ送り、ラウディール王とごくわずかな側近だけがその事実を知った。
護符はふたつとも騎士団の預かるところとなり、アンエスカはその保管場所を知っていた。危急の際に彼は一計を案じて、それを持ちだした。
即ち、〈白鷲〉を探すという名目で、ハルディールをシリンドル国から――危険な男ヨアフォードから離すために。
「殿下がお持ちの護符。それは確かに、王家が保持していた対のものです。ここに」
と、アンエスカは隠しからもうひとつ、大理石でできた菱型の護符を取り出した。
「片割れがあります。二十年前の〈白鷲〉ジュトン殿が拾ったものだ」
「拾っただって?」
ハルディールは目をしばたたいた。
「どういう意味だ」
「神の意志は、偶然の積み重ねのように見える。これを持っていたのは、当時の騎士団長でした。彼は山賊がやってくる前、峠の神殿に祈りを捧げるべく、山を歩いた。そのときに」
アンエスカは肩をすくめた。
「落としたんです」
「……落とした、と」
呆然と、ハルディールは繰り返した。
「ええ。王家の大事な護符だ。彼はどれだけ焦ったか。しかし、それはサナース・ジュトンという男に拾われることになる。神の手は、まるで悪戯をするように運命を描きます」
彼はどこか敬虔な表情でそう言った。
たとえ、神殿長ヨアフォードがどのようなからくりを予測していたとしても、これが真実だった。
伝説の騎士は、姑息な手段で作られるものではない。〈シリンディンの白鷲〉は、神の定めたもうた英雄。
シリンドルには、神秘が存在する。少なくとも王子やその従者は、それを疑っていなかった。
「キルヴン閣下は、陛下と文を幾度か交わされた。閣下がシリンドルに好意ありということは、文面から伝わってきました。通り一遍の美辞麗句ではなく、誠実な言葉で、文を綴られた。署名と筆跡が同じでしたから、内容を書記官に任せて署名だけというような、ただの挨拶とも違う」
アンエスカはハルディールを連れ、追跡を振り切ったと思ったところで、ナイシェイア・キルヴンに書を綴った。
同じ町のなかならばまだしも、遠く離れた場所に手紙を送る仕組みなどは作られていない。通常は、目的の町へ向かう隊商などを見つけて依頼するしか手がない。
通常でなければ、魔術師協会と呼ばれる組織を利用する方法がある。魔術師というのは不吉な連中ともされているが、その能力を信じることができれば、有用であった。金さえ出せば、確実だ。
アンエスカはその方法を採った。伯爵自身がカル・ディアにいることは判っていたが、伯爵の領地であるキルヴンの街で返信を受け取り、正式に、ハルディールを庇護するというキルヴン伯爵の約束を得た。
王子の従者は、ざっとそんな説明をした。
「〈シリンディンの白鷲〉と言われた男の星は流れ、神は次なる〈白鷲〉を任命していない。ですが、殿下。必ず、助け手は現れます」
アンエスカはそう締めくくった。
ハルディールは、黙ったままでいた。
「現れる。僕も信じている」
その声は少しかすれた。彼は震える手で茶杯を掴むと、冷め切った茶をのどに流し込んだ。
「だが、それ以外のことでは、お前の考えに同意できない」
「そう仰るだろうことは判っておりましたが」
「アンエスカ」
王子は男の言葉を遮り、茶杯を置いた。
「僕が、ここで伯爵の庇護を受けて何になる! 自分だけ安全な場所にいて、シリンドルを見捨てろと!? 国はどうなる、民は。エルレールや、彼女を守る騎士たちは!」
「落ち着いてください」
アンエスカは低く言った。
「何も私とて、このままシリンドルを離れ、国のことをお忘れになるよう、などと申し上げるつもりはございません。時をお待ち下さい。どうか、殿下が成人なさるまで」
「成人すれば、王位を継げる。だから、ヨアフォードは早く僕を殺してしまおうと考えている。そのことは判っているとも。だが、あと半年ものうのうとしていられるはずがない!」
ハルディールは乱暴に卓を叩いた。茶杯が揺れる。
「アンエスカ。僕は帰る」
「なりません」
「とめても、無駄だ」
「閣下と相談いたしました。殿下が無断でこの館を出ようとなされば、力ずくでもおとめするよう、護衛兵に命令をしてあります」
「何だと」
彼は険しい顔をした。
「そんなことまで。アンエスカ、お前を見損なった」
厳しく、王子は言った。
「お前がそういうつもりなら――タイオス。そうだ、タイオスに」
「彼はいません」
従者は告げた。
「去りました」
「何だと」
少年はまた言った。
「追い出したのか」
「自ら、去りました」
「嘘をつくな。タイオスは、僕を守ると約束した。〈白鷲〉を見つけるまで、一緒にと」
「ええ、嘘をつきました」
アンエスカは、しかしタイオスを無理矢理追い出したのだと懺悔はしなかった。
「〈白鷲〉はこの館にいると、彼に嘘をつきました。生憎と約束の三百ルイエは出せませんでしたが、恥ずかしながら伯爵閣下がご相談に乗ってくださいまして、相場に適切とされる分だけの報酬を渡しました」
さらさらと、男は続けた。
「タイオスは、全て納得して、殿下の元を去りました」