第1話 英雄の伝説3-10 必ず
シリンドル王子は顔を上げた。
見れば、彼が幼い内からよく知っている男が、見慣れぬ戸口から姿を見せる。
少年は安堵の息を吐いた。
「何をしていたんだ」
館内に案内された彼は、まずは旅の汚れを落とすようにと風呂を借り受けた。
ハルディール自身はそんなことより説明を聞きたかったが、王子殿下として身だしなみを整えるべきだとアンエスカが主張したのだ。
そう言われれば確かに、伯爵に面会するに相応しい格好ではない。
少年は久しぶりの湯に浸かり、汚れと疲労と、それから髪の染料も流して生来の金髪に戻すと、用意された質のいい衣装を身につけて、広く立派な応接室に通された。
しばらくお待ち下さいと茶など出され、しかしのんびりとそれに手をつける気分にもなれず、ただ悶々と待っていた。
そこでようやく、シャーリス・アンエスカが顔を見せたのだ。
「そのように『不安でたまらなかった』と正直に語られませんよう」
ハルディールはそうは言っていないが、そう叫んだも同然であるくらい、強張った表情がアンエスカの前に解ける様は顕著であった。
「伯爵閣下のご意志を確かめてまいりました。もうご心配は無用です。閣下は全面的に、殿下とシリンドルを擁護してくださると」
「どういうことなんだ」
王子は判らないと首を振った。
「カル・ディアの伯爵が手を貸してくださると言うなら、確かに心強い。だが、お前の言うのは」
少し眉をひそめて、ハルディールは続けた。
「まるでここが、我らの旅程の、終着点であるかのような」
沈黙が、下りた。アンエスカは、否定しなかった。そのことに、ハルディールは気づいた。
「アンエスカ……?」
「殿下。こちらの閣下は親切なお方で、信頼してよいお方にございます」
まず、眼鏡の従者はそう言った。
「お前がそう言うなら、間違いないのだろうな」
ハルディールの返答は、彼がアンエスカの判断を信じているということであると同時に、散々タイオスを疑うアンエスカが「信頼する」など余程のことだろう、という皮肉も混ぜられていた。
アンエスカもそのことに気づいたが、何も言わぬことで、その皮肉に気づかないふりをした。
「しかし、どういうことだ」
少年は繰り返す。
「お前は、キルヴン伯爵と面識があるのか」
「ございませんでした。つい先ほどまで」
「初対面だと? なのに、慎重なお前が『信頼』を?」
王子は顔をしかめた。
「僕に判るように説明してくれ」
「では」
アンエスカは咳払いをして、ちらりと客室の椅子を眺めた。王子はうなずき、腰かけながら、従者にも座る許可を出す。
「キルヴン閣下とは、以前から書のやり取りがありました」
「お前が?」
「いえ」
彼は首を振った。
「ラウディール王陛下です」
「……父上が?」
少年王子は目を見開いた。
「父上のご友人でいらっしゃるのか?」
「ご友人とは、言いますまい」
男は神経質そうに眼鏡の位置を直した。
「もちろん、よい関係でいらした。しかし、友である故に書を交わし合ったのではございません」
「判らないな」
正直にハルディールは言った。
「それなら、父上と、こちらの閣下の接点は」
「――〈シリンディンの白鷲〉です」
そこでアンエスカは、物事の確信たる一語を口にした。
「何」
ハルディールは腰を浮かせた。
「閣下は〈白鷲〉をご存知なのか? もしや、居場所も」
「ある意味では」
「どこだ。彼はどこにいるんだ。二十年前のように、シリンドルに手を貸してくれるのか。僕に、手を」
「殿下」
アンエスカは片手を上げた。
「思い出していただきたい。〈白鷲〉の伝説のことを」
「いまさら、何を言い出す」
ハルディールは少し笑って、椅子に座り直した。
「あの日までは、滅多に考えることもなかった。だが、お前と〈白鷲〉を探す旅に出たときから、僕はずっとそのことを考えている」
「左様でありましょう」
男はうなずいた。
「〈シリンディンの白鷲〉は、騎士にして騎士に非ず。王家に仕える〈シリンディンの騎士〉とは異なり、シリンドル国が危機に瀕した際にのみ〈峠〉の神がお送りになる――神の騎士」
アンエスカの語ったそれは、ハルディールが幼い頃から聞かされていた伝説だった。
時に雪狼の襲来に、時に大雪崩に、時に山賊の襲撃に、小さな国が心の底から悲鳴を上げるとき、彼は現れる。
「殿下はそれをどうお思いに?」
「どう、と……」
ハルディールは戸惑った。
「信じていらっしゃいますか?」
「何を言い出す」
またそう言って、王子はまた顔をしかめた。
「当然じゃないか」
「過去に繰り返し現れたとされる〈白鷲〉と、二十年前に私も目にした〈白鷲〉、それらが同一人物であると?」
「そこまで、僕も子供じゃない」
彼は首を振った。
「まさかそんなことは、あるはずがないだろう。〈シリンディンの白鷲〉が、実は人間ではないとでも言うのであれば、僕は何もそれを拒絶したり忌んだりしない。だが、そうではないと思っている」
「安心いたしました」
男は息を吐いた。
「殿下とこうした話をする機会はございませんでしたから、よもや思考を停止させ、盲目的にお信じになっていることのないかと」
謝罪の仕草をしながら、アンエスカは言った。ハルディールは許しを与える仕草を返す。
「では、続けてお話しさせていただきとう存じます」
従者の言葉に王子はうなずく。
「殿下はご理解くださっていますね。〈白鷲〉は、結果として英雄であるだけだ、ということを」
「英雄的行為をした人間が英雄と称えられる、という意味であるならば、その通りだろう。〈名なき運命の女神〉が彼をそうなるべく導く、とでもいうような理屈は別として、英雄になるために生まれ育つ人間はいない」
結果だ、と王子は言った。今度はアンエスカがうなずく。
「お若いのに、よくお考えになっていらっしゃる。アンエスカは嬉しゅうございます」
「追従はよせ」
「私は、世辞など申しません。ご機嫌取りのためにおべっかなど使うものですか。思うところがありますれば、殿下であろうと陛下であろうと、苦言を呈させていただきます」
アンエスカは肩をすくめた。
「本当に、嬉しく感じているのですよ」
「お前に認められれば、僕も嬉しい」
ハルディールは少し照れたような笑みを見せた。
だが、ただの少年らしい表情を見せたのはほんの数秒で、彼はすぐに王子の顔を取り戻した。
「しかし、僕らが探す〈白鷲〉は、二十年前の人物だろう。彼は護符を持って去った。彼が死するか、或いは彼に〈白鷲〉の資格なしとなれば、神は彼から護符を取り上げ、それをシリンドルに返す」
「その通りです」
アンエスカは認めた。
「〈峠〉の神は偉大で慈悲深く、王家に神の騎士を与える。――必ず」
男はきゅっと両の拳を握り締めた。
「よろしいですか、殿下。必ずです」
「もちろんだ。信じている」
「ええ、どうかお信じ下さい。必ず、時はきます」
「……アンエスカ?」
従者の様子が変わったことに、王子は戸惑った。
「何を言っているんだ?」
「――しばらく、ここにご滞在を。キルヴン閣下は、亡き友垣に誓って、殿下をお守りすると言ってくださった」
「何を」
ハルディールは青い目をしばたたいた。
亡き友というのは父王ラウディールのことだろうか、と少年は思った。だが、それが否定されていたこともすぐに思い出す。
しかし、問うべきはそこではなかった。彼は疑念をぶつける。
「滞在とはどういう意味なんだ、アンエスカ。僕は、カル・ディアに滞在するためにやってきたんじゃない。〈白鷲〉を探しに」
「いないのです」
男は、王子の言葉を遮ることに謝罪の仕草をしながら、呟いた。
「申し訳ありません、殿下。このシャーリス・アンエスカ、どのような処罰でも、受ける覚悟でございます」
「何を……言っているんだ」
薄ら寒いものを覚えながら、王子は問うた。
「いないとは、どういう……」
その答えを聞きたくないように思いながら。
「カル・ディアに〈白鷲〉はいない。私は殿下を謀りました」
唇を噛んで、ゆっくりと、アンエスカは続けた。
「二十年前にシリンドルを救った〈白鷲〉は、とうに死んでいます」