第1話 英雄の伝説3-5 神は怒らなかった
シリンドルに怖ろしい混乱が訪れたのは、月のない夜のことだった。
小国である故、王族たちが住まうのは、大国の人間が「城」として考えるような強固な建物ではなく、せいぜい「屋敷」という程度だった。いずれシリンドルのことを耳にするタイオスが考えたように、大都市の富豪ほどにも贅沢を知らない、それがシリンドル王家であった。
その日、体調が悪いと言う王妃を離れに休ませ、彼らはごく普通の民びとのように、家族で食卓を囲んでいた。
そこに、火急の用件だと言って、〈峠〉の神を祭る神殿の長ヨアフォード・シリンドレンが訪れた。
ラウディール王は訝しんだが、それは平和なシリンドルで緊急を要する用件というものがあろうかと訝しんだのであり、共に国を守る使命を持つヨアフォード神殿長が彼の暗殺を企んでいるなどとは、思いもしなかった。
出歩くときにいつでも僧兵を連れ歩くヨアフォードが、このとき同じようにしていても、王は不審を覚えなかった。
長の年月をかけ、意図してそうした常態を作り上げてきた神殿長は、得意の絶頂という顔をして、王の不徳を糾弾した。
即ち、この年の荒天も不作も、全てはラウディール王が〈峠〉の神をないがしろにしたためである、神はそれを嘆き、神の声を聞くヨアフォードに向かって、ラウディールの退位を命じたと。
神が、王の即位退位を決めるなどということは、いかにシリンドルであろうとも、有り得なかった。王位継承者が王になることを神に認められる儀式は存在するが、いつ何時どうするという啓示などはない。
王は自らが引退を決めれば、平穏に、王位継承者たる――主たるは――息子にその座を明け渡す。不慮の事故や病に倒れれば、いくらかの混乱はあるが、結果は同じこと。
そうして新たなる王は、神にお伺いを立てに行く。
神がシリンドルの新王を退けたことはない。ただの一度も。無論、ラウディール王も神に認められた。
ヨアフォードの言はあまりにも詭弁、強弁であった。
王は、それが謀反であると気づく前にヨアフォードに説明を求め、それ以上の茶番を続ける気がなかった神殿長の命令によって、僧兵の刃に倒れた。
異常を察した召使いが身を挺して王子と王女を守り、彼らは気丈にも惨劇に身をすくませることなく、駆けつけた騎士の庇護のもと、館を離れた。
ヨアフォードは、王が神の怒りに触れて逝去したと公表し、いまや歴史書同然の扱いである古い典範を持ち出して、ハルディールの成人までは自らが摂政としてシリンドルを統治するとした。
その典範によれば、王位継承者が存在しないときは、神殿長が次なる王を任命することになっている。
ふたりの大臣は神殿長の暴虐に怒りを露わにしたが、彼らは神殿長を罰するより早く、神の名のもとにやはり暗殺された。
命惜しさ、或いは権力目当てにヨアフォードにすり寄った人間だけが生き残り、シリンドルは神の楽園から神の言葉を騙る男の支配する土地となった。
ラウディール王の側近であったシャーリス・アンエスカは、迷わずハルディール王子を連れて〈シリンディンの白鷲〉捜索の旅路に出、エルレール王女はふたりの騎士に守られて、町に潜んだ。
ヨアフォードは息子ヨアティアと、この日のために育て上げた最高の剣士ルー=フィンに王子の追跡を任せ、僧兵らに王女を捜させながら、自らは、ようやく手に入る〈峠〉の通行にまつわる利権にほくそ笑んだ。
北東の隣国アル・フェイルの王は、昔から〈峠〉の通行権を欲している。カル・ディアルやオル・アディルに挟まれて自由に南へ行けぬことをもどかしく思っているのだ。
力に任せて侵略をしてこないのは、カル・ディアルを警戒するからである。
だが、融通の利かない「神の王家」を亡き者とし、ヨアフォードが実権を握れば、巧いことアル・フェイルに都合してやれる。それがヨアフォードの考えだった。
もちろん、相応の見返りがあることが前提だ。
ヨアフォードは幾度かアル・フェイルの首都アル・フェイドを訪れ、国王オルディウスと会見を持っていた。
彼より十ほど年上の老王は、貪欲に通行権を求めてこそこなかったが、興味があることはうかがい知れた。今後もよき関係を保とう、困ったことがあれば相談に乗ろう、とオルディウスは彼にアル・フェイドの伝書鳩を贈ってきた。口先だけではない、とわざわざ示したのだ。
ここは、急ぐ必要はない。地盤を固めてから、ゆっくり話をすればいい。
ヨアフォードの計画は順調に進んでいる。
あとは、ハルディールを消してしまえばよい、と彼は考えていた。
王女に継承権はない。王子さえいなければ、愚民が何を思ったところで、シリンドル王家の歴史は終結だ。いや、少しは民の気持ちを慮ってやってもいい。新王には、シリンドル家に縁ある者を立てる。そうすることで、対外的にも「自らが王に成り代わる目的で反乱を起こしたのではない、全てはシリンドルのためである」と弁を立てられるだろう。
そう、シリンドルのためだ。
シリンドルは、もっと強く豊かになれるのだ。
〈峠〉の通行権を巧く使って、大国と取り引きをする。
代々のシリンドル王は愚かすぎた。〈峠〉の存在は宣伝されるべきだ。そして、そこには通行料を科すべき。
いままでは、銭貨一枚すら出されることなく、〈峠〉を好きに利用されてきた。
〈穢れの日〉の数日間であれば、一商人や旅人、ちっぽけな隊商がシリンドルに滞在することになるが、宿屋が少しばかり潤うだけだ。
神のおわす〈峠〉を商いに利用などしないと、それは王家の最前提だった。
馬鹿げている。
神の――。
「〈峠〉の神の怒り、か」
ふっ、と笑いが洩れた。
齢五十を越そうというヨアフォード・シリンドレンの外見は、四十の前半から半ば程度に見えた。
どんな非道を働こうとも、彼にはこれまで神殿長としてやってきた実績があった。
朝は神官たちとともに早くから目覚め、祈りの言葉を捧げて、シリンドルの平和と発展を願う。食事も贅を尽くすようなことはせず、「神官」という言葉に相応しい清貧たるものだった。
〈峠〉を見回り、不審なものがないか、神のしるしがないかと点検する役割も、下に任せきりではなかった。
酒は少々嗜むが、溺れるようなことはなく、日が変わる前に休んだ。
つまり、規則正しい生活と、無駄のない食事、日々の運動、たとえ腹の奥が黒くとも、それらは彼を健康に若く保っていたのだ。
彼は聖職にあるが、子を持つ。
八大神殿の神官であれば、滅多なことでは婚姻をしないものだが、〈峠〉の神は男女の交わりを悪徳としない。自然であれ、という辺りだ。
ヨアフォードも娶った。息子が欲しかったからだ。いずれは、彼の地位を継ぐ者が。
言い換えれば、妻は要らなかった。赤子が母親の世話を必要としなくなる頃、「不幸なことに」ヨアフォードの妻にしてヨアティアの母は死んだ。彼女の喉に絞められた痕らしきものがあることを目撃した神官は、その翌日には神殿長と共に見回った〈峠〉で、「足を踏み外して」死んだ。
それでも、神は怒らなかった。
ヨアフォード神殿長は今日も太陽の日を浴び、ラウディール王は土の下に埋められている。
「どう思う、ログト僧兵団長」
不意に神殿長に声をかけられ、気の毒に団長は目を白黒させた。
「は、何でありましょうか」
「神がお怒りになっているならば、この私などは、即座に雷に焼かれなければならないだろう」
「それは……神殿長が正しいことをなさっているから、神はお怒りではないのです」
ログト団長は必死で考えながら答えた。
「よかろう」
ヨアフォードの望む答えはそれではなかったが、彼はうなずいた。
「息子からの連絡を聞こう」
「は」
僧兵団と言っても、その全員が〈峠〉の神に仕える神官ではない。もちろん本物もいるが、その多くは僧兵など名ばかりの、他国の元軍兵や流浪戦士の寄せ集めである武装団だった。荒くれ者を含めて統率する必要のある僧兵団長は、シリンドルの人間ではあるが、若い頃に余所で軍兵になった経歴を持つ男だ。
そこを買われて団長に指名されたものの、〈峠〉の神が何を思うのかは判らず、宗教談義などに持ち込まれなかったことに安心した。
「王子は〈白鷲〉と合流、帰国の途についているとのことです」
「〈白鷲〉か」
ヨアフォードは舌打ちした。
「覚えている。二十年前の、あの出来事」
山脈の向こう、南のラスカルトで追われた山賊たちが〈峠〉を見つけ、シリンドルに押し入ってきた。あの頃は〈シリンディンの騎士〉も十名ほどいたが、五十名からなる山賊の一団を掃討することは容易ではなかった。その当時はヨアフォードもまだ神殿長の座にはなく、無論、僧兵団も集まっていなかった。神官が形ばかりの訓練をした、本当の意味での「僧兵」だが実戦には向かない、そうした兵が数名いたばかりだ。
伝説の〈白鷲〉の護符を持った剣士が、物語のごとく颯爽と現れなければ、シリンドルは略奪の限りを尽くされただろう。
シリンドルが危機に陥ると現れ、シリンドルを救うと言う〈白鷲の騎士〉。
そんなものをヨアフォードは信じていなかった。いや、いまでも信じていないとも言える。
二十年前の〈シリンディンの白鷲〉が、伝説に謡われる剣士と同一人物であるはずなどないのだ。




