第1話 英雄の伝説3-1 絶対に敵わない
じり、じりと距離が詰まる。
タイオスは全身の毛がちりちりとするのを感じていた。まるで雷神の子ガラシアにまとわりつかれているみたいだ。
本音を言うならば、踵を返して逃げ出したかった。
相手の実力は、見れば判るものだ。
たとえば「素人」と「初心者」と「初級者」には、それぞれ違いがある。非常に大雑把な判定にはなるが、動きを見ればおおまかなところは判るものだ。
腕が上になってゆけばその差は顕著ではなくなるものの、それでも判る。
自分を軸にして「負ける気がしない」、「やや勝つが、または負けるが、大筋で同格である」、そして――「絶対に敵わない」。
二十年選手のヴォース・タイオスは、彼より十五から二十は年下の相手に、最後のそれを当てはめていた。
それは、ただの勘と言ってしまえばそれだけのものだった。だが、こうした勘を無視してこなかったことが、タイオスをこの年まで生き残らせた。
世の中には自分を実力以上に見せるはったり野郎もいるし、タイオスの勘がそれに騙されたこともあるが、少なくとも初心者がこれだけの警戒を彼に起こさせることはない。最も低く見積もっても、同格。タイオスはルー=フィンの力をそう判定していた。
(……同格)
(こんな、ガキみたいな若造が、同格か)
(俺は二十年、何をやってきたんだか)
自嘲めいた思いが浮かぶ。
こうして改めて相向かえば、ルー=フィンは二十歳を少し回った程度と見えた。
二十歳の頃のタイオスは、剣をぞんざいに扱っては師匠にぶん殴られ、素振り百回だのと罰を命じられてはそれをさぼることを考えていた。街のちんぴらには余裕で勝ったが、師匠どころか、少し経験を積んだ数年先輩の兄弟子にもこてんぱんにされた。
それから運よく二十年の月日を生き延び、熟練と言われ、定評のある戦士と言われるようになった。
なかなかのものだ、と自分でも思う。世間に「戦士」は掃いて捨てるほどいるものの、ここまでやれる男は少ない。途中でほかの仕事を見つけて引退する場合もあるが、それは少数派。たいていは戦いのさなかで酷い負傷をして戦士業を続けられなくなったり、或いは――戦死するのだ。
しかし、積んできた経験も送ってきた時間も、屁の突っ張りにもならない相手というのがいる。
天賦の才に恵まれた、若者。
彼らがひとつひとつ学び、積み重ねてきたことをほんの一瞬で理解する。彼らが理想としつつも成せないことを、まるで生まれたときから本能で知っているかのように、容易に行う。
狂おしいまでの嫉妬と、どうしてという理不尽な気持ち。
だが、仕方がない。存在するのだ。神に選ばれし者というのは。
タイオスはいま、銀の髪と緑の瞳を持つ若い剣士に、それを感じ取っていた。
本気で戦れば、負ける。必ず。
(だからって、いまさら尻尾は巻けん)
そう思わせるのは自尊心。それとも、見栄。何であれ、いまから「すみません、降参します」と言ってみたところでルー=フィンが剣を引かぬことは確かだろう。
ルー=フィンが動く。タイオスは逃げ出したい気持ちを抑えて踏みとどまる。
「いつまで睨み合っている」
苛ついたように、ヨアティアが声を出した。
「ここで終わりにするんだ、ルー=フィン。――殺れ」
それを合図に音もなく飛び出す若い剣士は、まるで一陣のつむじ風。タイオスはほとんど反射で、ルー=フィンの一撃目を受けた。
(速い!)
若者の細剣は、隼のように襲いかかってきた。中年戦士は必死で使い慣れない剣をそれに合わせ、方針を定める。
(普段なら「焦った素人か愚者のやり方」と嘲笑うんだが)
ぐいっと彼は、相手ではなく剣を押しやるようにした。
戦う相手は人間であって武器ではない、ということを師匠はよく言ったものだ。武器に気を取られるな、相手を見ろと。
ずっとそれを実践してきたタイオスだったが、いまは逆を選んだ。
(剣をへし折ってやる)
そんなことを考えついたのは、アンエスカが剣を折るの折らないのと騒いでいたせいでもあり、まともに剣を合わせていては絶対に勝てないという嫌な確信にもよった。
混乱した素人の「愚かな行為」と、彼の意図的なそれは違う。運よく、違うようになった、と言うべきかもしれない。
容易にルー=フィンの剣を折ることこそできなかったが、ルー=フィンの目にも熟練の戦士と見える――そして、伝説の騎士〈白鷲〉であると彼が考えている――タイオスが初心者のような動きをしたことは、逆に若い剣士を戸惑わせた。
素早く引くとルー=フィンは緑色の瞳を細め、目前の男が何を考えるのか、伝説のような活躍は本当なのか、計るようにタイオスを見た。険しい目つきで彼の命を狙っているはずなのに、それはどこか清廉としていて、タイオスは奇妙なものを感じた。
(こいつ……いい顔、してやがる)
端整な顔立ち、と言える。
少し衣装にでも気遣って、ひとりで酒でも飲んでいれば、女たちが影できゃあきゃあと騒ぐ伊達男になるかもしれない。
だが、タイオスが思ったのはそういうことではなかった。
それはまるで、戦うことしか知らない「戦狂い」の戦士のように。剣を振るうことによってのみ生きていると感じられる、どうしようもないタイオスの仲間たちが垣間見せるもの。
自分はいま、自分という人間に最適な時間を送っていると実感した人間が見せる、満ち足りた顔。
ルー=フィンはそれを見せていた。
それは、若い剣士を否応なしに輝かせ、活き活きと見せていた。
(――ぞっとする)
タイオスとて――端整な顔立ちではないが――他者からはそう見えるときもあるかもしれない。剣を振るい上げて喜んでいる、狂人だと。
だが彼は、命のやり取りを楽しんだことなどない。
戦いの高揚感は覚える。それでも、たとえどんな悪党が相手でも、殺して爽快ということはなかった。
しかし、ルー=フィンの輝きの源にあるのが、ハルディールらの話から想像されるような狂信にあり、彼自身や仕える相手の意に添わぬ者を殺すことに使命や歓喜を覚えているのだとすれば。
それはとても、気味が悪く感じられた。
(お上品な剣を使ってどうにかなる相手じゃないな)
礼儀正しい剣技では――文字通り――太刀打ちできない。タイオスは躊躇うことなく足を振り上げるとルー=フィンの膝から腿の辺りを蹴りつけた。ルー=フィンは均衡を崩し、冷淡に見えた白い頬に赤みが差す。かっとなったかのようだった。
タイオスはかまわず、剣では攻めずに防御に専念、ルー=フィンのリズムを狂わすように足技や肘やらを使うことを心がけた。
(上等)
(剣の天才だとしても、喧嘩慣れはしてないって訳だ)
一対一、紳士的な決まりに則って行う決闘でもあれば、タイオスは絶対、天地がひっくり返っても、ルー=フィンに負ける。だが、こうしたほとんどやけっぱちの戦法をルー=フィンは知らないようだった。
戦士がなりふりかまわなくなるのは、生死を分ける境界線に近づいたと感じるとき。
タイオスが幾度もくぐり抜けてきた死線のこと、ルー=フィンは知らない。
(体験の力は、もしかしたら未経験の天才に勝る! かもしれん!)
中年戦士は心のなかで叫んだ。
(……正直、厳しいとは思うが)
本音も続く。
長引けば、天才はすぐに喧嘩戦法を習得する。それだけの能力の持ち主だと、タイオスはルー=フィンを買っていた。それが仮に運よく見込み違いだったとしても、単純に、四十男と二十歳の若者だ。どちらが先にへばるかなんて、考えてみるまでもない。
喧嘩に負ければ、あとはない。
あまり、保たないと思った。
「眼鏡! いまの内に王子を連れて逃げろ、早く」
ルー=フィンに肘打ちをかまそうとしつつ、タイオスは叫んだ。叫びながらであったためにタイミングを掴み損なったか、それともルー=フィンが三撃目にして早くもタイオスの癖を見て取りでもしたのか、若い剣士は中年戦士の乱暴な行為を避けた。
かと思うと、そこに足がかけられる。
「くそっ、汚えぞ!」
言ったのはタイオスである。これほど、自分を棚に上げた台詞もない。
「どっちが!」
当然のことに、ルー=フィンは言い返した。
「先にやったのは、そっちの」
「ははあ、先にやりゃ真似るのか。物真似野郎」
「何を」
いいぞ、とタイオスは思った。
腕のいい剣士でも、こんな簡単な、挑発とも言えない口先の応酬に気を取られるくらいには、可愛らしいようだ。
「神様がどうとかご立派なことを口走ってたようだがなあ! 戦士や剣士なんて所詮、人殺し。お前がどんな神を崇めていようと、守ってくれなんざ、せんよ」
「知ったふうな口を利くな!」
ますます、ルー=フィンの頬が赤くなった。信じているものを貶められて怒っている。
これは、ともすれば恨みを買う行為だが、隙のない相手に隙を作り出すには、大いに有効。
タイオスは続けて、どんな神だかも判らぬルー=フィンの神を罵った。
(いいぞ)
(もっと腹を立てろ)
 




