第1話 英雄の伝説2-10 怪我はないか
「俺は有能さ。だが半刻じゃちょっと短すぎただけ」
「だろうな」
タイオスは知ったふうにうなずいた。
「繰り返すが、依頼は取り消す。俺の言ったことはみんな忘れろ。それから」
じろりと、プルーグを睨む。
「さっき口走ったように俺を売ってでもみろ、どんなに逃げ隠れても必ず見つけ出して、剣の錆にしてやるからな」
「うへえ、怖い怖い」
どこまで本気か、〈痩せ猫〉は身をすくませて厄除けの仕草をした。
「判ってるよ、旦那は大事なお客様だ。目先の小金のために、今後も長いおつき合いを棒に振ったりするもんか」
「本当だな」
「本当だよ」
何なら誓うとも、とプルーグは片手を上げて宣誓した。
「よし」
舌先で生きる情報屋の誓いにどれだけ信憑性があるかはともかく、タイオスはうなずいた。
「それじゃまたな、〈痩せ猫〉。用ができたらまた呼ぶ」
「その前に」
プルーグはにやっとした。
「『金ができたら呼ぶ』だろ?」
「そうだな」
タイオスは苦笑した。
「『俺とお前の仲』なんてそんなもんだ」
要らないなどと言っていたが、何のことはない、建て前という訳だ。
「あっちだよ」
不意にプルーグは、自分の背後を指した。
「……何?」
「〈ひび割れ落花生〉から逃げ出した禿げ親父とガキなら、あっちへ行った。俺ぁ、見てたんだ」
どこそこの小さな通りに入っていったようだ、とまで詳しく情報屋は述べた。
「本当か」
タイオスは指を弾いた。
「でかしたぞ、〈痩せ猫〉。次回には必ず、割り増して支払ってやる」
「期待しないで待っとくよ」
情報屋はひらひらと手を振った。
「じゃあな、タイオスの旦那。――死ぬなよ」
「……プルーグ?」
その言いように、違和感を覚えた。
イリエードのような戦士からそう言われるのと、情報屋から言われるのとでは、印象に違いがあった。イリエードの場合は「俺も死なんようにするがお前も頑張れ」という同類意識によるものであり、プルーグの場合は、単なる軽口だ。「金づるなんだから死ぬなよ」とでもいう辺り。
しかしこのとき、タイオスは〈痩せ猫〉の口調に普段と異なるものを感じた。
「お前」
プルーグが護符について口走っていたことを思い出した。
何か知っているのか、と再び問いかけをしようとしたが、猫はまるでしっしっと追い払われたかのように、素早く逃げ去ってしまっていた。
タイオスは少しだけその場にとどまったものの、いない情報屋に答えは訊けない。彼は首を振って気分を変えることにした。
(思わぬ時間を取ったな)
タイオスは思った。
(プルーグを無視する訳にもいかなかったが、もしハルがまた迷子になってたら、探す範囲が広くなりすぎるところだ)
冷静なように見えたが、恐慌状態に陥って、闇雲に駆け出しでもしていれば。
アンエスカは王子を守る立場だが、以前には一度、ハルディールとはぐれた前科がある。それに、口は達者だが、アンエスカこそ泡を食って、右も左もなく逃げ出しているかも。
(少なくともハルを離れやしないだろうが)
(いや、判らんか)
緊急事態になると、人は自分でも思わぬ行動を取るものだ。高潔とされていた人物だって、女子供を押しのけて逃げようとすることもある。
ましてや、あの嫌味男。
王子を離れぬなど、気持ちは本気だとしても、いざとなればどう出るものか。
(「あっち」か)
プルーグの指した方角を信じるなら、彼の向かっていたのは逆方向。
タイオスは踵を返して、そちらに向かってみることにした。
(もしも奴らが捕まり、殺されたら)
(俺が〈白鷲〉じゃないという証明ができなくなる)
そうなればほとぼりが冷めるまで逃亡生活。そんなもの、いつ冷めるか!
シリンドルの運命より、自分の命。
アンエスカに何をどれだけ罵られようと、命あっての物種。
もっとも、タイオスの現状としては、自分の無実を証明するためにハルディールを守り、助けなければならない。アンエスカに文句を言われる筋合いはないと思っていた。
「……ハル? アンエスカ、いるのか」
周辺を警戒しながらプルーグの示した方角に足を伸ばしたタイオスは、闇にそっと呼びかける。
「ハルディール」の偽装に「ハル」ならば、「アンエスカ」にも愛称をつけてやった方がよかっただろうか、だが「アン」などでは気味が悪いな――などとタイオスは益体もないことを思った。
(あんな奴に親しげな愛称なんか必要ない)
(言うとすれば)
(「眼鏡」で充分だな)
それでよし、とタイオスはひとりうなずいた。
「ハル」
そっと繰り返して、反応を伺う。五度目になると、無駄なことをしているかという気分になりだした。しかしそこでタイオスは「ここだ」という返事を聞いた。
「ここだ」
ハルディールはもう一度声を出して、暗がりから姿を見せた。隣には、「眼鏡」アンエスカもきちんと逃亡せずにいた。
「まずは返そう」
タイオスはアンエスカに細剣を差し出した。
「いい手入れをしてるな」
この男を褒めたくはなかったが、公正な観点からタイオスは言った。
「当然だ」
男は礼を言ったりはしなかった。彼から愛剣を取り返すと、ためつすがめつ、傷が増えなかったかと確認をする。
「斬ったか」
「ああ。少し腕を切りつけたくらいだが」
戦士は認め、片眉を上げた。
「きちんと拭ったつもりだが、判ったか」
「それくらいは」
アンエスカはそれだけ答え、細剣を鞘にしまった。指先が、腹の前で動く。タイオスが見たことのない仕草だった。王に賜った剣ということだったから、何か忠誠を示す仕草なのだろうと戦士は考えた。
(王への忠誠、か)
(俺にはよく判らんね)
彼にも「主人」がいたことはあるが、それは金と契約によるつながりで存在した関係であり、誰かに忠義を抱いたことなどない。立派な人間に敬意を覚えることはあっても、それ以上のことはなかった。
「その剣は?」
タイオスの腰にあるもう一本の武器に目をとめて、アンエスカは尋ねた。
「襲撃者から譲り受けた」
もちろん、お願いして譲ってもらった訳ではない。死体から剥いだ、ということだ。アンエスカはそこに気づいたにせよ気づかなかったにせよ、何も言わなかった。
「怪我はないか」
尋ねたのはタイオスではなくハルディールである。戦士は苦笑した。
「そいつは、俺がそっちに尋ねることなんだがなあ」
見たところ、彼らに怪我はなさそうだった。連中が彼らを見失ったことは判っていたが、慌てて転んだということもないようだ。
「そうとも限らないだろう。護衛が対象を気遣うほかに、主が臣下を気遣うことも」
「臣下になる契約はしていないね」
タイオスは言う。
「頼もしい護衛と離れて心細かった、と素直に言ったらどうだ」
これはちょっとした軽口、冗談というやつだ。
「こちらの方が優位にいるんだぞ」と、どこかに本音も混じりつつ、しかしあくまでも冗談――という機微は、しかし王子には伝わらなかったと見えた。
「そうだな」
ハルディールは言った。
「アンエスカより頼れる剣士がいなければいないで覚悟が決まるが、あるのに不在である、というのは落ち着かない気持ちだ」
真顔で王子は言い、タイオスは苦笑して、アンエスカは苦情をこらえた。
「とりあえず逃げ切れたようで、よかった。しかし」
戦士はううむとうなった。
「どうしてまた、あの場所がばれたもんか」
「タイオス」
王子は声をひそめた。
「店の主人に、話を聞いた」
「何だって?」
「彼は僕たち以上に泡を食って、自分の店から逃げ出していたんだ。それを見つけて、連中が押し入ってきたときの様子を聞き出した」
「どうやって」
びびって逃げ出したとしても、ああした店を経営、或いはどこかの闇組織から任されている男だ。火事の目撃者のように、興奮してぺらぺら話すとは思えなかった。
「アンエスカが、卑劣な脅しをかけた」
「殿……ハル様」
言われた男は苦々しい声を出した。
「本当のことだ」
さらりとハルディールは言った。