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第1話 英雄の伝説1-10 情報屋

 そうして、どれだけ逃げ回っただろう。

 このコミンの町は彼の庭だが、彼は戦士であって盗賊ではない。追っ手から逃げるために都合のいい経路など、考えてみたこともなかった。

 振り切ったかと思えば追いつかれ、繰り返す内に足も棒になってくる。

 硝子の破片で切った傷口は浅く、少しは流血したものの、ふさがっていた。だが羽織った上衣がこすれて、じんじんと痛みを感じる。

 脇腹と背中にいまも残る大きな傷痕に比べれば些細なものとは言え、痛いものは痛い。

(クソ)

 もう、罵りの言葉も尽きてしまった。

(あのガキめ! 何であんなものを俺に)

 恩を仇で返すとはこのことだ。

 飯をやった代わりに、厄介ごとの贈り物。冗談ではない、とタイオスは思った。本当に。心の底から。

(どうすりゃいい)

 いまや宿も押さえられている危険性が高い、と彼は判断した。武器は娼館、胸当ては宿、どちらも取り返せやしない。

(戦士としちゃ情けないが、町憲兵隊レドキアータにでも助けを求めるか)

(だが……ここの町憲兵どもはいまいち頼りないしなあ)

 大きな街と比べて不正がはびこっているようなことはないのだが、喧嘩や窃盗くらいしか事件がないものだから、いくらかのんびりしているところがある。いまごろは娼館での殺しに、民間人と同じように顔を青くしているのではないか。

(――殺し)

(ラベリア。いい女だったのに)

 彼はそっと哀悼の仕草をした。

(しかし、彼女には悪いが、ティエが空いていなくてよかった)

 正直なところを思えば、それだった。

 今宵、彼がティエを買っていれば、死んだのは彼女であったかもしれない。いや、間違いなく、そうなったはずだ。

 そう思うとぞっとする。

 死んだ春女を悼む気持ちは本当だが、あれがティエであれば、タイオスは我を忘れてルー=フィンに立ち向かい、囚われるか殺されるかしていた。

 ラベリアを巻き込んだという思いもあるものの、彼だって巻き込まれている。

 恨むならタイオスではなく、ルー=フィンかあの子供にしてくれと死人に語りかけた。

 すっかり、夜も更けている。

 このまま夜明けまで隠れ続け、朝いちばんでコミンから逃げることを考えた。

 しかし、町を出たところで解決になるとは思えない。

 ルー=フィンの凶行を思えば、あの剣士、或いはヨアティアは憲兵隊など歯牙にもかけないのだろうが、それでも憲兵隊や町の人々は少なくともタイオスの敵ではない。壁の外に出てしまえば、兎のように追われるだけだ。

(解決策は……)

(ひとつ、か)

 白髪混じりの黒髪をかき上げて、彼は息を吐いた。

(あのガキを見つけて、俺が〈シリンディンの白鷲〉なんかじゃないことを証明する)

 それしかない。

 ようやく方針が定まった。

 タイオスは慎重に路地裏から出ると、まるで盗賊ガーラのようにこそこそと夜の町を歩いた。

 彼自身に後ろ暗いところは何もないのに、明るいところが怖ろしい。恐怖に身をおののかせると言うのではなく、戯けた追走劇がまた再開されるのではないかと思うとげんなりする。

 神よ、と柄にもなくタイオスは祈った。

(どうか俺に、ツキを返してください)

 幸運神ヘルサラクは、その殊勝な態度に、少しだけ幸運を分けてくれる気になったようだった。

 と言うのも、彼は一軒目で、目指す相手に行き当たったからだ。

「おい」

 逃げ回り、すっ転び、夕刻に風呂を浴びたことが嘘のように薄汚れた姿で、タイオスは声をかけた。痩せこけた男は振り返って、びっくりしたように目を見開く。

「〈痩せ猫〉。話がある」

「ああ……何だ、タイオスの旦那か! どこの山賊イネファかと思ったぜ」

 情報屋ラーターの〈痩せ猫〉プルーグは、にやっと笑った。

「おやおや、どうしたんだ? 腰には愛用の剣もなければ、手ぶらで、しかも裸足ときた。上衣の留め具はかけ違ってるし、まるで間男がばれて逃げ出してきたみたいじゃないか」

「うるさい」

「おや、図星かい?」

「そんなはずがあるか」

 女と一緒の部屋から泡を食って逃げ出してきたことは本当だが、火遊びをしてきた訳ではない。うなりながらタイオスは、留め具をはめ直した。

「シリンドル。シリンディンの騎士。〈白鷲〉」

 余計なお喋りを進めることなく、タイオスは言った。情報屋は目をぱちぱちとさせている。

「何だって?」

「ハルディール王子。アンエスカ。ヨアティア。ルー=フィン。これらの名前について、判ることを全部調べてこい。金はいくらでも出す」

「そいつぁ、太っ腹でけっこうだが」

 プルーグはじろじろと彼を見た。

「手ぶら、つまり、財布を持っていないように見えるよ、旦那」

「馬鹿にするな」

 タイオスは上衣の隠しに手を突っ込んだ。

 護符を避け、違うものを引っ張り出す。

「金ならある」

 釣り銭か何かを放り込んでいただけだから、ラル銀貨とスー銭貨が数枚というところだ。彼は長卓の上にそれらを散らし、プルーグは一枚一枚それを拾い上げ、やはりまたタイオスを眺める。

「これが、いまの旦那の全財産って訳だろ」

 ふん、と痩せっぽっちの情報屋は鼻を鳴らした。

「シリンドル。ちょいと、小耳に挟んでることがある。これだけじゃとても動けないね、タイオス」

「この野郎」

 タイオスはプルーグの胸ぐらを掴んだ。

「何を知っている。言え」

「脅されてぺらぺらと喋るようじゃ、情報屋の威厳に関わるってもんだ」

 体格のいいタイオスの前で、プルーグは本当に痩せた猫のようだったが、怖れ気なく笑っていた。

「お前に威厳なんかがあるか」

「〈痩せ猫〉だって仕事に誇りを持ってるのさ。料金もなしに話せないね」

「料金なら払っただろう」

「これっぽっちで?」

「それで話せる分を話せ」

「まずはその手から放してもらいたいね」

 情報屋は言い、戦士はうなって従った。何ごとかと泡を食い、騒ぎになるなら町憲兵を呼ばねばとばかりにかまえていた店の主人は、ほっとしていた。

「さて。タイオス」

 戦士が隣に腰かけるのを見守りながら、情報屋はゆっくりと言った。

「シリンドルについて、どこまで知ってる?」

「何も知らん」

 正直にタイオスは言った。

「半日ほど前に、初めて名前を聞いた。シリンディンの騎士の物語は一度だけ耳にしたが、全部作りごとだと思っていたくらいだ」

「成程ね」

 情報屋はしたり顔でうなずいた。

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