第131話 不憫
ちと長くなりました。
どれくらい馬車に揺られていただろうか。
時折馬を休ませ、そして揺られることの繰り返し。
膝を折って座り、そこに顔を埋めてため息も繰り返した。
一緒に載せている藁が落ちてきても、縛られた手首と足首の痒みももう気にならない。
「ほら、水だ」
「・・・」
馬車の幌が捲られると、陽の光がまぶしく入り込んだ。赤みが増しているから、もうそろそろ夕刻となってもいい頃合いなのかもしれない。
差し出された木の器を黙って受けとる。一気に飲み干して、それを差し出した男に返した。
「便所はいいか」
首を力なく横に振る。
「そうか。またしばらく走るからな」
男が去ってすぐに馬車が動き出した。
少し急な発進だったので、目の前に同じように座る女性が床に転がってしまった。
「大丈夫?」
「すみません、ボーっとしちゃって」
「うん・・・」
私と同じくよれよれのベージュ色のワンピースを着たこの人は、フィロデニア王都から連れられたという。とある経緯で建物に押し込まれ、押し問答を繰り返した後に、気付いたら馬車に揺られていたのだとか。
この人の名前はシア・ハンス。王都で孤児院を切り盛りしていたらしい。私がこの幌の中で目を覚ました時、シアは開口一番に私の名前を口にした。どうやらシアは私のことを知っているようだった。
私も馬車に押し込まれた経緯を話すと、ひどく驚いた顔で「警備の兵士さんがいたのでは?」と言うのだが、それは私が聞きたい話だった。
そんな話をしているうちに、二人とも話す元気すら失せ、黙ったまま道のうねりの振動に身を任せるようになってしまった。
「みんな大丈夫かなぁ・・・」
シアがポツリと漏らした。こんな状況でも孤児院にいる子どもを気遣えるものなのか。こんなに優しい人が連れ去られる現実を許せないし、そして歯がゆく思えてならなかった。付けられた首輪さえなければ魔法を使って脱出が適っただろうに。
「シアさん、きっと大丈夫。頼りになる人だっていたんでしょ?」
「はい・・・。でも少し遠くに行ってしまっていて・・・。しばらく戻らないって・・・」
「そう・・・。でも、子どもは大人が思うよりもたくましいものよ」
「そうですね。一番上のお姉ちゃんはしっかり者だから・・・小さい子の面倒も見てくれるし、機転も利くから・・・」
折った脚に顔を埋める彼女の肩が震えた。決して馬車の揺れではない。小さく嗚咽する彼女の声に、私も小さくため息をついた。
どうしてこうなったんだろう・・・。
私も顔を埋めて思い出す。
そう、あれは何日も前のことだった――――。
何度も私のいる屋敷に足を運ぶよう伝えたのに、何ゆえか応じず、結果的に私が赴くこととなった。このミニンスクで2番目に広い敷地を持つジョリオン・パーキンス公爵は、かつてハピロン伯爵がミニンスクの豪傑として知られる前には周辺貴族の中でも一番の英傑とされ、王城で重要な役職者を代々輩出していた名家としても認知されていた。
ところがハピロン伯爵の台頭と時を重ねるようにしてその存在が薄くなり、今では名ばかりの公爵としての名を残すのみとなってしまったのだ。
どうしてそのような没落を辿ることになったのかはわからないけれど、この領地を治めるには今のところ公爵しかいないと結論付け、屋敷に呼び出したのだ。ところが書簡を送ってもなお応じることのない態度に業を煮やした私は、直接伺うと手紙を送り、こうして錠のされた正門の前に立っているわけである。
もちろんのこと、文官たちからは怒りの声が上がった。「王女の要請を断るとは不届き千万!」と王城に報告を上げようと息巻いていたけど、私が直接訪問した後でも遅くはないと宥めたのだ。
衛兵もいない錠の前で文官が開けろと声を荒げる。
正門から見える前庭はよく整備されていて、植木や花も綺麗に整えられているように見える。おそらくはこの屋敷の主であるパーキンス公爵はいると思えた。
声を荒げた文官は大きくため息をつき「帰りましょう」と私に進言した。仕方がないと思い馬車に乗り込もうとしたその時、屋敷の扉が開き、執事と思しき初老の男性が正門までやってくると、恭しく頭を下げた。
「主がお待ちでございます」
そう言って正門の錠を開けると、中へ入るよう促した。
文官たちは「お待ちなのはこっちだ」と怒り心頭で、それを手で制し、黙って敷地に足を踏み入れた。
応接室で待つこと10分ほど、パーキンス公爵が現れた。
顎に蓄えた白髭が年を感じさせるものの、柔和な笑みを湛えたその顔は全く衰えを感じさせぬほどの若々しい艶がにじみ出ていた。お会いすることは初めてだけど、予想と違う顔立ちに思わず目を見開いてしまった。
「ようこそお出で下さいました。私はジョリオン・パーキンスでございます」
「はじめまして、イリアです。突然の訪問にも関わらずお時間を作ってくださり感謝します」
慇懃に礼をするパーキンス公爵に、私の後ろに立つ文官の白い目が突き刺さるのを感じた。しかしパーキンス公爵はそれを知ってか知らずか、その柔和な微笑みを一時も緩ませず、私をみつめ返すだけだ。
「して、イリア王女がこの公爵にどのようなご用事で?」
なんの前触れもなく突然本題に乗り出すあたり、私と話すことに特に礼は必要ないと思っているのだろう。それだけでもわかれば逆に話がしやすいというものだ。
「今日ここに来たのはこの領地の治政についてです」
「ほぅ・・・」
「数年前にあなたに代わりハピロン伯爵がこの領を治めていましたが、彼の死後、私がその責務を一時的に負っています。ですがこの手法も長くは持ちません。いずれ私は王城へ帰ることになるのですからね」
「あぁ・・・お噂はかねがね・・・。なんでも王女自身がハピロン伯爵を手にかけたとか」
顎髭に手を当てて考えるそぶりを示しているものの、言葉の端に棘を感じる。しかしこちらの動揺を誘うには稚拙な揺さぶりだ。
「えぇ。それはその通りです。ですが、異形の魔物に変化して襲いかかったのですから仕方がありません」
「ふむ、確かに・・・。王女を手に掛けようなど、魔物になったとしても許されるものではありませんからなぁ。で、その勇敢なイリア王女がこの私に治政を説くと?どのようなことでございますか」
「今日お伺いしたのは治政について・・・もっと端的に言えば、このミニンスクをあなたの手で再び治めてみてはと思い、そのことについて伺いたかったのです」
「・・・」
顎髭を触りながらもじっと私を見つめるその眼は思案を含ませてぼんやりとしていながらも、探りを入れている雰囲気さえ感じる。
「イリア王女は・・・どうして私がハピロンの台頭を許したとお思いか?」
「・・・申し訳ございませんが、存じ上げません」
「でしょうな。何せ我が家族の者にさえも話してはいないのですから」
「よろしければお聞かせくださいますか」
「ふむ・・・」
公爵は立ち上がると、庭の見える窓際に立ちました。
「私はある教えに興味を抱きましてね。そのきっかけが、この世界の何の変哲もなく溢れる人々の日常が虚無に感じたことがはじまりだったのです」
話しはじめた公爵のまわりの空気が一変し、思わず重ねていた手を握って『何か』から守ろうとしました。
この拭いきれぬ違和感は一体何なのでしょう―――。
いえ、これはどこかで感じたことのある―――――。
「自虐的とも言いますか、自分が滅びてもこの世界が無くなりさえすればそれでもいいと思えるようになりましてね。貴族だの王国だのと、これまで大事にしていたもののほとんどが馬鹿らしく思えたのです」
「・・・つまり、それがハピロンの台頭を招いたと?」
「どこのだれがこの地を治めようが、だんだんとどうでもよくなってしまったのですよ。とはいっても、私はこの家と庭が好きなものでしてね、ここに住むには貴族爵位はどうしても必要だったものですから、決まった納税は行っていたのです。領地運営に興味がなくなってはおりましたが、幸いなことに鉱山を所有していたものですから金は入ってまいります。その収入の一部を納税に充て、ほとんどを教国に奉納していたというのが昨今の私なのです」
見慣れぬ言葉、『教国』――――。窓際で話す彼の顔が歪んでいると気付いたとき、私の考えていたミニンスクのその後の計画が全て潰えたと確信しました。いえ、それだけはありません。この男の内なる狂気を感じ、この場にいることすら失敗なのではと思い始めました。
この男は危険すぎる――――――
「そうですか、公爵のミニンスクに対するお考えはよくわかりました。あなたにこのミニンスクをお任せしようと思ってはおりましたが、領地運営に興味を無くされたのでは仕方あり――――――」
「イリア王女、私の話はまだ終わっておりません」
公爵が私に振り向いてそう話したとき、後ろに立っていた文官たちが次々と倒れました。
「ちょっ・・・あなた達っ!!」
倒れた文官たちに駆け寄ると、どうやら息はあるようです。
「さて、少し私とお話をいたしましょうか、イリア王女」
「っ・・・」
文官たちを置いて逃げるわけには行かない。意を決して公爵を見やりました。
「あなたが私に依頼をされたので、私からのお願いも聞いてくださいますか」
「・・・なんだというのです」
「私が感じるところ、あなたは素晴らしい魔力をお持ちだ。噂ではまったく魔法を使えないと聞いていたのですが、まだ幼き頃のあなたを拝見した際にそれはないだろうと内心思っていましたよ」
「それがどうしたと?」
「もしよろしければ『教国』と行動を共にいたしませんか?」
何を言うと思ったら・・・。私はその問いに応えることなく質問で返した。
「・・・先ほどから教国と言いますが、教国とは一体何なのですか」
「ご存じない?そうですか、王女ともあろう御方が近隣諸国の情勢を知らないようではいけませんな。もっとも、お父上がその情報を教えずに箱入りに育てすぎたのもあるのでしょうがね」
「確かにあなたの言うことは一理あります。ですが、これまで聞いたことのないその国のことをどうしてあなたが・・・」
「教国・・・正式には『マラムバーム教国』と言います。イグル神を崇拝する信教徒によって勃興し、いまではノーザン帝国をも懐柔させるほどの影響力をもっているのです」
「ノーザンを?帝国を手なずけるほどの力が信教徒にあると?」
「にわかには信じられないのでしょうがね」
「イグル神とは何なのですか」
公爵は私が問うた刹那、両腕を天に掲げると、この応接間の床に黒い紋章――――いえ、魔法陣が現れた。思わず身を固めてしまった。その黒い魔法陣からモヤのようなものが立ち込め、そして人の形のような何かに変化していった。
「ふふふ、恐れることはありません。これはあくまでも実体のない絵のようなものです」
例えそうだとしても、見ただけでわかるこの禍々しさは・・・
「全ての生きるものは祝福され、このイグル神に全てを捧げるのです。我々の感じる幸福はイグル神のためにあり、イグル神によって紡がれるのです。つまり、私とあなたの出会いもまた、イグル神によってもたらされた幸福であるのです」
「なにをばかなことを・・・。幸せはそのようなものに受けるものではなく、自らが自らの力で掴むべき―――――」
「はははっ!!ご冗談を!!幸せを掴むことすらままならぬ者もこの世界にはごまんといるのです。王女に問いますが、親を亡くし家すらも無くした子をあなた方はどれだけご存知か?金が者を言うこの世界で、泣く泣く奴隷の身分にまで成り下がり、好いてもいない主人の子を孕む者が幸せを掴めると?そしてあなた方はそれらの心に寄り添い、苦しみを分かち合っているとでもいうのですか?そうだと言うのならこの公爵、今すぐイグル神の心から離れ、全身全霊をかけてフィロデニア王のためにつくしましょうぞ!」
公爵に気圧されるも、歯をくいしばって耐えた。しかし、そこから口撃できるほど私には力がなかった。彼の言っていることは一理ある、そう思ってしまったのだ。
「失礼しましたイリア王女。ですが、私なりにこの国に住まう民の安寧を願っているのです」
公爵はゆっくりと私に近づき目の前に立つと、緊張で固くなった私の手を包むように取りました。
「イリア王女、私の目をみなさい」
「あ・・・」
公爵の言うまま目を合わせたすぐさまに、彼の瞳が紫色に染まりました。
「さぁ、私とともにイグル神の御心に仕えるのです」
「・・・・・・」
これは・・・どうして私は動けないの・・・
「そう、そのままだ・・・」
私の奥底に流れてくる何かが、それを拒絶する私の心に侵食してくるようだ。握られるこの手はきっと簡単に振りほどけたかもしれない。合わせる瞳も反らすことができたかもしれない。でも体の力が抜け、気だるさと心地よさが相まって公爵の言うまま目を合わせ続けてしまう。これ以上続ければ私が私でなくなるかもしれないというのに・・・。
「さぁ、共に口上するのです」
「はい・・・」
「『私の全ては』
「私の全ては・・・」
「『イグル神のために』」
「イグル神のために・・・」
「『あなたの再生に』」
「あなたの再生に・・・」
「『捧げます』」
「捧げます・・・」
そう言った直後、黒いモヤが奔流となって私を包み込むと、私の口を伝って体に入り込みました。公爵の手を振りほどき黒い奔流に抗うも、止めることができません。
「ご・・・おぼおっ!おお・・・ぐお・・・・」
「はははっ!もう遅いわっ!これでケヴィンに代わってフィロデニアをボロネー様に捧げられようぞ!」
「っっ!!」
まさか・・・この男は・・・お義兄さまに・・・
「消え行く『王女』に教えてやろう。ケヴィンには私から教国の教えを説き、私以上にイグル神に傾倒していった。まぁ、結果は残念だったがね。イリア王女もすでにご存知だろう?」
まさ・・・か・・・
「さらばだ、『イリア王女』。全てが終われば素晴らしい世界が待っているぞ」
わた・・・し・・・
「まさか王女自ら転がり込むとはな。わたしも運がいい。これでドルアンドの失態も帳消し―――ん?」
意識が・・・わたし・・・戻ってくる・・・わたしが戻る・・・
「まさか、ドルアンドが言っていたのは・・・」
腰のあたりが突然熱く感じたと思ったら目の前の景色がはっきりと映り、公爵の狼狽した顔に刻まれた皺すらくっきりと見て取れました。体も軽くなったおかげで、二本足でしっかりと踏み込むこともできます。そしていつの間にか床に広がっていた黒い魔法陣も消えていました。
「公爵・・・あなたは・・・」
「王家紋が輝いた・・・クソッ!エルフの古代紋とはこのことだったか!」
「王家紋・・・そう、わたくしの家系は必ずこの紋を刻まれるのです。エルフのことはよくわかりませんが、きっとこの王家紋が守ってくださったのでしょう」
「っ・・・」
「さて、あなたの所業は確かに見届けました。わたくしに何をしようとしていたのかはわかりませんが、お義兄様との繋がりについては王へ報告させていただきます」
私の恫喝に狼狽していた公爵だったが、何かを思い出したのかハッとした表情を見せ、おもむろにニヤリと笑いました。
「えぇ、構いませんよ。それが出来たらのお話ですがね」
「・・・」
身をひるがえした私は、倒れている文官を強く揺すりました。寝ぼけたような顔で目を覚ました文官達は、公爵の目前で床に寝ていたことに気付き、すぐに立ち上がって慇懃に頭を下げたあと、私と共にこの部屋をあとにしました。
「申し訳ございません、イリア様。まさかあんなところで寝ていたとは思いもよらず・・・」
「いいのです。ここでは話せぬ事情がありますから」
「ここでは?」
「このことについては王城へ帰還したところでお話します。出立の予定は3日後でしたか?」
「その通りでございます」
「予定を2日後に早めます。引き継ぎの後に屋敷の事務はあなた達に任せます。それとその間の警備についても増強を」
「承知しました」
逃げるように公爵の屋敷を出た私は、馬車に乗り込んでもなお突き刺さる視線を無視し、白亜の屋敷へと急ぎました。
一連のことを思い出した私は埋めていた顔を上げると、いつの間にかシアは藁を下敷きに眠っていた。もしかしたら私も知らず知らずのうちに眠っていたのだろうか。
パーキンス公爵の事後にもっと早くミニンスクを発っていればこのようなことにはならなかったかもしれない。文官の一人は私にすぐにミニンスクを出るように進言してくれたけど、私はそれを聞かず、後に控える事務手続きの引き継ぎを執り行った。今から思えばそこまで熱心にしなくても、しばらくの間はグォール様に預ければよかったのだ。きっと彼なら助けてくれただろう。
だがもう過ぎたことだ。
私がこれから考えなければならないのは、どうやってこの状況を打破するか・・・だ。
夜を5回迎えたことと、太陽が昇る方向と進む方向を考えれば、フィロデニアの西部であるエルドランを越え、さらに北に向かっていると思う。
私の予想が正しければこの先は―――
その先を考えようとした矢先、馬車が止まった。外の様子を窺う限り、馬を休ませるためだろう。そして再び幌が開かれた。
「よう、イリア王女様。ご機嫌いかがかな」
「ドナート・・・」
「もう少しで今日の野営地だ。それまでは揺れに辛抱しててくれ」
「・・・」
「あいつらには絶対に『商品』に手を出すなと言ってあるが、それでもわからん。もし何かあれば殴りつけてでもいいから抵抗しろ。殺しても構わん。そして俺を呼べ。わかったな」
何日もの間に何度も聞いた注意を、うなずいて応えた。
「よし。わかっているならいい。今水を持って来させる」
ドナートはそういって幌を閉じた。
そう、彼らは盗賊団『赤獅子』。穀倉地帯での戦いの折に私を誘拐しようとしたのが彼らだった。寸でのところでジンイチローに助けられたのだが、彼らは再び現れた――――――。
馬車に乗って公爵邸を出た私は、車内で一人震えていた。
経験したことのない『闇』、『支配』、言い知れぬほどの『恐怖』が、公爵の生み出した黒いもやが私の体内になだれ込んだ時、はっきりと感じられた。わけもわからぬ者に体も心も乗っ取られそうになるあの気持ち悪さは何物にも代え難かった。公爵邸を出てもなお震えていたのは、振り向けばあの黒いもやがまた襲いかかるやもしれないと思ったからだ。
屋敷に戻った私は文官達を集め、ミニンスクからの出立を明日に早めることを伝達した。さらにエナリア様に早々の出立の件について、手紙をしたためるのでそれをもって連絡するよう指示を出した。
文官達は護衛のために王城から派遣される近衛騎士団を待つようにと進言したが、この時の私は聞き入れられなかった。
一刻も早くこの街を離れた方がいい――――――そう思えたから。
責務をこなせなかったとして叱責を受けるかもしれない。
所詮はお姫様のお遊びだったと罵られるかもしれない。
でも、体裁など気にしていられなかった。あの件を一刻も早くお父様に知らせなければならない。でなければこの先危険に晒されるのはお父様であり、それを守る王城の者達であり、それを囲う王都の民達なのだ。
文官たちの進言を余所に屋敷の給仕と共に出立の準備を整えていた私は、部屋に窓があるにもかかわらず、夜になってもとばりでおおわれていたのかと錯覚を起こすほど気が付かなかった。食事も軽く済ませたあと、屋敷に残る文官達への引き継ぎの書類を確認し、この日の活動を記録した。
公爵邸での出来事を細かく記してもよかったのだが、凄まじい体験をしたとはいえ、証拠になるようなものもなく、ましてや体験していたのは私一人だったという点が引っかかった。お父様は信じてくれるかもしれないが、周囲の文官達はわからない。ついに王女の心労が重なったかと見られるやもしれない・・・。
公爵邸に出かけたことのみを書き記した私はペンを置き、軽く伸びをした。
軽い疲労感を覚えた私は、お茶を飲む前に屋敷の庭園に出てみることにした。月夜の晩にこっそり庭園を散歩するのは実に気持ちがいいから。
靴を脱いで歩くのも最近の楽しみ。素足に刺さる芝生の新芽をこそばゆく感じつつ、、丸くなりかけた月夜の空にもう一度腕を挙げて伸びをした。
上に羽織るものを着てよかった。今日は少し冷えていた。
・・・衛兵だろうか。黒い影が此方に向かって駆けてくる。左右からも同じく影が近づいてきた。それはそうか、王女が一人で夜に散歩など、兵士がいようがいまいが危なっかしいのに変わりはない。これまで見つからなかったことのほうが奇跡だ。
でもおかしなことに、兵士特有の防具の擦れる音が聞こえない。
背を丸くさせ、あえて周囲に悟られないようにしているようにも―――――
私はこのときようやく事の重大さに気付いた。
そして部屋に戻ろうと踵を返した私の背中を、誰かが勢いよく蹴り上げた。
「あぐぅう!」
芝生に投げ出された私の体に誰かが圧し掛かった。私はほぼ無意識に、魔法で手の平に炎の塊を作り出していた。
だけど、それは儚くも消えてしまった。
私が魔法を編み出していたのとあわせて、圧し掛かった者が私の首に何かを装着したのだ。この首輪は覚えがあった。穀倉地帯で誘拐される時に付けられたものと全く同じであった。
私はこの時初めて、自分を襲った者の正体を知った。
「『赤獅子』!!」
「俺達を覚えてくださって光栄の極みだ」
月の明かりがあってもよく見えないが、その声も聞き覚えがあった。
「あなたはドナートね」
「その通り。迎えに来てやったぜ、王女様」
圧し掛かった者が離れ、私の髪の毛をむんずと掴み立ち上がらせると、ドナートの目の前まで歩かされた。
「俺達と一緒に来てもらうからな」
「誰があなたたちと一緒に行くものですか!!」
自分でも驚くほど下品とも思えたが、私はドナートに向かって唾を吐いた。
ドナートの頬に私の唾が流れた。
「てめぇ!!親分に何する!!」
下っ端の男が不意に近づいたので、男の股間を思いっきり下から蹴り上げてやった。
声も出せないほど悶絶する姿を見て内心「ざまぁみろ」と思った。
それでもドナートは変わらぬ声色で「行くぞ」と言ってその身を翻した。
ドナートの後に付いていくようにとお付きの連中が私を連れて行こうとするので、体をよじらせて抵抗した。
「誰かぁあああああ!!来ウウウウウウウウ・・・」
大声を上げたものの、すぐに口を押えられた。
ドナートは近くにいた男に手で指図すると、その男が私におもむろに近づいたと思ったら、鳩尾に勢いよく拳を突きたてた。
「へぉっ!!・・・ご・・・ぉ・・・」
途端に私の意識はそこで暗闇に囚われてしまった―――――
再び馬車が揺れ始めた。
すでにミニンスクでも王都でも私の不在に焦っているかもしれない。
でもここに居ることは誰も知らないだろう。
誰か・・・気付いてほしい・・・取り返しがつかなくなる前に・・・
ジンイチロー・・・・・。
いつもありがとうございます。
次回予定は6/5のです。
よろしくお願いします。