第1話 サラリーマン三田仁一郎は魔法陣を見た
仄暗い石造りの狭い廊下に松明の灯が鈍く照らされる。灰色のローブを纏った男が二人、列になって歩く。先頭の男は松明を、後ろの男は傍らに大きい本をもっていて、松明の灯があっても数メートル先すら見通せない暗闇へ向かって歩く。
足音が急に拡散した。広いところへ出たようだ。先頭の男が松明の灯を壁に向かって差し出した。すると、炎が油の道を辿るように一本の筋になって壁伝いに突き進む。
徐々に明るさを増すこの部屋は、広いドームになっていた。それは全て石造りで、炎の赤み以外は色のない灰色の空間だ。
「ドノワよ、いよいよです」
「はい。この時をどれほど待ち望んだことか。見てください、この武者震いを」
ドノワと呼ばれた男は手の震えを本を持つ男に見せる。
「ふふふ、気持ちはわかりますよ。ただ、高揚しすぎて失敗しないように。何なら抑揚低下に効く薬でもあげ差し上げましょうか?」
「いえ、大丈夫です。任務は必ずやり遂げます」
「それなら結構」
ニヤリ、と二人とも口を歪ませる。そして松明をもつ男が目を閉じる。薄ら笑みを抱えたまま両手を広げた。
「我々の望む世界への序章がいまここから始まるのです。高揚するこの心もさしづめアレの副作用かもしれませんが、確かに感じるのです。この何の魅力もない世界を変えうる力を吐き出し、成し遂げたい・・・。だからこそ長い道のりも耐えられたのです。くだらない折衝をし、くだらない政争を繰り広げ、くだらない娯楽に付き合わされ、くだらない笑顔を作る。そう、全てはこの時のために・・・」
「その通りです、ドノワよ。さて、そろそろ出立の時です。任務の確認をしますか?」
目を開けたドノワは本を持つ男を見て首を横に振った。
「大丈夫です、ボロネー様。もう何年も頭の中で繰り返してきました」
「よろしい。それでは行きなさい」
「はい」
ドノワは壁の松明置きに松明を入れ込み、この部屋の中心部へ歩く。ボロネーもあわせて中心部に歩む。二人は並んで中心部に立つと、ボロネーが本を開いた。本の中身は白紙だ。だがボロネーは意に介さない。真ん中ほどのページのところで、たどる指の動きが止まった。
「ククク、よもやこんな単純な発動条件であったとは・・・彼女も人が悪い・・・」
ボロネーのつぶやきに、ドノワが口元を緩ませる。
「それではいきますよ・・・」
「はい」
ボロネーは目を閉じる。徐々にボロネーから赤い粒子が噴き出し始めた。やがてそれは渦になってボロネーの体の周りを纏い、そして本のなかに吸い込まれていく。白いだけのページに赤い模様が浮き出してきた。二重の円形の中に幾重にもわたる文字も現れはじめた。
(このような魔法陣となるのか・・・見たこともない重なりだ・・・)
ドノワはボロネーと本の様子を交互に見やる。魔法陣が赤い光を放った。どこからともなく風がぶつかって、二人のローブが揺れた。本の魔法陣からその光度が増しドノワがそのまぶしさに目を細めた.
そのとき―――
「古書よ!我らが願いを叶えたまえ!魔法陣よ!我らが願いのしるべとなりたまえ!」
突如として本の中の魔法陣が大きく投影された。二人の身長を上回る直径で、その二重円の中心には、見たこともない景色が映し出されていた。いや、すぐそこの手の届くところに存在している。この部屋と同じ灰色で出来た大きな建物、高速で通り過ぎる鉄で出来ていると思われる箱、見たこともない服を着ている男性・・・。いずれも文明の高さがうかがえる。
「驚きました、ボロネー様。このような世界があるとは・・・」
ドノワは映された景色に向かって指差した。
「ええ。まさに『異世界』。我々の世界とは異なる『理』で動いていると言えるでしょう。文明の力を感じますね。ただ、それだけ、我々が望む『モノ』が無数にあると言えます」
ボロネーの言葉を聞き、ドノワは大きく息を吸い、ゆっくり吐き出した。
「・・・さて、ボロネー様。行ってまいります」
「首尾よく頼みます。期待していますよ」
「身に余る光栄です。では失礼します!」
ドノワは異世界の景色の中に飛び込んだ。ドノワが異世界に足を踏み込んだ瞬間、魔法陣がまばゆい青色に包まれ、そのまま青い粒子となって空間に飛び散り消滅してしまった。ドームの部屋は再び静寂に包まれた。
「ククク、頼みますよ。これから楽しみですね・・・アハハハハハハ!」
隠し切れない笑いは、炎を揺らした。
(そういえば、しばらく魔法陣は消えずに残るという記述があったはずですが・・・。まぁ、大して意味はありませんかね)
・・・
・・
・
コンビニの前で少なくなった缶コーヒーを煽り、空き缶をゴミ箱に入れる。
「はぁ・・・。」
吐きたくもないため息が口から漏れてしまう。残業に残業が重なり自宅へは最近帰った記憶がない。コンビニ前のガードレールに腰を落ち着け、無意識にネクタイを緩めた。あぁ、コーヒーを飲んでも目が冴えない。思考力が鈍っているかもしれない。まだ取引先との約束が控えているというのに。
ため息は今日で何度目だろうか。自社商品の売り込みがなかなかうまくいかず、上司からは無能と言われ続け、その上司は後輩で・・・。残業は毎日深夜にまで及ぶ。どうしてこんな生活が続くのか、俺自身も答えが見つからない。
そうはいっても42歳の厄年。両親からはお祓いに行くようにと年初めに勧められていたが、仕事の忙しさにかまけていたら結局都合がつかなくなった。でもそれも過ぎてしまったことだ。今更悔やんでも仕方がない。暇を作らなかった自分が悪いしな。
「さて、と・・・」
なにを言っても時間は待ってくれない。予定通り取引先に行ってキャンペーン付新商品の斡旋をしようか、とガードレールに預けていた腰を上げたそのときだった。
「!?」
ぞわりとした悪寒を感じた。鳥肌が立って陽気に合わない寒気もする。
それと、この妙な「圧迫感」はなんだというのか?
何の変哲もない『よくあるコンビニ前の通り』が、これまで感じたことのない違和感に満ちている。一体何だというんだ・・・?
だが、その原因はすぐに分かった。
「歪み・・・?」
目の錯覚かと思うほど、『よくあるコンビニ前の通り』が渦巻き状に歪められていく。
目をこすってみても細めてみても変わらず、それはどんどん大きくなっていった。
そして突然、それは目の前に音もなく現れた。
ゲームの中の魔法使いがよく使う、おなじみのものだった。
「魔法・・・陣?」
そしてそれは脈動しているように時折強く光っている。青い光を伴いながらも小さな粒子を散らし、規則的な脈動がまるで生きているかのような印象を抱かせる。こんなところになぜ魔法陣が現れたのか、なんて冷静に考えられないほどの神々しさだ。しかし、二重円の中心だけは違う色に見えた。彼は神々しい光から雰囲気の違う色の部分に目を向けた。
人だ。人がいる。灰色の服を着ている人が二人いて、こちらを指差している。
これはプロジェクターでプロジェクションマッピング?どこからか投影しているのか?しかし機械はどこにもないぞ。
と思った途端、その中の一人がこちらに向かって飛び込んできた。俺は吃驚してガードレールに腰をぶつけ、尻もちをついてへたりこんでしまった。
「ふぉおおおお!本当に来てやったぜ!」
出てきたのは男だった。灰色のローブを着ていて、大きくガッツポーズをとって喜んでいるようだ。
「やっとこれでボロネー様の夢の実現に・・・ん?おい、そこの男。うん、そうそう、お前」
俺?と俺は自分に指差す。
「ちょうどいいところにいたな・・・まぁ俺の話を聞けや」
あ、こいつすごく面倒臭い奴、と脳内認定した。
「この世界には我ら世界の常識はないと思うが、魔法は使えるか?」
「はぁ?魔法?」
「そうだ。魔法を知らんか?」
「いや、知ってるけど・・・」
「知っているが、使えない、ということか。」
「はぁ・・・まぁ・・・」
「そうか。これは実に都合がいい。何をしても俺が優位ということか。ククク・・・」
「・・・」
面倒臭い奴認定も終わったところで、俺にようやく思考が戻る。腕時計の針は約束の時間を指そうとしている。まずい!
「じゃ、そういうことで、さよなら」
「うおおい!話はまだ終わっていないぞ!」
走って逃げようとしたのに、突如男が立ち塞がるように視界に飛び込んできた。男と俺は少なくとも5メートルぐらいは離れていたはずだ。一体何が起きたんだ?!
「俺は崇高な使命をもってこの世界に舞い降りたのだ」
魔法陣を障害物競走のハードルを飛び越えるように飛び越えてきました、と言い換えたい気持ちを俺は抑える。男は両手を空に掲げ、陶酔しているのか目を閉じている。本当に得体の知れない奴だ。
「使命・・・それは時に甘美な響きだが、同時に過酷な試練でもある。」
自分に酔っている人の理論だな、と腕時計を気にしながら思う。
「だが、俺に課せられし使命は、試練でもありながら到達すべき未来でもあるのだ」
ローブの男はそういいながらガードレールに向かって歩き、ひょいっとそれを跨いで道路へ出てしまった。色々な意味で危なさが尋常じゃないな。だがこいつのことを気にしている場合でもない。
気付かれないように静かに後ずさりして少しずつ離れる。
そして振り返った。あとは猛ダッシュ、取引先へ向かうだけだった。だが、男に気をとられていて存在を忘れていたものがあった。
魔法陣だ。
―――ボオオオオン!
「ぅぐ・・・なんだ!?」
魔法陣が唸りだしたのとあわせて青く強烈な光で輝きだした。なんというまぶしさだろう、目を閉じても光が俺の中に入り込んできた。あまりの強烈さに立ち止まってしまった。これは手を翳しても遮られるものじゃない。
まずい!なんだかヤバイ気がする!
そう思って一歩踏み出そうとするけど踏み出せない。光だけのせいじゃない。魔法陣が力で俺を引き寄せているみたいに感じる。
だめだ、どんどん力が抜けていく。踏ん張れない!
力がついに抜けた。体がふわりと浮いてしまった。
「あ―――――――」
俺は光を放つ魔法陣にそのまま吸い込まれていく!
「だああああくそおおおおおお!」
魔法陣に入り込む瞬間に視界に飛び込んだのは、灰色ローブの男が大型トレーラーに轢かれた光景だった。普段だったら胸が締め付けられるぐらい動揺してしまっただろう。でも今はそれどころじゃない。同情の余地は少しはあるが、あいつのせいで・・・・・。
「あいつのせいで・・・ちくしょおおおおお!―――」
初投稿です!
こつこつ投稿できるようがんばります!
※7/16一部修正しました