老と老の闘い
だいぶ昔の話である。
まだ、大正生まれの祖父が生きていた頃。
当時、代々受け継がれた、かといってそれほど立派でもない田舎の家に、祖父母が二人暮らしをしていた。
村の真ん中にある二階建ての田舎屋敷。
隣近所も、だいたいが親戚。
土地の境界線を決めるのも、用水路や大木や岩が主な目印であり、ひどい時には、木の棒でびーっと、「ここから入らないで」とけちん坊な隣の主人に言われるがまま、土地を微妙に取られたりもした。
そんな我が祖父母の暮らしはごく普通であり、その一帯の田舎では平均的な素朴な人生を歩んでいた。
祖父は、退職してからというもの、まるで背後霊かのように祖母について回った。
仕事人だった祖父には、「仕事をする」「威張る」の2つ以外プロフェッショナルに出来ることがなかったのだ。
祖母は毎日べったりと行動を共にする祖父がだんだん鬱陶しくなり、そのうち、知らん顔をするようになった。
年を取るということは大変なことである。
二人暮らしも大変なことである。
まず、祖母が難聴になった。
補聴器を付けるように言われたが、なかなかの頑固者のため、言うことを聞かない。
「そんなものをつけたら、えらいばあさんだと思われるじゃないの。みっともない!」と、自分がいつまでも若者であるかのような反論だ。
オン年八〇歳。立派なばあさんだ。
そうこう若者っぷりを続けるうちに、祖母の難聴が進む。
祖父が隣の部屋から話しかけても、祖母には聞こえない。
とことこ…「ばあちゃん?」
どかどかどか…「ばあちゃん!」
ずんずんどしどし…「ばあちゃん!!」
「あらぁ!びっくりした!驚かせないでよ!心臓に悪いわ」と、こんな具合である。
徐々に、二人の普段の会話が大声になってくる。
電話に出る役になっているのが祖母のため、電話の着信音もしばらくは気がつかない。
「ばあちゃん、電話だぞー」
電話がなるたびに、祖父がいらいらしていて大声を張り上げるようになった。
ある日、祖父が素晴らしいことを思いついた。
笛である。
学校の先生が体育で使っていた、あの呼子だ。
遠くから呼んでも返事をしないなら、笛を吹いてやろう。
そう思ったわけである。
その効果は抜群だった!
話しかけても知らん顔をされ続けた祖父が、笛を使うことで相手を振り向かせることができた。
素晴らしい道具である。
祖父は、どこへ行くにも首から笛を下げて歩いた。
祖父にとっては、問題が解決したかのように思われた。
が、実際は大きな間違いだった。
もともと、祖父の威張りん坊に嫌気がさしていた祖母は、まるで飼い犬のように主人に笛を吹かれるという行為に腹が立った。ここ数年の鬱陶しさに加え、笛で人を呼ぶとは、なんたること!
そのうちに、祖父の近くにいるのが嫌になり、二階に避難するようになった。家庭内別居のようだった。
二階の部屋で寝っ転がってワイドショーやドラマをみていた。一度寝そべると、起き上がるのが面倒だった。
ある日の午後、また電話がなった。
いつものように、階下で『思いっきりテレビ』を見ていた祖父が電話に気づき、階上の祖母に向かって笛を吹く。
電話がすぐ側にあるのに、取ろうとはしない。
自分の仕事ではないと考えていたからだ。
ピぃーーーっ!
「電話〜!」
トゥルルルル!
ピぃーーーっ!
トゥルルルル!
ピぃーーーっ!
トゥルルルル………
ピぃーーーっ!ピぃーーーっ!ピぃーーーっ!…
階上では、祖母があらん限りの声を張りあげ、
「電話に出てー!」
「わかったから、笛をやめてー!」
「うるさーい!!」
「ええーい、やめんかい!!」
と言い続けていた。
ピぃーーっ!
ピぃーーっ!
まだ笛は続いた。
ピンポーン!
ピンポーン!
隣のおばさんが心配して駆けつける。
ドンドンドンドン!
「ちょっと、おばあちゃん!おじいちゃん!」
「どうしたの?大丈夫?」
ドンドンドンドン!
隣のおばさんも、必死に声をかけ、ドアをたたく。
一体何の騒ぎかと、後ろの家のじいさん、斜向かいのおばさんなど、続々と集い出す。
近所の親戚が、えいや!とドアをやぶり、中に入ると、
老人が一人、誇らしげに妻を笛で呼び続けていた。
とっくに電話が切れていることにも気づかずに、
姿勢正しく、すくっと立っていた。
昔行った戦争で隊長が鳴らした笛のように
規則正しく、ピリッとした笛の音だった。
階上からはかすれた怒鳴り声が。
「じいちゃん!!
「えぇ〜い、もうやめてってば〜!」
近所の人から知らせを受けた母が、現場に駆けつける。
「じいちゃん、いったい何があったの?」
「あん?え?」
「じいちゃん?」
「…ん?」
この時、祖父は絶対に認めなかった。
その後もしばらく認めなかった。
半年後、ようやく観念した。
彼こそ、祖母と同じくらいに難聴が進んでいたのだ。
祖母の怒鳴り声も全く聞こえていなかった。
老と老。
この2人の闘いは祖父が九一歳で亡くなるまで続いたのだった。