3. 桃は旅立ち、お爺さんは季節外れの野分(台風)の訪れを告げる
前回までのあらすじ。
お婆さんは川で大きな桃を拾った。桃は美しい娘に姿を変えて、お婆さんに「私は生ける神の使いの桃です」と言った。
なんて綺麗な娘さんかしら。と、お婆さんは思った。
近頃のお婆さんは若い、いとけない、というだけで後輩達に目尻も下がるような愛しさを感じるようになってはいたが、桃はそれを差し置いても並外れて瑞々しく芳しい。
「天地開闢の国産みを終えて以来、生ける神は死せる神から今も逃げ続けています。死せる神が生ける神を亡き者にすれば、やがて生きとし生ける者は全て常世へと呑み込まれてしまうのです。
私は、生ける神に黄泉戦ーー黄泉の軍勢の足止めを任されております。
その昔、死せる神は生ける神の奥方であらせられました。生ける神はそのご神格から、死せる神をしいし奉ることはありません。嘗ては黄泉の国に落ちた死せる神を再び生かそうとしたほどです」
桃の娘は言った。
黄泉戦。闇く冷たい言葉の響きは、黒い鉢がねをかぶり、血まみれた刀を光らせた顔のない武者をお婆さんに思い浮かべさせた。
(黄泉の軍勢の足止めだなんて……。この若い娘さんの未来はこれからではないのかしら……)
男は女よりも自分の命を惜しまず、常に子供をあと一人は産めるだけの暮らし向きに身を置きたいと言ったような保身の心はないと聞く。
人の身で、黄泉戦や桃の娘に、生への望みがあるものかどうかはわからない。ただ、お婆さんにとって目の前の若い娘は、見るもの触れるものを若やがせるほどの生の化身のようで、彼女が黄泉の寄せ手を足止めするというのは、何やら悲しくて恐ろしい、氷の槍にでも胸や腹を刺されるような心地のすることに思われた。
「せめてこれを持って行ってちょうだい」
お婆さんは、屈んで黍団子の包みを手に取ると、桃の娘に手渡した。
「ふっくらと良く炊けているの。とても美味しいと思うわよ」
「宜しいのですか? これはお婆さんのおやつでは……」
桃の娘は受け取った黍団子の包みをしげしげと見つめる。
「善いのよ。お隣のお嫁様が赤ん坊を産まれてね、お乳の出が良くなるようにとお渡ししようと思っていたけれど。お隣さんにはまた明日炊いてお渡しすればいいの。お隣さんに可愛い赤ちゃんが無事産まれたのも、生ける神様のお働きがあっての事でしょう。神様に地の恵みを感謝できるなんて、なかなかないことだわ」
お婆さんは桃の娘に向けて微笑んだ。
「ありがとうございます」
桃の娘は黍団子をそっと胸に抱いて頭を下げた。
「他を生かそうとする方は、皆様生ける神の眷属です。お婆さんの浮き世の生に、どうか生ける神のお恵みがありますように」
大きな桃となって再び川を下る娘の姿を見送ると、お婆さんは残った洗濯物をざぶりと川の水に漬けた。水音がやけに深く長く、ぶくぶくと響くような気がした。
◆◇◆
その日は昼頃から南風が吹き、茹だるように暑くなった。
地獄の釜から蒸気でも漏れ届いているのではないかと思われるような暑さで、体の内から吹き上がるはずの汗は、湿気に道を阻まれた。額や首筋ばかりではなく、洗い上げた洗濯物を干す手の甲も二の腕も、べたりと粘つく。
(おじいさんは、暑気にあたってはいないかしら……。 木陰で休んでいらっしゃるとは思うけれど……。)
せめて、湧き水の涼しさを載せた風でもお爺さんに届けばいい。
お婆さんは、洗濯物の渇きを触れて確かめながら強い日の光に目を細める。……と、お婆さんの頭上に不意に濃い陰が落ちた。
「外にも庇が欲しくなるような陽気じゃのう、婆さんや」
お婆さんが振り返ると、お爺さんが片手に蕗の茎を持って、大きなその葉をお婆さんの上に掲げている。
「山の神様がちょうどいい庇を生やしてくださったでな。有り難く頂戴して参った」
「まあまあ、おじいさん。涼しゅうございますこと」
お婆さんは顔をほころばす。
お爺さんがいくら健脚とはいえ、本当に日差し宜しく、蕗を翳しながら険しい山など下れるはずなどないのである。山稼ぎはどちらかといえばお爺さんの仕事ではあったが、山菜の季節に山に連れていかれる事もあったので、お婆さんはそれを良く心得ていた。
「そうだろうそうだろう。婆さんは頼りになる爺さんが旦那で本当に幸せ者じゃな。こんなに頼りになる爺さんは、三国探してもちょっと見つからぬのではないか?」
「ええ。ええ、おじいさん。こうして笑っておられますのも全ておじいさんのおかげさま。私は三国一の幸せ者で御座いますわ」
お婆さんの笑顔と言葉に、お爺さんは誇らしそうに目尻の皺を深める。
「幸せ者の婆さんに、ほれ、土産じゃ。なんとなんと今日は大漁じゃぞ」
お爺さんは竹の背負いかごを下ろすと、中から戦果を取り出してみせる。
初々しくも豊かに膨れた梅の実、熟し切ったヤマグワの実、太く柔らかそうな蕗の茎。吸い上げた透明なわき水が、茎から透けて見えそうな水菜の束。
「まあ。本当にご立派ですこと。嬉しいわ。私、熟れたヤマグワは大好きです。おじいさんは、てっきり、薪を拾いに行かれたのかと思いましたが……」
お婆さんは山の実りの数々に目を輝かせる。
お爺さんは「うむ」と重々しく頷いた。
「初めはそのつもりであったのだがな。こんな妙に暑い日の後は、時季はずれの野分(台風)が来るやも知れぬ。薪なら、野分が行ってからが良かろう。儂は近所に声をかけてくるから、お前はなりものを余分に取っておけ。戻ってきたら畑を囲う」
お爺さんの言ったとおり、夜半過ぎから嵐となった。
読み専が作者さん方の苦労や気持ちを知るため、実験的に書き始めました。
私はこれからも読み専です。作家になるつもりは全くありません。
けれどほんの少しでも楽しんでもらえればとてつもなく嬉しいです。
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