2. 桃はお婆さんに神世を語る
前回までのあらすじ。
お婆さんは川で大きな桃を拾った。桃はお婆さんに「行かねばならないのです」と言った。
お婆さんの記憶が確かであれば。
今、竹の背負いかごの中にあるのは、大きな桃、手ぬぐい、そして黍団子の包みの三つだけであった。
お婆さんは凡常な人の身、黍団子に命を吹き込んだ覚えなどない(炊いた黍を擂りながら、去る年の天恵を讃えはしたが)。また、幸いに永く生き伸びてはきたが、手ぬぐいに話しかけられた、ということもこれまでにない。
(こんな時、確かおじいさんは……)
お婆さんは忘れていた瞬きを取り戻すと、手にしていた洗濯板を脇へのけた。そして、薬指の先を舌で湿らし、白い色の混じる眉をそっと撫ぜる。
「出してください、出してください」
「………」
竹の背負いかごは揺れ続ける。カタカタと訴える音が、川のせせらぎと重なって聞こえる。背負いかごが木でできた足場を軽くたたく度、微かな砂埃が舞い、影が足踏みをした。
(……まだ、動いているわ。……おじいさん……、どうしましょう……おじいさん……。)
お婆さんは、うろたえた時にいつもするように、心中でお爺さんに呼びかけた。
お天道様と大地の間を薄い雲が通り抜けたのか、陽が薄れ、また強くなった。
(お狐さんや、狸さんが化かしに来るなら、もっとずっと日が暮れてからですわねえ……。盗られそうな物だって、今、着物とお団子くらいしかないし……。)
お婆さんは少し眉根を寄せると、両手で竹の背負いかごを掴んだ。喉がキュッと狭まるように感じ、背中と胸、上腕の辺りが堅くなる。お婆さんはエイと思い切ると、竹の背負いかごを跳ねるようにのけ、目を瞑った。
◆
お婆さんが目を開いた時、大きな桃はそこにはなかった。その代わり、一人の娘が黍団子の包みの脇に腰掛けていた。
ーーその娘の美しさは、雨上がりに細い枝の先に開いた若い葉のように清々しく、その艶やかな唇は桃源郷の仙女もかくや、と惑わさすようふっくらと息づいている。
お婆さんは、桃が人に変じたという奇異よりも、娘の輝かしさの方に目を瞠った。
「ありがとうございます」
しなやかな着物の裾を二度はたき、桃は立ち上がりながら礼を言う。その着物は、肌色の上に薄紅を刷き、水で赤みを伸ばしたかのように柔らかな色をしている。
「私は『生ける神』の使いの桃でございます。『生ける神』のため、川を下って参ったのです」
娘に変じた桃は言った。まるで、辺りの暑気を退けるかのように涼やかな声。
「あなたのような若い娘さんが、たったお一人で川を? 生ける神様というのは、私の存じ上げる『生ける神』様なのかしら……。生ける神様が、何かお困りでいらっしゃるの?」
「お婆さんの仰るとおりです」
お婆さんの問いに、桃は神妙な声音で答えた。
「生ける神は、今も奥方であらせられる『死せる神』から逃げ続けています。
……『死せる神』が『生ける神』に追いついたとき、浮世は終わりを迎えます」