1. お婆さんは桃と出逢う
その姿の半ばを水に沈め、大きな桃が川を下ってくる。
お婆さんはとても驚いた。桃は、夏の風物詩と言うには些か大きすぎたからだ。
「桃……桃ですよねえ……」
桃は、どう見ても村の井戸の釣瓶の一つ分……いや、それよりも一回り小さいくらいだろうか。
お婆さんは手にしていた洗濯物を急いで絞り、籠に放り込むと、ざぶりと桃を両手で掴んだ。
川のせせらぎの音と、桃から雫の垂れる音。
ほのかな紅色の丸い実に一筋、谷のように窪んだ箇所がある。硬いながらに熟れていると思われるのに、つくづくと眺めても鳥のついばんだ跡一つない。川の水に触れていた実の表面は、木漏れ日の中でひんやりと冷たく、表面から生えた細かな毛に、きらきらと透明な水の粒がついているのが見えた。
「大きいけれど、やっぱり桃ですわねえ。
おじいさん、こんな大きな桃ノ木が山にあるなんて言っていたかしら……」
(本当に、こんな大きな桃ノ木が昔からあったのだとすれば。)
お婆さんは、桃を慎重に振って水気を払うと、なんとなく川の上流の方を眺める。
この川は山間の湧水を源流としている。山へは、お婆さんの夫であるお爺さんが時折薪を拾いに行くのである。
(いえ。あれからもう、三十年と少し。桃栗三年と言うし、まだあの頃にはこの桃もなかったのかも知れないわねえ)
ふと、お婆さんの目に幻想が過る。はしゃぐ子供の笑い声と、草原を駆け回る姿。
お婆さんは、桃が今年つけた実であろうことを何と無く愛しく思った。生命の巡りが、しずかに繰り返されている証のようで、こころに小さな灯りがともったのである。
お婆さんは若い時分にお爺さんとの子を数人設けたが、皆幼いうちに亡くしていた。
過ぎた日は取り戻せないと受け入れてはいても、やはり死んだ子の年は数え、珍しい食べ物が手に入れば、一度位牌に供えて手を合わせ、きっとあの世では腹一杯に食べてくれているだろうと想いを馳せるのがお婆さんの習慣であった。
お婆さんは、大きな桃を家の位牌に供えようと思った。
(この桃をおじいさんと食べたら、庭に種を植えましょう。ご近所さんにもお分けしましょう。山の木ならば、うちの庭で育つかはわからないけれど……。)
お婆さんは、洗い終えたばかりの手ぬぐいを広げ、大きな桃をそっと載せた。脇に、朝餉の後に擂って丸めた黍団子の包みを共に添える。
お婆さんは、洗濯物を担いできた竹網みの背負いカゴを逆さにし、桃と包みの上に被せた。これから陽射しは強くなる。お婆さんはカゴで、洗濯が終わるまでの日除けをしようと思ったのである。
お婆さんが着物をざぶりと川につけ洗い始めると、背後からカタカタと音が聞こえ始めた。
小首をかしげ、振り返ると竹の背負いカゴが震えて揺れている。
「出してくださいませ、行かねばならないのです、ここから出してくださいませ」
声は、逆さにした竹の背負いカゴの中から聞こえた。