コンサートツアーの傷跡
最初は偶然だったと思う。
たまたま拓巳たちの旅行先で音楽イベントがあり、拓巳がオフで来ていることを知った関係者が事務所側に飛び入り参加を打診して、雅俊がそれを受け、みんなが拓巳たちのところに集まった。
「拓巳はせっかくの親子旅行を邪魔されてとても不機嫌だったけど、和巳は旅行先でみんなに会えたのが嬉しかったようでね」
〈T-ショック〉の参加時間はわずか一時間。当時、四歳になったばかりの和巳をスタッフ全員でかわるがわる見ることは造作もなかった。しかも、幼稚園入園以来、久しぶりに和巳が見ている前で歌ったせいか、そのときの拓巳の出来は素晴らしかった。
「それを見て、当時のマネージャーが味をしめたのは仕方がなかったのかもしれない」
なにしろ中沢さんがハウスキーパーに入ってからというもの、拓巳は師匠に出会った弟子のごとく親としての行動に目覚め、幼い和巳に負担がかかる時間帯の仕事はことごとく撥ねつけるようになっていて、マネージャーは手を焼かされていたからだ。
当時、拓巳は二十一歳。雅俊や祐司も同世代、僕も似たようなもので、ちゃんとした大人といえば、四十代の社長かマネージャーぐらい。幼児の健康に配慮できる者など周りにはいなかった。
「だから、マネージャーが少しずつ偶然を増やすのを、誰も止められなかったんだ」
特に、サブマネージャーに入った沖田君が和巳と相性よくすごしているのに気がつくと、それを説得の餌にして、まず雅俊を攻略した。
「雅俊は和巳がお気に入りだったから、一緒にいる時間が増えて喜んでたくらいだったよ」
かくして拓巳の旅行先に、少しずつ〈仕事〉の時間が増えるようになっていった。
「そんな……なんてむごいことを」
中沢さんのつぶやきに真嶋さんは目を伏せた。
「おっしゃるとおりです。中沢さんの教えでは、幼い子供を連れ回すのはいけないこと。だから、拓巳は旅行を計画するときは常に現地に滞在するように気をつけました。そこを付け込まれたんです」
初めは仕方なく従っていた拓巳も、旅程三泊四日のうち、丸一日仕事を入れられたときにはさすがに拒否した。そんな状態が続いたあと。
「あの全国ツアーが計画されたんだ」
それは、沖縄から始まって北海道で終わる、まさしく全国を網羅する半年間のコンサートツアーだった。〈T-ショック〉としては三回目、ロックバンドとしての人気を確かなものにするための、大掛かりな規模のツアーで、プロダクション側も総力を上げて企画運営しようと張り切っていた。そしてマネージャーは拓巳対策の鍵として、九州、沖縄方面に三泊四日、東北、北海道方面に四泊五日の親子向けホテルプランを合計四回用意していた。
「では、あのときの四泊五日の旅行が……」
「拓巳を責めないでやって下さい」
そのツアー計画がメンバーに出されたとき、拓巳はすぐに断った。が、やがてマネージャーや雅俊の説得の前に、和巳同伴での参加を承諾した。
「三日以上も和巳と離れて仕事することは、当時の拓巳にとっては考えられなかったんです」
かといって、全国ツアーの企画を断れる程、拓巳の立場はまだ強くなかった。
中沢さんが憂い顔で真嶋さんに訴えた。
「なぜでしょう。世間一般でも、お父様が出張などで一週間ほど離れることは多々ありますし、四日くらいならいくらでもお預かりしましたのに。信頼していただけてなかったのでしょうか」
「そうではありません。これは拓巳の事情のせいです。中沢さんにはお話ししていませんでしたが、当時、彼にはまだ正式に和巳の親権が下りていませんでした」
「ええっ?」
僕は思わず声を上げた。中沢さんも驚きの表情を浮かべた。
「そしてその二年前、彼の父親が、和巳の親権を取ろうとして和巳を連れ去る事件を起こしたことがあったんです」
真嶋さんがそれを告げると、拓巳くんはとうとう片手で顔を覆ってしまった。
「それは、いったいどういう……?」
中沢さんが質問する。真嶋さんは説明を続けた。
「拓巳に和巳を残し、妻が逝ってしまった時、彼はまだ十七歳でした」
つまり、彼自身がまだ、未成年として被保護者の立場にあった。当然、婚姻届けは出せず、親権も下りない。
「ですが当時、彼の父親には親としての資質を疑う行動があったため、彼らは断絶状態にありました。僕が後見人を引き受けたのもそのためで、拓巳は完全に自立して暮らしていました」
だから拓巳からすれば、父親はすでに書類上の関係でしかなくなっていた。けれど父親のほうは違ったのだろう。
一方、亡くなった妻のほうは円満な母子家庭だったので、二歳上の妻が持っていた和巳の親権はこの母親に預けられ、拓巳が二十歳を過ぎたとき、改めて申請し直すことにしていた。ところが。
「この、和巳には祖母に当たる人が、拓巳が二十歳になる前に亡くなってしまった。その隙を突かれたんです」
まさか、彼の父親が和巳の親権に関与してくるとは夢にも思っていなかったから、こちらの手続きも後手に回ってしまった。
「亡くなった妻の姉がパリから駆けつけて書類をギリギリで整え、祖母から伯母への親権委譲として認められたとき、すでに和巳は拓巳が仕事中に預けた保育士のもとから、父親の住む屋敷へと連れ去られていました」
今でも忘れられない、焦燥と絶望で半狂乱になったあのときの拓巳……。
中沢さんが痛ましげに拓巳くんを見つめながら真嶋さんに問いかけた。
「拓巳さんのお父様は、なぜそんなことを……」
「わかりません。そもそも和巳のことを調べていたこと自体、僕たちにはわからなかった」
保育士を責めることはできない。拓巳の父親側は、伯母が親権を得る前に仮申請を出し、正式な書類を持って連れて行ったのだ。
「それから伯母の協力のもと、和巳を取り戻すまでに五日かかりました」
そのとき、拓巳はまだ十九歳。和巳に至っては二歳と十一ヶ月。
「寂しい生い立ちの上に妻の死が重なったせいか、ただでさえ和巳と離れるのを嫌がる傾向が強かったのに、こんな事件が起こったものだから、拓巳はすっかり参ってしまった」
妻の姉のお陰で、親権がもはや誰にも奪われることがないとわかっても、和巳は隣の部屋にいるんだと教えても、拓巳は、和巳が目の届かないところに連れていかれると何もできなくなる日が続いた。
「そこから立ち直るには、大変な努力が必要でした」
親子をなるべく二人きりにしないように、仕事中は雅俊や祐司と三人で協力して気を配った。拓巳が、和巳から安心して距離を置ける時間が少しでも必要だったからだ。
「二人を僕のマンションに呼び寄せ、しばらく優花と四人で暮らしました。たまたま隣のマンションが空いたから、家を隣同士にしたのもそのときだったね」
真嶋さんが拓巳くんの肩を抱いてささやくと、彼は小さく頷いた。
「だから、中沢さんとお会いした頃もまだ、和巳はずっと拓巳と一緒に仕事場ですごしていたでしょう?」
中沢さんは少しうつむいて答えた。
「……仕事中はベビーシッターさんを頼んでいるか、とお聞きすると、いらない、とのお答えだったのを覚えています……私は驚いてお諌めしました」
あれは、頼まないのではなく、頼めなかったのですね、と中沢さんはつぶやいた。
「中沢さんとお会いして時が過ぎ、和巳も幼稚園に通うようになり、拓巳はずいぶん回復しました。それでも当時はまだ、和巳と三日も離れて仕事をこなすのは難しかった」
だから、一緒にいるほうが安心だ、親権委譲の手続きでは、会社側がサポートすることを約束する、とささやくマネージャーの言葉を無視できなかった……。
「そして私に旅行へ行くと偽って、ツアーにお連れになったんですね」
「そうです」
真嶋さんは頷いた。
「あなたが知れば、必ずや反対するはず。それを説得できるとは思えなかったからです」
「そしてそのツアーは沖縄に始まり、北海道で終わった……」
「……そうです」
真嶋さんは、辛そうにうつむいた。
「嘘の一つが旅行の実態なら、もう一つというのは何でしょう」
その質問に、それまで顔を覆ったまま動かなかった拓巳くんが弾かれたように顔を上げ、やはり同じように顔を上げた真嶋さんと目を見合わせた。一時、痛いような沈黙が応接スペースを支配する。そして。
「……それは、俺が……」
「いい拓巳、僕が説明する」
拓巳くんの掠れ声を真嶋さんが鋭く遮った。
僕は拓巳くんの横から真嶋さんを仰ぎ見た。真嶋さんは背筋を正し、中沢さんをしっかりと見据えると話を続けた。
「ツアーの最後は札幌でした。中沢さんならもう、おわかりでしょう」
「和巳さんが具合を悪くして、旅行をおやめになった、あの日ですね?」
中沢さんの答えに頷くと、真嶋さんは再び語り出した。
「札幌に着いたとき、マネージャーが一つミスを犯しました」
コンサート当日の、和巳を世話する保育士の手配を忘れたのだ。
その日はクリスマスイブ、出かける人が多かったせいか、気がついたときには、保育士の予約は一杯で手配は間に合わなかった。
「マネージャーは、拓巳にその事実を知らせませんでした」
知らされたのはサブの沖田君と雅俊。
マネージャーは沖田君に、「保育専門学校の生徒を見つけたのでサポートを頼む」と告げ、そして雅俊には、
「拓巳には、余計なことを言って動揺させないで欲しい」
と伝えた。二人は本番当日の今、他に手はないと腹をくくり、和巳をその生徒に預けた。ところが。
「その生徒というのは〈T-ショック〉のファンで、コンサートを見に来た観客の一人だったんだ」
開演を待つファンの中から偶然、マネージャーが見つけたのだ。
中沢さんが息を飲んだ。
「それじゃ……」
真嶋さんは頷いた。
「ええ、想像のとおりだと思います」
彼女は控え室で、初めこそマネージャーと交わした約束通り、張り切って和巳を世話していた。それはそうだろう。ファンの誰も立ち入ることのできない舞台裏に入り、雅俊や、事情を知らない拓巳や祐司から、かわるがわる声をかけられるのだ。
「その至福の気持ちを、和巳の世話に反映してくれれば問題はなかったんですけどね……」
やがて本番が始まると、控え室には誰も来なくなり、彼女は和巳の相手をしているのが苦痛になった。あたりまえだがコンサートを見たくなったのだ。
「彼女は和巳を連れて、会場へ見に行き、そこでなぜか和巳だけを控え室へすぐ戻した」
真嶋さんの目が暗く光る。
「どうせ出てしまったなら、そのまま一緒に見ててくれればまだしも問題は小さかったのにね」
そのとき、僕は突然ひらめいた。
「僕が泣いたんだ」
「「そうなのか!」」
拓巳くんと真嶋さんから同時に声が上がる。
「前に優花が言ってたよ。僕が札幌の会場でライトに驚いて泣いたって。だから」
会場内に連れ出された僕は、そこでライトに驚いて泣いたんじゃないだろうか。
「あの前日リハーサルのときに……そうか、だから彼女は和巳を戻したのか」
僕の考えを聞いた真嶋さんは、納得した顔になって話を続けた。
「だとしたら、彼女の行動の理由もわかる。彼女は会場に出て和巳に泣かれ、ファンの非難の目を恐れてその場を離れたんだ」
けれどもコンサートを見ることが諦め切れず、ちょっとなら、と和巳を控え室に戻したあと、会場に引き返してしまったのだ。
「マネージャーが気づいて彼女を会場から追い出し、控え室へ駆けつけたとき、そこに和巳の姿はなく、廊下を挟んだ反対側の、外につながるドアの鍵が内側から開けられていた」
コンサートは残り三十分。僕たちスタッフや拓巳以外のメンバーに少しずつ事情が知らされたのはこのときだ。彼女を問い詰めるマネージャーのヒステリックな声を黙らせたのは祐司だった。
「あんたのミスだ。死力を尽くして探すのが先だろう」
そう言ってマネージャーを追いやると、祐司は深刻な顔で「拓巳には知らせるのか」と聞いてきた。でも――。
「僕も、他のスタッフも、そして祐司でさえも、あの時点で拓巳に打ち明けることをよしとする者はいなかった」
祐司と入れ替わりに袖に下がった雅俊と、そして僕が最後は決断した。コンサートはあと少し。手の空いたスタッフを捜索に回しながら、拓巳には明かさずに乗り切る、と。
「コンサートが無事終わり、拓巳が控え室に戻ったとき、専門学校生はすでに返され、僕とマネージャー、雅俊と祐司が残っていました」
事情を説明したのは雅俊だった。自分はリーダーだから責任がある、と言って。だからこの恐ろしい裏切り行為に対し、拓巳が殴りかかってきたとき、僕たちは誰も抵抗しなかった。けれども立場上、マネージャーを殴らせるわけにはいかなかったので、飛びかかる拓巳を三人で止め、結局こっちが殴り合いになって、その隙にマネージャーは逃げ出した。
「止める必要なんてなかったんだ。今でも悔いが残るぜ、ちくしょう」
うなだれながらも拓巳くんはボソリとつぶやいた。まだ相当根に持ってるようだ。
「その後、僕たちも捜索に加わり、深夜一時を過ぎた頃、ようやく和巳は見つかりました」
第一発見者は雅俊だった。会場に近い繁華街の路地裏に倒れているのを見つけたのだと言っていた。すでに熱が出始め、意識は朦朧としていた……。
「その後のことは、中沢さんがご存じのとおりです」
拓巳は雅俊から和巳の身柄を受け取ると、他の誰の手も寄せつけずにホテルへ直行し、中沢さんに連絡を取ってすぐに札幌を発った。一刻も早く忌まわしい地から逃れるように。
「だからあのとき拓巳は、和巳の症状の原因を中沢さんに伝えることができなかったんです」
それを言えば、偽りの旅行のことも言わねばならない。信頼する仲間たちに裏切られた拓巳の心はすでにぼろぼろで、この上、中沢さんにすべてを打ち明け、その情愛を手放す恐怖には耐えられなかった……。
真嶋さんは語り終えると、さすがに疲れたのか大きく息を吐き出した。
「中沢さん、どうか拓巳を責めないでやって下さい。すべては僕をはじめ、彼を取り巻く周りの責任です。拓巳はあの環境の中で、あなたの意に沿うように可能な限り努力した。それは僕が誰よりもよく知っています。どうか拓巳のことは許してやって下さい」
真嶋さんは中沢さんに深々と頭を下げた。拓巳くんも下げている。僕は拓巳くんの両手を握りしめながら、中沢さんの顔を見た。中沢さんは――。
「私は和巳さんのために、父親である拓巳さんによかれと思って色々なことをお教えしたり、時には諭したりしてきました」
中沢さんはゆっくり立ち上がると、テーブルを回って拓巳くんの前にしゃがんだ。
「それが、こんなにもあなたの負担になっていたんですねぇ。おかわいそうに。だからあのとき、あんなに痩せ細るほどお辛そうにしてらした。……拓巳さんは、ご自身がまだ守られるべき息子だったのですね」
拓巳くんはそれを聞くと、実に悲しげな表情で中沢さんを見つめた。中沢さんは穏やかな微笑みを浮かべながら首を横に振った。
「違いますよ。あなたが未熟だから父親の役目ができてない、などとは言っていません。人は、誰でも最初からうまくなど出来ませんもの」
中沢さんの丸くて暖かい手が、拓巳くんの手を握る僕の手の上に重なった。
「それは、段階を踏んでつちかうのです。気がつかなかった私もいけませんでした。私は、まだホットケーキしか焼けない生徒に、シフォンケーキを作れと要求してたのですね。先生失格です」
拓巳くんの目が自信なさげに揺れる。
「……俺、ホットケーキも作れないかも……」
突っ込みどころ、そこっ?
「いいえ。今の拓巳さんならもうホットケーキは十分作れますよ」
さすが中沢さんだ。見事な切り返し。
「スポンジだって焼けますよ。でもシフォンはまだちょっと無理ですねぇ。大丈夫、ちゃんと正しく手順を踏めば、できるようになりますとも」
中沢さんは僕たちの手を両手で少し持ち上げると、その丸い手できゅっと包むようにした。
「私も、今度は順番を間違えないように気をつけますから、頑張ってまた一緒に練習していきましょうね?」
そして拓巳くんの顔を覗き込み、目尻にシワをたくさん作ってにっこりと笑った。それを見た拓巳くんの瞳から、大粒の涙が一つこぼれ、二つこぼれ……
「あらあら、こんな美しい人を泣かせるなんて、私もまだ捨てたもんじゃありませんねぇ」
中沢さんがおどけると、拓巳くんが泣き笑いの顔になり、僕も真嶋さんもつられて笑ってしまった。
「もうすぐ和巳さんの誕生日ですから、またシフォンケーキを焼きましょうね」
そう、言葉を結んで中沢さんは立ち上がり、いつものようにエプロンをつけると、リビングの奥のキッチンへと姿を消した。




