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T‐ショック アブソーバー  作者: 木柚 智弥
仲間より歌より僕?
4/11

それって僕のせい?


 僕のため(?)に、最近ヘンな感じの拓巳くんと俊くんの仲をどうにかしたい→が、拓巳くんの〈仕事よりプライベート優先〉をなんとかしないとダメ→になって、それには、説得する僕に、拓巳くんの仕事に対する理解と心構えが必要→になって、理解を深めようと思って、取りあえず七年前、全国ツアーをしてた頃の様子を聞いてみたら――。

(それ、札幌のことなんじゃないかな)

(おかしいですねぇ、そんなことはなかったと思います)

(ですから北海道の、札幌ですよ)

 僕が大泣きしたという優花。それが札幌のコンサート会場だと聞いた祥子さん。けれども七年前にそんなことはないという中沢さん。

 そして四歳、つまり七年前、旅行先の札幌で具合が悪くなった僕。その後、全国ツアーをやらなくなった〈T-ショック〉。

 僕は、開けてはならないものに手をかけているんだろうか――。

 頭の中がぐるぐるだ。考えなければならないことが増えてしまった。でもとにかく、七年前の札幌で僕に何かが起こって、結果として拓巳くんが全国ツアーをやらなくなったのは間違いない。きっとそれは仕事よりもプライベート、つまり僕のことを優先させようとする、今の生活態度に関連してくるんじゃないだろうか。

(もう七年経つんだぞ拓巳!)

(だまれ! おまえがそれを言うかっ!)

 僕の脳裏に焼きついた俊くんの言葉。そしてあのときの拓巳くんの反応。

 てっきりツアーのことを言っているんだと思ったけど、こうなると意味が違ってくる。

 一体「何」から七年経つんだろう?

 もちろん俊くんは知っているはずだ。



 リビングの時計が、午後九時を知らせるアラームの音をピッと鳴らした。

 そうだ、十時頃に帰ってくるはずの拓巳くんに備えなければならない。

 あの人が十時までに帰ってくる場合、僕は寝る準備を済ませたあと、中沢さんが用意しておいてくれたお茶セットをリビングのテーブルに出し、テレビを見ながら待っている。帰ってきた拓巳くんがお茶をするのに三十分ほど付き合ってから、自分の部屋へ引き揚げるのが習慣だ。

 十時を過ぎるとわかっている場合は、メッセージをメモ用紙に書いてから先に寝る。

 今日の帰宅予定は十時前。当然、僕が待っていると思ってる。ましてや昨日、あんなことがあったばかりだから、待ってて欲しいと思っているハズ。何の仕事だろうと(たとえ収録が長引いていようと)沖田さんを泣かせでも自分は帰ってくる。

 僕は急いでお風呂の支度をし、慌ただしく浴室に入ると、体や頭はテキトーに洗い、まだお湯が半分過ぎたばかりの湯船にざぶんと浸かった。ジャバジャバと音を立てる蛇口をながめながら、しばらくじっとしていると、疲れが溜まっていたのか、じんわりとお湯が体に染みてきた。

 ああ、大人ってこうやって温泉好きになるのかな……。

「ただいまー」

 はやっ! 

 いやマテ。僕がまったりつかりすぎて一瞬、寝てたのかもしれない。

 慌ててお風呂から上がり、寝支度を済ませてからリビングに顔を出すと、すでに拓巳くんはお茶セットを自分で持ち出し、ソファーにだらりと伸びていた。

 よほど疲れたのか、長いまつげが縁取る瞼は伏せられ、彫りの深い顔はやつれぎみで陰が濃く、そこにサラサラの長い髪が乱れかかっている。長い手足を投げ出してソファーに体を預けた姿は、ファンの人が言うところの「なまめかしい姿」ってやつなんだろうけど、僕にとっては仕事に疲れ切った若いサラリーマンさんとそう変わらない……。

 僕はソファーのそばに行き、伸びた拓巳くんのちょうどお腹あたりの空いたスペースにちょこんと腰かけ、顔にかかっている髪の毛を後ろにそっと払った。

「ああ、和巳。上がったのか」

 半分眠っていたのか、ちょっとぼんやりした表情の拓巳くんが僕を見上げた。

「今日はどうだった? なんかあったか?」

「……っ」

 これは帰ってきた拓巳くんが言うお決まりのセリフで、無意識に聞いてきたんだろう。そこまでわかっていても今は間が悪い。心臓が踊る。

「和巳?」

 拓巳くんの薄茶色の目がちょっと色を濃くした。マズい。

「学校は相変わらずだよ。いつもと同じ」

 僕は平常心をかき集めて言葉にした。いつもと違ったのはプライベート、学校生活は変わりなしだったから、う、嘘じゃないゾ。今はまだ、色々な情報が入ってきたばかりだ。不用意な質問をぶつけたらゼッタイろくなことにならない。それは拓巳くんの息子として経験してきた数々の事件で学習済みだ。

 内心の動揺を隠しながら僕は切り返した。

 攻撃は最大の防御!

「拓巳くんは? なんだか疲れているように見えるよ?」

 実際、ぐったり度がやけに強い。

「……心配してくれるのか? やさしいな」

 拓巳くんの顔が嬉しそうにほころぶ。こういうのを「花が咲いたような微笑み」って言うんじゃないだろうか。息子の僕でさえドキッとするような華やかさで、沖田さんが見たら「仕事でも、そういう表情をしてくれたらファンが喜ぶのに……」とか言いそうだ。僕が、ごく普通の親を持っていたならあり得ない、数々の苦労を味わわされても、まぁいいや、と思っちゃうのはこんなときだ。

「だって、俊くんとまだ仲直りしてないままだから。今日は何の仕事だったの?」

 俊くんの名前を出した途端、拓巳くんの額に縦ジワが寄った。

「……新曲の歌詞合わせ」

 そ、それじゃ、昨日の状態を引きずったまま、今日はスタジオに二人でカンヅメ……?

「ゆ、祐さんは……?」

「まだだ」

 つまり、まだ出番じゃないということだ。

 げーっ! そりゃ、やつれるわけだ。

〈T-ショック〉の場合、新曲の作業はまず作詞、次に俊くんの作曲だ。曲が出来上がったところで、今度は歌詞を曲に当てはめていく。普通は俊くん一人でやるけど、拓巳くんが作詞した場合は二人で練り合わせる。これを歌詞合わせと呼んでいる。今日やったやつだ。

 俊くんは同時進行で楽曲も作り、リードギターの主旋律が出来上がると、そこの仕上げは祐さんに託す。祐さんがギターの細かいところを決め、歌詞合わせが終わると、ようやく三人がスタジオにそろう。

 歌詞合わせの段階では、曲によっては二日くらいで出来上がることもあるけど、普通なら四、五日、煮詰まると一週間以上かかることもある……よね、確か。

「ど、どのくらい進んだの?」

「………」

 進まなかったんだね。二人とも、譲らないからな~。

 普段は音楽に対する俊くんの感覚に信頼をおく拓巳くんだから、煮詰まることはあっても進むんだけど、こうなると……。

「沖田さんの嘆きが聞こえてきそうだ……」

 つぶやきをしっかり聞きつけた拓巳くんが、僕の体を片手でグイッと引き寄せた。

「俺の嘆きは取り合ってくれないのか」

 声がスネている。

「はい、昨日の今日でよく頑張りました」

 僕は体を半分起こし、腕を伸ばしてサラサラ髪の頭をなでた。

 拓巳くんは、しばらく目を閉じていたけれど、僕が腕を戻すと、今度は自分の空いたほうの手で僕の頭をなではじめた。されるがままになりながら、僕はふと、ちょうど一年半前に真嶋さんと二人で交わしたやり取りを思い出した。



 あれは、僕がこんな風に抱かれたりなでられたりするのを気恥ずかしく感じ始めた、三年生の秋も終わり頃のことだ。

 特に事務所スタッフの皆さんの前でやられるのが、いつまでたっても幼児扱いされているようで恥ずかしく、黙っていられなくなった。ところが、それを訴えてもみんな笑っているだけで、誰も真面目に取り合ってくれない。

 今なら、拓巳くんの寂しい生い立ちを知る人々が、僕のそんな態度も含めて親子関係が微笑ましい、と見ていたんだとわかる。けれどもその当時の僕に理解できるはずもない。だから、とうとうある日、Gプロ事務所の奥で、ソファーに座った拓巳くんが僕を膝の上に乗せようとして伸ばした腕を、

「ヤメてって言ってんじゃんかっ!」

 と振り払ってしまったのだ。

 言った次の瞬間にはもう後悔した。あのときの拓巳くんの驚きに見開かれた瞳。直後の傷ついた表情は今でも忘れられない。

 むろん、事務所内も一瞬にして凍りついた。それはそうだろう。拓巳くんを傷つけてただで済むはずがない。なのでスタッフの皆さんの視線も痛くて、けれどすぐに謝れるような心の余裕もなく、かといって拓巳くんの顔を見る勇気もなく、結局、その場を飛び出すしかなかった。

 だから、現場に居合わせた真嶋さんが追いかけてきて、あとで家に来るようにと告げられたときは、てっきり怒られるんだろうと思っていた。

「ゴメンね和巳」

 優花を実家に預け、わざわざ時間を取った様子の真嶋さんは、誰もいない自宅のリビングで開口一番そう言った。

「……どうして、真嶋さんが僕にゴメンなの?」

 身構えていた僕は、肩すかしを食らった気分になった。

「これから僕は、和巳にひどいことを頼むから」

 僕はさらに戸惑った。

「……僕、怒られるんじゃないの?」

「どうして? 和巳くらいの年頃の男の子なら、あんな風に父親にベタベタされたら嫌がったってぜんぜんおかしくないよ。もちろん個人差があるから、平気な子もいるけどね」

 そうなのか、と、少しホッとしたから、次の言葉には驚いた。

「そうと知りながら、僕はあえて和巳に拒まないでくれとお願いする」

「えっ……?」

「なぜなら拓巳にとって、君とスキンシップすることは、生きていく上でとても大事な意味を持つから」

 生きていく上で。そのときの僕には、まだその意味がよく飲み込めなかった。

「ゴメンね。難しいことを言っているのは承知してるんだ。でも九歳の君は、拓巳の愛情表現を素直に受け取れなくなる時期を迎え始めた。その早い成長ぶりに期待してお願いしたい。どうか、拓巳のために拒まないでやってくれ」

「……どうして、僕を抱っこしたり、なでたりするのが、拓巳くんが生きていくのにそんなに大事なの?」

「その質問を出せること自体、君に事情を話そうとしてる僕の判断が間違ってない証拠だね」

 真嶋さんは満足そうに微笑んだ。

「それは、拓巳がそれをしてもらうべき時期に、してもらえなかったからだ」

「してもらうべき時期……って、それは拓巳くんが小さい頃のこと?」

 真嶋さんは教えてくれた。拓巳くんも、お母さんが早くからいなかったこと。でも、拓巳くんのお父さんは大きいお店の経営者で、小さい拓巳くんをお手伝いさんに任せきりにして、ちっとも関わろうとしなかったこと。

 だから、家族というものを知らずに子供時代をすごして育った拓巳くんは、愛情をもらえずに、心のどこかが壊れたまま成長してしまったこと……。

「僕はね、和巳。その壊れた状態の拓巳と出会ったんだ」

 当時、まだ中学生になるかならずかだったのに、夜の横浜駅のそば、繁華街にあるゲームセンターで無表情にシューティングする拓巳は、どう見ても十六、七歳にしか思えなかった。ゲームセンターの光が、その凍りついたように冴えた美しい顔を照らしてる様子は、映画の一シーンのようで目が離せなかった、と真嶋さんは薄く笑った。

「一体、どんな生活を送ってくれば、あんな氷のような目をした少年が出来上がるのかと……とても気になったのを覚えているよ。それから本当に色々なことがあったけど、拓巳は君のお母さんに出会ったことで、ようやく壊れた状態から救われた。けれど……」

 そうだ、お母さんは病気で死ぬことがわかっていた人だった、と前に聞いたことがある。

「僕たちは、このまま拓巳が残されてしまったら今度こそ完全に壊れてしまうだろうと覚悟した。けど、お母さんは強かった。彼が壊れるのを黙って受け入れたりはしなかった。君という最高の『生きる希望』を拓巳に残していってくれた」

 それは、文字どおり命をかけて挑んだ最初で最後の賭け。

 この世を去る前、あの人は拓巳にこう言った。

 ――もう二度と、拓巳は独りにはならないよ。何の見返りもなく愛をくれる者がここにいる。この子が、拓巳がもらい損ねたものを、全部取り戻してくれるんだよ――。

 だから、拓巳にとって君を育てることは、生き直すことでもある。真嶋さんはそう言って僕の目をじっと見た。僕はなんとなくわかった気がした。

「僕は、小さい拓巳くんなんだね?」

「そう」

「拓巳くんは、自分がして欲しかったことを、僕にしてるんだ」

「当たり」

「だから拓巳くんが、もういいかな、って思わないうちに僕が嫌がっちゃうと……」

「そう、拓巳がおかしくなる」

 真嶋さんは頭を下げた。

「和巳。まだ子供の君にこんなことを頼むのは、本当はいけないことなんだ。でも、拓巳にとって迷うことなく家族と呼べる存在は君しかいない。そして君にもこの世に親は拓巳だけだ。僕は、それがたとえ周りの目に少々変わった親子関係に見えたとしても、拓巳の心が満たされるなら、結果的にはそれが和巳の幸せにつながると信じる。だから」

 拒まないでやってくれ――。

 深々と頭を下げる真嶋さんに僕は何度も頷いた。真嶋さんのような大人が、僕みたいな子供に頭を下げてまで頼む、それほどまでに重要なことだったのだと今ならわかる。

 そうしてそのあと、僕は仕事をボイコットして部屋にこもった拓巳くんのところに謝りに行った。

 拓巳くんは、帰ってきてからずっとベッドに突っ伏したままだったようで、服も着替えていなかった。

 僕が部屋に入っても、ピクリとも動かない背中を見た瞬間、今まで見えていなかったものが目の前に姿を現した。

 ――なんて寂しそうなんだろう……!

 どれだけ寂しい思いを味わってきたんだろう。そして僕は、どれだけたくさんの愛情をこの人からもらってきたことだろう。

 それなのに、なんてことをしてしまったんだ……!

 そう思った途端、もう涙が止まらなかった。けれども今までのように声を上げては泣けなかった。その資格は自分から失ったのだ。

 ベッドの縁に立ったまま、声もなく泣き続ける僕を、やがて身を起こした拓巳くんが、そっと手を伸ばして触れてきた。その触れ方があまりにやさしくて、僕はこらえきれずに拓巳くんの胸にしがみつき、謝りながら泣きじゃくった。

「泣くな……」

 拓巳くんはいつものように僕を抱きしめると、

「もういいから、そんなに泣くな……」

 とつぶやいて許してくれた。

 そのとき、僕は心の底で誓った。

 もうこの先二度と、自分から拓巳くんの手を拒むことはしない。

 あの日から、僕と拓巳くんの立場は少し変化した。 

 それまで、当たり前のように受け取っていた〈親〉からの愛情が、実は、大変な努力の末に生み出されたものだと知ってしまったからだ。

 拓巳くんが僕(子供)になって満たされるなら、これからは僕が拓巳くんの親になって拓巳くんを助けるよ。

 僕たちがいつも通りに戻ったあと、そう真嶋さんに伝えると、彼はなんだか泣き笑いのような表情を浮かべながら、僕やスタッフやメンバーも支えているからね、と言ってくれた。もっともそのあとで、

「でも雅俊に知れたら責められそうだな」

 とかつぶやいてたけど。

 それ以来、僕は拓巳くんに守られるばかりでなく、拓巳くんを守る者でもあるように心がけてきたつもりだ。

 今に至る僕と仕事仲間の皆さんとの関係も、実はあのときから始まったんだよなぁ……。

「和巳?」

 拓巳くんがなでていた手を止め、訝しげに僕を呼んだ。

 ヤバい。つい無邪気だった子供時代に別れを告げた、あの日の記憶に脳内がフィードバックしてしまった。今はそれどころではない。

 今、大事なのは……。

 僕は慎重に切り出した。

「拓巳くん」

「なんだ?」

「俊くんと仲直りできないの?」

 拓巳くんは何を思い出したのか、チッと舌打ちをすると、ふいっと横を向いてしまった。

「あいつのことは言うな」

 うっ、スネ具合がレベルアップしている。気がくじけそう。

「拓巳くん」

 僕はちょっと身を乗り出した。頑張れ僕。

「俊くんが、拓巳くんにとって大事な人だって知ってるから聞くんだよ」

「………」

 否定しないな。よしよし。

 僕は危険地帯へと、果敢に一歩踏み出した。どうか、この最前戦区域で地雷を踏みませんように。

「全国ツアー、そんなに嫌なの? ロックに詳しい人から、拓巳くんのやってるようなバンドには、ツアーは大事だって聞いたよ?」

 詳しい人って健吾だけど。

「………」

 あ、反論しない。

「拓巳くん、わかってるんだね」

 本当はそろそろ再開したほうがいいんだって。なのに、僕のためにやらない。

「俺は」

 拓巳くんが僕を抱いたままソファーに起き上がった。

「おまえがそんな風に周りに気を使うのが嫌だ」

 片手が僕の額の髪をかき上げる。

「まして、周りの連中から、和巳が色々頼まれているのを知ればなおさらだ」

「……!」

「俺が、気がついてないとでも思ったか」

 切れ長の瞳が細められ、きれいな弧を描く眉の根元が寄せられた。

「僕……」

 咄嗟に言葉が出ない。

「俺の仕事のせいで、おまえが犠牲になるのはもうたくさんだ。連中の言うことなんか気にするな」

 拓巳くんは切なそうにため息をついた。

「参観日もまともに行ってやれないなんて親失格だ。……おまえをそんな目に遭わすなんて……」

 僕を抱く片腕に力が入る。

 これは心の裏返しだ。小さい頃の拓巳くんが言いたかった言葉なのだ。けれども僕には、みんなの願いを無視する勇気なんてない。僕のために拓巳くんの仕事が支障をきたすたびに、身の置きどころがなくなる気がしてならない。

 僕は、どう言ったら拓巳くんが傷つかずに聞いてくれるかを必死に考えながら言葉を継いだ。

「拓巳くんが頑張ってくれたから、僕はぜんぜん寂しくなかった。だからもし来年、行事に来られないことがあったとしても、寂しいとは思わないよ。それよりも拓巳くんのバンドがファンの人からがっかりされるほうが気になるし、心配だよ」

「おまえってヤツは……」

 拓巳くんの切れ長の目が眩しげに細められた。

「大丈夫だ。何も絶対やらないなんて言ってない。もともとお前が中学に上がったら再開する予定でいたし」

「そうなんだってね」

「だから今、焦って進める必要なんてどこにもないさ」

「でも、俊くんの考えは違うんじゃないの?」

「おまえの卒業まで待つのは、雅俊だって前に承諾したことだ」

「それじゃ都合が悪くなっちゃったんでしょ? だから俊くんは来年のどこかに前倒ししたいんだよ」

「場所が取れなくて状況が変わったとかどうとか言ってたが、それは会社側のミスだ。……俺たちはすでに犠牲を払っている。約束は守ってもらうぜ」

 一人ごちた拓巳くんのセリフに心臓が跳ね上がる。

 犠牲?

「それって、もしかして七年前のこと……?」

 中沢さんとの会話が頭をよぎり、僕は思わず言葉をこぼしてしまった。あっ、と思ったけど遅かった。彼はサッと僕の髪から手を抜くと、後頭部をがっちりつかんで固定した。

「……七年前って、どうしてだ?」

 食い入るように拓巳くんが見つめてくる。

「……っ」

 僕は大きな地雷を踏んだことを悟った。

「なんで今、七年前って言った? 誰に何を聞いたんだ?」

 こんな反応をするのは、やっぱり……?

 僕は必死になって言葉を探した。

「……き、昨日、俊くんが拓巳くんに『もう七年も経つんだぞ』って」

「……クソッ。ヤツのせいか……」

 拓巳君が悔しげにつぶやく。僕は思わず反論した。

「僕には、俊くんが来年、全国ツアーを再開しようとしてる理由が、場所とか状況の変化とかそういう仕事の上での問題だけとは思えないよ」

「他に何があるっていうんだ」

「じゃなかったらどうして『いつまでも逃げてんじゃねぇ!』なんて拓巳くんに言うの?」

「……!」

「俊くんは、拓巳くんが何かを避けている、って感じてるんじゃないの? だから、それに向き合わせるために一年早めようとしているように思えるよ」

 そしてそれは七年前、僕が札幌で具合を悪くしたことと関係があるんじゃないんだろうか。

「ねぇ、拓巳くん」

 僕は彼の顔を両手で包んだ。

 どうか、僕の気持ちが届きますように。

「拓巳くんをそこまで不安にさせた何があったのか、僕は知らない。でも僕は今、ここにいるよ? 拓巳くんに大事にしてもらって元気だよ。全国ツアー、一緒に行けなくたって、僕はどこにも行かないよ? それじゃダメなの?」

 拓巳くんは僕の目を見つめたまま動かなくなった。僕も目を逸らさずに見返した。どのくらいそうしていたのか、しばらくすると、薄茶色の瞳が何かに怯えるように潤んできた。

「拓巳くん?」

「俺は……!」

 拓巳くんは僕の肩に顔をうずめると、絞り出すように声を出した。

「そうだ。俺は怖いんだ。もし……」

 僕を抱く両腕が震える。

「もう一度あんなことが起こったら、正気でいられる自信がない……! 今度こそ雅俊を、祐司や芳弘を」

 肩に熱いものがじわっと広がっていく。

「……俺の周りの大事なものを壊すかもしれない。俺は、そんなに強くない、まだ強くないんだ……っ!」

 拓巳くんは体の底から吐き出すようにつぶやくと、顔を伏せたまま動かなくなった。

 僕は、そんな彼の背中を、痛みから遠ざけるようにさすることしかできなかった。


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