思い出話の謎
「そうだったのかぁぁ……」
健吾の声が、学校の裏手にあるプチトマト畑の上を通過した。
「だから拓巳さん、昨夜あんなんだったのに、今朝、頑張っておまえのところへ……」
「お世話かけました」
僕は草を取りながら、健吾に頭を下げた。
給食も済んだ午後、朝からせっつく健吾をなだめ、クラスの畑の草取りを志願してようやく二人きりになると、僕は健吾に昨日のことを話した。
あのあと、すっかり疲れてしまった僕は、真嶋さんの家で夕食をもらうと、あっという間に寝ついてしまった。
そして翌朝、六時頃に起きて客間から出てくると、そこにはすでに拓巳くんが、普段にはあり得ないような早さで僕を迎えに来ていた。そのまま連れて行こうとするのを真嶋さんが押し留め、優花と四人でトーストの朝食を食べたけど、拓巳くんは食欲がないようで、美人も台無しの寝不足顔でコーヒーをすすっていた。それが、二日酔いのためだったらしい、と判明したのは、学校で健吾から「拓巳さんが、ウチの父さんのところで酔いつぶれるまで飲んでいた」と聞かされたからだ。
健吾の家は、ワイン&カクテルバーを兼ねた、隠れ家的なレストランだ。僕たちのマンションのちょうど道向かいの先にあり、近くてこじんまりしていてありがたい。職人気質のおじさんが作るディナーはどれも絶品、しかも拓巳くんがワイン好きときてるので、うちでは土曜日の夜は、拓巳くんの仕事状況が許す限り必ずここで食べる。そのためなのか、彼のファンも時々訪ねて来るらしい。
いつもは僕と二人分をちゃんと予約して、おじさん特製の目隠し用ツイタテをセットしてもらったお店の奥(お店が狭いので個室がないのだ)で食べる拓巳くんが、昨夜は遅くに一人でフラフラ来たかと思ったら、カウンターに陣取り、次から次へとワインを空ける――。ワイン好きな拓巳くんの、らしくない暴飲ぶりにただならぬものを感じたおじさんは、周囲の注目を集める前にと早々にお店を閉め、彼を奥にある自宅へと連れていってくれたのだ。
かくして風呂から上がってきた健吾が、妙な気配を感じてリビングの奥を覗いてみると、そこに、いつもならこの時間帯にいるはずのない父親と、心配顔の母親、その向かいに〈T-ショック〉のボーカリスト、タクミ(実は友達のちょっとヘンな親)が、グラスを交わしているのを目撃してブッ飛ぶことになる。
それまでも、拓巳くんがお邪魔したことがないわけではなかったけれど、大抵、健吾と遊んだ僕を迎えに来たときで、ちょっと寄らせてもらう程度のものだった。
なので、あわを食った健吾は寝るどころではなく、おばさんともども十二時頃まで様子を窺っていたという。
さすがにそれ以上付き合えなかった健吾が、その場の観察をおばさんに託して床につき、翌朝、飛び起きてリビングに出てきたら、ちょうど僕を迎えに家を出るところだった、真っ赤な目をしたヨロヨロの拓巳くんと鉢合わせた、というわけだ。そりゃビックリだよね。
「それで和巳。おまえ家に帰ってどうだったんだ? 拓巳さんと二人で大丈夫だったのか?」
「え?」
手の中で草取り鎌がすべった。
「だってほら、昨日は優花んちで……ケンカしちゃったんだろ? 拓巳さんと」
「ああ……」
「俺も父さんとケンカなんてするとさぁ、そのあとが気まずくって大変なんだよな。ましておまえんとこ、父一人子一人だし……」
拓巳くんの様子を見て、宮内家の人々はそう思ったんだな。心配してくれてありがとう、健吾。
「ケンカとはちょっと違うんだよ。僕たちは大丈夫」
そんな言葉を口にしたせいか、僕の記憶が朝に引き戻された。
真嶋さんの家で朝食を食べたあと、二人で家に帰り(隣に移動しただけだけど)、自分の部屋で登校の準備をしていると、顔を洗った拓巳くんが来た。
「………」
かまわずに準備を続けていると、拓巳くんの足が、一歩踏み出したままで止まっているのが横目に見えた。
一段落ついてから顔を上げると、動けないでいる拓巳くんと目が合った。その表情を見た途端、
「……ぷっ」
つい、笑ってしまった。
「……そこ、笑うところじゃねーだろ……」
彼はその場にしゃがみ込むと、膝を抱え、顔を伏せてしまった。
「だって……」
あんまり不安そうにしてるから、なんだか憐れで昨日の文句も言えない。
「そんな顔されたら、ねぇ」
僕は拓巳くんの背中にぺたっと貼りついて首に両腕を回した。
「和巳は意地悪だ」
回された僕の腕の先を、拓巳くんの手が握る。さっき部屋に入ってきたとき、僕から声をかけなかったことを言ってるのだ。
「だって昨日、僕、怖かったから」
背中におぶさるような格好で耳にささやく。
「ちょっとお仕置き」
「わかってる」
伏せてくぐもった声がか細い。
「悪かった」
やがて拓巳くんは顔を上げ、背中の僕を外しながら振り向くと、立ち膝になって抱き直した。
「悪かった」
彼の骨ばった背中を僕も抱き返した。
「拓巳くんは、俊くんがからむとすぐムキになる。悪い癖だよ」
「あいつが悪い」
「僕を信用してない。本気でにらんだでしょ」
「だって……雅俊が」
「真嶋さん滅多に怒らないよ?」
「………」
昨日のアレはかなり怒ってたゾ。
「あとでちゃんと謝りに行こうね。僕、ついてくから」
「……うん」
どっちが保護者なんだかわからない。でもこれが僕と拓巳くんの自然なスタイルなんだよね。
そんなやり取りを交わしたあと、登校の時間が来たので僕は家を出てきたんだっけ……。
「僕とは、だからいいんだけどね。問題は俊くん」
僕は鎌を持ち直し、再び雑草に取りかかった。
「おお、マース」
よく伸びたプチトマトの枝に添え木を結びつけていた健吾の手が止まる。ロックバンドがごひいきの彼は〈T-ショック〉に詳しい。ありがたいけど。
「この前、見せてもらったプロモーションDVDもカッコ良かったよな~、じゃなくて、マースがなんだって?」
「だから、拓巳くんと俊くんがさ……」
そういえば、あのあと拓巳くんがヘンなこと言ってたっけ。
「でも、あいつも悪い。事あるごとに、俺からおまえを取ろうとして挑発しやがる」
「俊くんが? 取ろうったって取れないでショ。僕、物じゃないんだから」
「……自分のところに来いとか、最近よく言ってくるだろ」
「泊まりに? そうだね」
僕がそう答えたら、
「雅俊に関しては和巳、おまえもひどいんだぞ……」
と言ったきり、僕の肩に顔を伏せたまま黙っちゃったんだよね。何のことかわからないからよく聞こうとしたら、時間が来ちゃって。
「どうも最近、俊くんと拓巳くんの間がヘンなんだよ」
根のやたら長い草が僕の鎌にからまった。
「それが積もり積もったところに、今回のツアーの件が重なっちゃったのかなって」
手の中の草取り鎌が重い。僕が関わる何かのせいで、二人がケンカしてるのかもしれないと思うと気が滅入る。
「ロックバンドにありがちなメンバー間の方向性の食い違いが、とうとう〈T-ショック〉にも!」
「何それ」
健吾はいかにも嘆かわしい、といった顔をした。
「メジャーになってしばらくするとさ、『音楽性に違いが出てきて……』とか言って、数多くの人気ロックバンドがファンに別れの涙を流させつつ、命を散らしてるんだな」
そ、そういう経験がすでにあるのか健吾。
「マースと拓巳さんが主に曲を作ってるんだろ? 十二年もやってれば、やっぱ……」
何を想像しいてるかがわかったので、僕は慌てて否定した。
「違うよ、拓巳くんは時々詞を作るだけ。作曲はほとんど俊くん。音楽性、っていうなら、拓巳くんが少し前に『やっぱりあいつの曲は歌いやすいんだよな』とか言ってるの、聞いたばっかり……」
説明しながら、僕は自分の言葉にハッとした。むしろ、その音楽性の一致とやらがあるから、色々あっても十二年間一緒にやれてるんじゃ……?
「でも、拓巳さんはソロ活動もしてるじゃん」
健吾が食い下がる。が、僕には確信があった。
「ああ、アレは俊くんがプロデュースしてやらせてんの」
「なんでっ?」
さすがに驚く健吾。
「うーん、俊くんが言うには『おれの中に住む芸術の神が、ヤツを一人にして料理してみろ、って言うのサ』だって」
「よ、よくわからないな、俺」
大丈夫だ、健吾。大半の人にはわからないから。
「じゃ、まぁ、仕事上の食い違いってのはないんだな。だとするとやっぱりプライベート、イコールおまえがらみ?」
ははは、メンバーの息子の取り合い(?)で、バンドって解散するものだろか。んなバカな。
「僕のことで何か、二人のネックになることがあるのかなぁ……」
ようやく根っこを取り払いながらぼそりとつぶやくと、
「和巳の取り扱いに対する意見の違いってこと? そりゃま、あるんだろうな」
健吾があっさりと肯定した。即答かよ。
「だって、今回の全国ツアー再開のことにしたって、拓巳さんはおまえの学校行事を優先したいし、マースはおまえの了解を取りつけてでも、ツアーを決行しようとしてる」
う、確かにその通りだ。
プチトマト作業に戻りながら、彼はさらに続けた。
「普通、人気のあるロックグループなら、三年に一回くらいは全国ツアーやってるよな。ファンとメンバーをつなぐためにも大事なイベントだし、メンバーだってやりたいだろうし」
拓巳くんがやりたそうにしてるのは見たことがないケド。
「そもそも全国ツアーやれるだけの人気を保つだけだって大変なことだよ。音楽の世界は浮き沈みが激しいんだから。まぁ〈T-ショック〉にその心配はなさそうだけど、曲を作るマースからしたら、今じゃなきゃ、できないことってあるんじゃないかな。だから、本来だったらマースの言い分が通るはずだ」
「……そうだよね」
「けど、〈T-ショック〉はここ七年間やってない。拓巳さんが嫌がるからずっとそれを通してきた。でもマースはやりたい。そこからくるジレンマはあると思うよ?」
その原因が僕?
「じゃ、僕が拓巳くんを説得して、全国ツアーがやれるようになれば、少しは二人のトラブルも減るのかな」
「それは、減るんじゃないかな、今よりは」
健吾がまた即答した。
「でも、それにはまず根本的な原因を知らないと。どうして拓巳さんが自分にとっても大事なはずの全国ツアーをやらなくなって、和巳のことを優先してきたのか。やむを得ない事情があるから前倒ししたいと言われているのに、ああも頑なに拒否するのはなぜなのか」
それは僕も知りたい。
「それと」
健吾が少し言い淀んだ。僕が地面から顔を上げると、健吾は意を決したように先を続けた。
「和巳がツアー活動についてどう思ってるのかも」
「えっ、僕? 拓巳くんじゃないの?」
思わず鎌が手を掠める。
「だから、和巳がらみで嫌がってるらしい拓巳さんを説得したいなら、和巳自身がどう思っているかをちゃんとしとかないと」
健吾はまだ青いプチトマトに手を伸ばした。
「そりゃ自分の親の仕事だもの。必要、っていうなら僕、ツアーに反対なんてしないよ?」
健吾はプチトマトをつかみ、枝からもぎ取って僕のほうを振り向いた。
「和巳、それじゃダメだ。そういうことじゃなくて」
「ダメ? どうして」
健吾は僕のそばにしゃがみこんで両肩に手を置くと、ハーっとため息をついた。
「なんか……マースや沖田マネージャーさんが、おまえの心の成長を待っている構図が見えてきたぞ……」
「?」
「いいか、和巳」
健吾は僕を畑と校舎の間にあるコンクリートテラスの縁に座らせると、自分も隣に座った。
「一つ聞きたいんだけど」
なんだか目が真剣だ。
「俺はさ、親の影響かなんかわかんないけど、自分がロックバンド好きだし興味あるよ」
それは知ってる。
「だから、自分の好きなバンドの生演奏が見れたら嬉しいとか、チャンスがあったら行きたいとか思う」
「実際、健吾の家はみんなでよく行くよね。〈T-ショック〉のも必ず来てくれるし」
友達が来てくれるのは嬉しい。
「じゃあ和巳は? 和巳にとって〈T-ショック〉ってどうなんだ?」
「えっ?」
「自分の小遣いはたいても、あの演奏を聴いてみたいか? 親に反対されても、行くのに三時間かかっても聴きに行きたいか?」
「……えーっと」
か、考えたこともない。
「でも、中学生や高学生には、実際にそういう人が多いよ、ロックバンドだと」
「……そうなの?」
「俺はたまたま親が好きだから、一緒に連れて行ってもらえるし、好きなバンドのこと親に話したら、一緒に盛り上がることができる。でも、そうじゃない友達もたくさんいる」
健吾は手の中のプチトマトを見た。
「そういう友達が言うには、自分の好きなことを家族にわかってもらえないのは、とても苦しいって」
「………」
「表面上、行ってもいいよ、って送り出されても、話を聞いてくれても、理解してもらえないのは悲しいし、寂しい」
健吾の手の中でプチトマトが転がる。
「家族だから、そういうのわかっちゃうんだって。自分がバンド好きなこと、嫌がられてるんだなぁ、って。家でそういうのが溜まると、自分と同じ思いを持つ人を外に探すか、自分が好きなことを変えるか、どっちかになる」
きっと、健吾はコンサートやライブの会場でそういう人とたくさん会ったんだ。
「俺は、おまえの家がそうならなきゃいいなと思う。和巳が、拓巳さんたちの活動を心から応援してくれたらと願ってる。でも」
健吾の手からプチトマトが転がり落ちた。
「それは和巳、おまえ自身がそう感じないと意味がないんだ」
健吾は僕を見た。
「だって家族には、わかっちゃうから」
健吾が何を言いたいのか、見えてきた気がした。
「考えたこともなかったよ」
僕の目が健吾から逸れた。
「健吾は僕の中に、拓巳くんがツアーをためらうような何かがある、だから僕のことを優先している、そう思ったんだね?」
健吾が目の端で頷く。僕は転がり落ちたプチトマトを探した。
「でも、僕は今まで拓巳くんたちの仕事をたくさん見てきて、嫌だとか、キライだとか思ったことはないつもりだったんだけど……」
「俺も、そう思ってた」
「でも、今はそうは思わないんだね?」
目線を上げると、健吾はテラスのコンクリートに手をついて、空を見上げていた。
「考えてみたら俺、和巳がマースのアート世界や拓巳さんの写真集を喜んだり、ユージのギターテクニックに感心していたのは知っている。でも、〈T-ショック〉のステージそのものに、喜んだり感動したりしてるところを見たことはなかった気がするんだ」
健吾の気配が、フッと緩んだ。
「ごめん、むちゃ言ってるよな。和巳は演奏者側の子どもなんだから、今まで考えたことがないのは当たり前だ」
「そうかな……」
「そうさ。だって子どもは親を選べない。和巳にとっては、拓巳さんがロックミュージシャンなのが日常なんだから。ただ」
「ただ?」
「これからは考えなくちゃいけない。なぜってそれは、本来拓巳さんがやるべき活動を、七年間も抑えていた上での日常だったんだから」
僕の心臓が一瞬、跳ね上がった。
「そして、和巳の話を聞く限り、拓巳さんの周りの人たちは、これ以上それを抑え続けることはできない、と考えているんだと思う」
僕の脳裏に、昨日の俊くんと拓巳くんの叫びがこだまする。
(もう七年経つんだぞ拓巳!)
(だまれ! おまえがそれを言うかっ!)
「だから和巳、お前と拓巳さんがこの先、暮らしていくためには、この問題に向き合わなきゃいけないんだと思うんだ」
健吾の手からすべり落ち、見失ったプチトマト。まるで、僕も知らなかった、僕の心の奥底のようだ――。
「では、和巳さん、今日はこれで」
キッチンのカウンター越しにかけられた中沢さんの声で、ダイニングテーブルで宿題をしていた僕は我に返った。
「あ? ああ、もうそんな時間?」
時計を見ると午後八時十分過ぎだ。でも宿題はぜんぜん進んでない。
「あれ、優花は?」
僕がリビングを見渡すと、中沢さんが笑って言った。
「いやですねぇ、和巳さんたら。優花さんなら三十分ほど前に帰ったじゃないですか」
「え? そうだっけ?」
「ちゃんと、優花さんの挨拶に返事を返してましたよ?」
もっとも、心ここにあらず、という感じでしたけどね、と中沢さんに付け加えられ、僕は赤面した。
昼間の健吾との会話。そのことが、僕の頭から離れないのだ。
(拓巳さんを説得するならまず、和巳自身がどう思ってるのかをちゃんとしとかないと)
(喜んだり感動したりしてるところを見たことはなかった気がするんだ)
(家族には、わかっちゃうから)
僕の中に、ロック歌手である拓巳くんを否定するような気持ちが、あるのだろうか――。
「なんだか心配ですねぇ、大丈夫ですか?」
中沢さんが僕の顔を見ている。いつものやさしげな目が、今は気がかりそうに細められていて、なんだかいたたまれない。
うちのハウスキーパー、中沢美智子さんはベテランの家政婦さんで、僕の家がお願いし始めたのがこのマンションに入った頃だというから、もうかれこれ七、八年近くの付き合いだ。先に、優花と父子家庭でいた真嶋さんがお世話になっていて、その後拓巳くんが紹介してもらったらしい。
その当時すでに五十代半ば過ぎ、真嶋さんも太鼓判を押す人柄のよさで(でなきゃ拓巳くんに紹介しないか)、拓巳くんも信頼する数少ない人たちの中の一人だ。
小柄でやや小太りの、愛嬌のある丸顔にいつも笑顔を絶やさないほがらかな人で、一緒にいる人を疲れさせない。僕や優花のことを「第二の孫」と公言し、しつけにも厳しいわりに、丁寧に「さん」づけなのは、遠方にいる自分のお孫さんにも「さん」づけなのだそうで、中沢さんにとっては自然なことらしい。
長くお世話になっているうちに、色々な取り決めができていったけど、その中でも中沢さんが特にこだわったのが「夕食時に子どもを一人にしない」ことで、息子のような真嶋さんや拓巳くん二人に向かい、切々と食育への持論を説き、結果、優花と僕の両方が夕食時に一人のときは、中沢さんの判断でどちらかの家で二人を食べさせる、と決められている。そして今日は僕の家のほうだったわけだ。
「お疲れ様でした。明日も今日と同じだったっけ?」
「ええ、午後の三時には来ていますよ。明日は私が夕食をご相伴です」
拓巳くんだけがいない日は、中沢さんと夕食を食べる。そういう時は、練習をかねて僕も手伝うことになっている。お陰さまで、今では僕一人でもそこそこキッチンに立てるようになり、俊くんには「生活力はすでに親を越えてるな」などとからかわれたりする。
そんなわけで、中沢さんと僕たち親子は、家政婦さんと契約者、というよりは、先生と生徒みたいな関係に近いと思う。
「何か、ありました?」
やんわりと聞かれ、僕は言葉に詰まった。そんな僕を見て中沢さんは続けた。
「いえね、無理に聞き出すつもりはないですよ。でも、もし何か困ったことがあって、私がお役に立てそうなら、遠慮なく言って下さいな」
そしてにっこり笑いかけてから、エプロンを畳んで荷物袋にしまった。この、けして押しつけない、さりげない気配りが中沢さんらしくて好きだ。
「ねえ、中沢さん」
キッチンからリビングに出てきた中沢さんに、僕はふと思いついて聞いた。
「はい?」
「中沢さんに来てもらうようになったのって、八年前くらいだったよね?」
「ええ、正確には七年半前くらいですねぇ」
「その頃、拓巳くんコンサートであっちこっち行ってなかった?」
中沢は少し考えると、困ったように答えた。
「ちょっとあやふやですけど、そうだった気がしますねぇ」
「中沢さんはそういう時、コンサートへ一緒に行ったこと、ある?」
中沢さんは少しだけ目を見張り、だけど特に尋ね返すことなく質問に答えた。
「いいえ、拓巳さんのコンサートには、一度も行ったことはありませんよ」
「そう、だよね……」
ジャンルもロックだし。じゃあ、その頃の僕たちの様子なんて聞いてもわかんないか……。
なんて頭で考えていたら、
「いえいえ、内容の問題ではなく、そういう外でのお仕事の時は、和巳さんをお預かりしてましたので」
と返ってきた!
「僕、コンサートの時って中沢さんと留守番してたの?」
「コンサートの時だけではないですけど、拓巳さんがお仕事で外泊なさる場合は、大抵私が泊まりに伺いましたよ」
お可愛らしいさかりの頃でしてねぇ、と中沢さんが微笑む。
「遠出のお仕事にも和巳さんを連れていかれる、と聞いて、私が申し出たんですよ」
「そうなの? どうして?」
「そりゃ、小さなお子様には、よくありませんもの」
中沢さんは言いながら僕のいるテーブルのそばに来て、荷物袋を足下に置き、隣の椅子に座った。
「親子でご旅行というなら、ぜひにと思いますけど、お仕事となれば話は別です」
仕事であるからには、親は子どもを誰かに託さなければならない。毎回違う場所に行くとなると託す人も違ってくる。幼い子どもにとって、その負担は大人の比でない……。
そう言って中沢さんは拓巳くんやスタッフを説得したのだという。
「こういうことを言うと、大抵の契約者さんはうるさがるものなのですけど、拓巳さんはちゃんと聞いて下さいましたよ」
和巳さんを残していくのは、とても悲しそうでしたけどね、と言って中沢さんは思い出し笑いをした。
「特に、続けて置いていくのは嫌がりましてねぇ。よく沖田さんに抗議なさっていました」
私にはおっしゃいませんでしたけどね、と中沢さん。けど、それじゃ。
「優花は、よくツアーについていった、って話してたんだけど」
「真嶋さんは地方のご実家に親御さまがおいででしたから、時々合流なさってらしたんじゃないでしょうか」
ああ、なるほど。だけど……。
「じゃあ、祥子さんが仲間から聞いたっていう、優花の記憶にもある僕の泣いた話、あれは何なんだろう……」
僕がぶつぶつ言っているのを中沢さんが聞き咎めた。
「何ですか? その、泣いたとおっしゃるのは」
僕は祥子さんと優花から聞いた話を中沢さんに話した。すると中沢さんは訝しげな顔になった。
「おかしいですねぇ。私がご厄介になってからは、そんなことはなかったように思います。きっと、私が来る前の話なんでしょうね」
そうか、優花の記憶がズレてるんだ。優花、僕の記憶力を笑えないじゃん。
「女の子は細かいことをよく覚えていますが、時間の感覚が曖昧だったりすると申しますからね」
中沢さんが笑って優花をフォローする。経験あるのかな。
「優花、あっちこっち行ったって言ってたし。うちは拓巳くんがあんまり出られないから、旅行なんて行ったことないよ。いいな~」
僕に遠出した記憶がないのは、いつも留守番してたからだったんだな、なんて納得してたら、
「あら、和巳さんだって、お小さい頃は、時々拓巳さんとご旅行に行かれてましたよ?」
と、言われてしまった。
「え? そうなの?」
やっぱり記憶力のモンダイ?
「そうですよ。私もご旅行は賛成でしたし、和巳さんも楽しいご様子でした。三、四日で行くことが多かったですねぇ。もっとも、覚えてなくても無理はないですけども」
「どうして?」
「私がこちらに来てから一年半経った頃ですから、確か四歳の冬頃かと思うんですけど、ご旅行先で、和巳さんが体調をひどく崩してしまったことがありましてね」
中沢さんの表情が曇る。
「そのときは拓巳さんから、旅行を取りやめてこちらに戻るから私にも出て来て欲しい、と連絡が入りました」
中沢さんが言われた時間に駆けつけると、すでに到着していた拓巳くんが青ざめた顔で待っていたという。まずは僕の様子を、ということでベッドに向かうと、高熱でぐったりした僕が横たわっていたわけだ。
「旅行先で元気だと思っていたら、突然、熱を出すのが子どもというものです。そう言って励ましたのですけど、拓巳さんには初めての経験だったから驚かれたんでしょう。和巳さんが回復なさるまで、それは哀れなほどご自分を責められて」
結局、僕が元気になるまでには一週間もかかり、その間、食事も喉を通らないありさまの拓巳くんまで中沢さんが介抱しながらすごす羽目になったという。
「しまいには、『そんなことでは親は務まりません!』なんて拓巳さんを叱り飛ばしてしまいました」
クスクス笑いながら中沢さんは言った。
「それで、和巳さんが無事回復したあとに、しばらくご旅行は短めで計画なさって下さいね、と助言しましたら、『もう旅行はしない』なんておっしゃいましてねぇ」
それからは外泊のお仕事も減って、私がお泊まりすることもだんだんなくなっていったんですよ、と中沢さんは言い、ちょっと寂しそうな顔をした。
「まったくおやめになることはないんですよ、と言ったのですけど、よほど和巳さんの弱ったお姿が身にこたえたのでしょうねぇ。本当にきっぱりとおやめになりました。だから、和巳さんは覚えておられないのでしょう」
そんなことがあったとは。
だから、今に至るまで旅行に行かないだなんて、知らなかったゾそんなこと。てっきりうちが旅行とかあまりしないのは、拓巳くんの仕事のせいだとばかり思ってた。
「じゃあ……! 今ならもういいよね。僕、元気だし」
「さぁて、拓巳さんが何とおっしゃいますかねぇ」
中沢さんはゆっくりと立ち上がり、荷物袋を肩に下げた。
「以前、拓巳さんに、和巳さんも丈夫になりましたねぇ、とお話ししたら、『小学生のうちは、油断はしないから』などとおっしゃっていましたよ」
「え~、それじゃダメじゃん。僕、滅多に風邪もひかなくなったのに。そのときだって結局は風邪か何かだったんでしょう?」
大袈裟だなぁ、と僕がぶつぶつこぼしてると、「いえ、それが」とリビングのドアへと向かおうとしていた中沢さんが足を止めた。
「わからなかったそうなんですよ、病院でも。私は食べ物が原因では、と思ったんですけど、拓巳さんはそれはない、とおっしゃるし」
だからなおさら不安になってしまったんでしょうねぇ、と中沢さんが苦笑した。
「熱が出ただけじゃないの?」
「ええ。吐いて食べられなかったり、痙攣したり朦朧としたりで、小さなお子様の具合の悪い様子を見慣れない方が見たら、びっくりなさっても仕方ないんですけど」
でも、食あたりとか、痙攣とかはお子様ならよくあるんですよ? と言って中沢さんはドアにまた向き直った。僕も見送りに立ち上がり、一緒に玄関へと向かう。
「なんか変な物でも食べちゃったのかな?」
「そうですねぇ。おいしい海の食べ物で有名なところでしたから、あり得ますねぇ」
「へぇー、どこだったの?」
そのときの僕は、別に何か考えて質問したわけではけしてなく、ただ話の流れで聞いてみただけだっだ。だから、中沢さんが靴を履きながら言った言葉も、危うくおやすみなさいの挨拶に紛れてしまうところだった。
「……今なんて?」
「はい? ああ」
ドアを開けた中沢さんが振り返る。
「ですから北海道の、札幌ですよ」
そう言って、中沢さんは会釈してからドアの向こうに消えていった。
僕は、しばらくその場に立ち尽くしていた――。




