プロローグ
とある晴れた午後の日。
一人の少年が放課後の通学路をとぼとぼと歩いている。
背中には学校指定のかばん。動きやすい上下ジャージという格好で帰宅中のようだ。
周りには友達の姿は見えない。
「ほんと、ありえねーよ」
と語尾を上げて独り言を言っている。何か腹の立つことでもあった様子だ。
「日記書くの忘れたってだけで、あんなに怒らなくてもいいじゃんかよ。ほんとありえねー」と尚も文句を続ける。
吐く息がまだ白くなることはないが、風が寒さを運んでくる季節だ。
日の暮れも若干早くなってきている。この日ももう日は落ちかけようとしていた。
少年は、誰ともなく独り言を続けながら石を蹴り続けている。どこまで無くさないでけっていられるかチャレンジしているようだ。
「あーあー。いいことないよなー。帰ったってどうせ塾に行かなきゃだし。ほんと、自由がないぜ」
「あーあー」
文句を言いながらとぼとぼと少年は歩いている。
すると、
べチャッ
という嫌な感触が靴の裏から伝わってくる。
一気に血の気が引く少年の顔。
「うわ。やっちまった。うわー」
少年の靴は見事に、何かの生き物が生み出した排泄物を踏みつけていた。
「サイアクだー・・・」
力なくうなだれる少年。
「くそ、くそ、くそー。くせーよ。なんとかしないと」
というが早いか、手じかにあった電柱を見つけると少年は、靴底を電柱に擦り始めた。
がしがし擦るとなんだかきれいになった気がしないでもなかった。
そのまましばらく、その靴の裏を電柱に擦り続ける少年。
だが、何を思ったのか、ふっとその足が止まる。
それに合わせたかのように、少年はまた独り言を始めた。
「何で僕ばっか、こんなついてないんだよ。こんなのサイテーだ」
「ちくしょー」
大声と共に少年は電柱に大きく横蹴りを食らわせた。
躊躇のない蹴りだった。まるで、その電柱を蹴って折ろうとしているかのようだ。
しかし、少年がどんなに心の中で力強い蹴りを繰り出していたとしても、現実は小学生の蹴り。電柱は微動だにせず、そこに立っていた。
むしろ痛いのは自分自身の足である。
蹴りの時は靴のつま先を使ったのだが、それでもジンジンと足が痛む。今はいている靴はつま先と靴の間にかなりの余裕があった。
成長期で足が大きくなるのを見越して本来は20cmのところを、21cmのものにしておこうと母親が選んでくれた靴だ。
足元から視線を移し、改めて電柱を見つめる少年。
少年も折れるとは本気で思っていなかったが、もし、万が一、奇跡のような確率でこの電柱が折れたら今の気持ちが幾分すっきりするだろうなと思い、再度右足に力を入れようとした。
そのときだった。
「ちょっと。止めてくれませんか」
どこともなく、誰ともいえない、どこかで聞いたことがあるような、それでいて誰とも似ていない、そんな特徴のない声で電柱を蹴ろうとするのを止められた。
思わずギクッとしてクビをすくめてしまう。
近所の人が見ていたのだろうか。
この前も、小学校の全校集会で民家の壁に落書きをしている生徒がいて、学校に連絡があったという話が校長先生の口から出たばかりだ。
まずい、と思いながらあたりを見回す。
いかついおじさんだったらどうしようか。
右を振り返り誰もいないことを確認すると、続いて左を向く。
が、やはり誰もいない。
おかしいな、どこか家の中から見ていて、そこから注意でもしているのだろうかと思い、見上げて見るが窓が開いている家はどこにもない。さらに右へ、左へと視線を向けるが、やはり誰もいない。
頭の中にはてなマークを浮かべながら、気のせいだったのだろうかと納得しかけたそのときだった。
「何をそんなにきょろきょろしているんですか」
と再度同じ声で話しかけてくる。
だが近くに人はいない。
さすがに不気味になってくる。この前親戚のたかし君の家に遊びに行ったときに、年上のたかし君から影のお化けの話を聞いたばかりだったからなおさらだ。
そのお化けは夕方小学生が学校から帰っていると、回りに誰もいないのに、いきなり声がしてくるというものだった。
その声は自分の影から聞こえてくる声で、死者からの声なのだそうだ。こたえてしまうと最後、その影の声の主と入れ替わってしまい、一生影の中に閉じ込められてしまうというものだった。
元来、そういった怖い話などはあまり興味はなかったのだが、このシチュエーションで思い出すと、身の毛がよだつものがある。
声に応えてはいけないと、心の中で念じ、走ってその場から去ろうする。
「おやおや。私を蹴っておいて、謝りもせずに家に帰るつもりですか。蹴りを入れる前には、人の顔に泥どころか糞を塗ってくれて・・・
まったくこれだから最近の小学生はだめですね。悪いことをしたら謝るのはあたりまえじゃないんですか」
と声は相変わらず、平坦なナレーションを聞いているようなテンポと口調だったが、内容を聞く限りでは若干怒っているらしい様子で話しかけてくる。
私を蹴って?
謝る?
何を言っているんだろう?
怖い話と、誰もいないのに聞こえる声、色々なものが頭を駆け巡っていく。ゲームの中で魔法をかけられて、混乱させられた勇者と仲間達のようだ。
次の行動が出来ない。
きっとゲームの勇者も大変なんだろうなと、架空の彼の心を推し量って一人ぶつぶつ言っていると、
「ちょっと。ぶつぶつ言っていても分かりませんよ。話をするときは相手の顔を見て、はきはき話す。そう先生に教わりませんでしたか。こっちは目の前にいるというのに。そうです、私はあなたの目の前に立っている電柱ですよ」
電柱?
目の前の電柱というのは、さっき犬のふんを擦り付けて、蹴っ飛ばした電柱ってこと?
今聞いた言葉が信じられなくて、正面の電柱を見てみるが、どこにでもある電柱でしかない。
アリエナイ。
電柱が喋った?
アリエナイ。
やっぱり影の幽霊の罠なのだろうか?
いや、でももしかしたらよく見ていないだけでどこかにスピーカーとかが設置されているのかもしれない。
中学生や高校生とか、暇な大人とかが暇つぶしに下校中の小学生をからかっているのではないだろうか。前にテレビのどっきりで似たようなのを見たことがある。
そう思ったが早いか、声の発生源を見つけようと探してみる。
まずは電柱の横だけど、特に何の変哲もないようだ。裏側にも変な部分はない。
上を見上げて電線がつながっている部分も見てみる。けど、わざわざ登ってまで設置はしないだろうと思い再度目線を戻す。
おかしい。やはり何も変わったところがない。
どういうこと?
再度ぶつぶつと言いながら考え込む。
「なに人のことをじろじろ見ているんですか。確かに顔を見てくださいとは言いましたけども、そんなにじっくり見るようには言ってないですよ」
「ふざけんな。からかってないで正体を見せろよ。二中の人とか、高校生とかだろ」
と啖呵をきるが、勢いで言って少し後悔する。
ちなみに二中というのは地元の中学校の名前の略称で、今通っている小学校の生徒は中学受験でもしない限りほとんどが二中に通うことになる。
影幽霊の罠でも怖かったけど、4つ以上も年上であろう中学生や高校生にこんな生意気なことを言って大丈夫なのかという不安が頭をかすめた。
「正体?また変なことを聞いてきますね。確かに難しい質問です。人というのはそれ自体良く分からない生き物ですからね。実際自分を本当に分かっているものがこの世にどれくらいいるのか。それは分かりません。ただ、私が二中やら、高校生やらとかではないことは確かです。私はしがない電柱、あなたの通学路に立っているただの電柱ですから」
となにやら応えてくる。
まさか。本当に電柱が喋っているとでも言うの?
電柱が喋るなんて今まで聞いたことは一度もない。
確かにテレビで喋る犬とか見たことはあるけど、あんなの飼い主が勝手に鳴き声を人間の言葉にあてつけて喜んでいるだけだ。本当に言葉の意味を理解して話しているわけではない。
ただ、今話しているこいつはしっかりと意味のある会話をしている。さらに、僕が喋った言葉に対して、返事もしている。会話が成立しているんだ。
しかも、犬と違う点はそれだけではない。犬が生命体であるのに対して、電柱は生き物ですらない。だって、コンクリートの塊だ。一本単価いくらで業者が作っている無機物そのものだ。
そんなものが喋ることなんて絶対ない。
もし電柱が喋るなんてことがあれば、この世に存在しているすべてのものが喋ったっておかしくないくらいだ。そんなの絶対おかしい。
でも、ここで電柱がしゃべっていないとすると、後は幽霊の仕業くらいしかこの状況を説明できる答えが自分の中にないのも確かだった。
電柱が喋るのを認めるのか、それとも幽霊を認めるのか、どっちか。
「お前本当に電柱なの?電柱が喋るなんておかしいじゃんか」
迷った挙句、怖くない答えを選んだ。
「電柱が喋るのがおかしい?そうですか、それならあなたは何故喋るんですか?私が喋るのがおかしくて、あなたが喋るのがおかしくない理由はなんですか?」
「それが普通だから・・・」
「あなたが言う普通とは何ですか?目に見えるものですか?だとしたら目の前でこうして喋っている私がいることが、それこそ普通のことなのではないですか」
「いや、でも」
言葉が出なかった。電柱に言い負かされるなんて。
クラス委員の大月に注意されても言い負かされることなんてなかったのに。
「話が長くなってしまったのですが、いつになったら先ほどの件について謝罪してもらえるんでしょうか」
うっ・・・と低くうなってから、
「ごめんなさい」
と謝る。
「そうです。最初から謝ってくれれば何も言うことありません。あとは先ほど汚した部分をしっかりときれいにしてくださいね。分かりましたか?」
「えっ」
そこまでしなければいけないのだろうか。
電柱だし、どうせ動けないのだからこの場限りで逃げてしまえば、特に問題も起きないのではないだろうかと頭の中で算段をしていると
「あ。このまま適当に謝って、逃げてしまおうとか考えないでくださいね。もし逃げて戻ってこなかった場合は・・・」
「逃げて戻ってこなかった場合は?」
どうなるのだろうか。
「呪います」
明日の朝一番で電柱掃除をすることが確定した。