中巻
バイクは市の中心を大きく離れて、郊外に出た。
そしてそのまま山間部の方へとむかって走って行った。
山に入ったバイクは、しばらくは車が対向できるくらいの道を走っていたが、突然横のわきの坂道に入って行った。
一応舗装はされているが、普通乗用車一台がやっと通れるくらいの幅しかない道である。
おまけに急な上がり坂のうえに、大小のカーブが連続してうねうねと目の前に現れる。
バイクのライト一つでは十分には見ることが出来ないが、どうやら道の片側は深い崖になっているようだ。
おまけにガードレールもどこにも見当たらない。
車はもちろんのこと、二人乗りのバイクではさらに危険なその道を、龍夜の運転する大型バイクは信じられないほどのスピードで走っていた。
「……」
二階堂は何も言わなかった。
いや、言えなかった。
崖から落ちたら命が無いことは想像がつく。
だからといって、危険な運転を続けている龍夜に何かに声をかけたら、それが原因で事故を起こしてしまうような気がしたからだ。
ただひたすら龍夜の背中に、しっかりとしがみついているだけである。
そして単純な原始的恐怖を感じ続けている二階堂を乗せた荒馬バイクは、二階堂が感じる時間からすればかなりの時間が過ぎたと思われる頃、なんの前触れも無く急にスピードを落とした。
そこはちょっとした平地になっていた。
大きなカーブの内側に、車が二、三台止まれるくらいの土のスペースがある。
バイクはその中心あたりに停まった。
その平地の奥に石段があった。
バイクのライトしか明かりがなかったが、それはずいぶん昔に造られたもののように、二階堂には見えた。
そして石段のすぐ手前に、小さな鳥居があった。
これもまた、ずいぶんと年季がはいったものだった。
かつては真っ赤に塗られていたであろうその鳥居は、今はその赤かった部分がほとんど剥げ落ちており、その大半が永年風雪にさらされてきた木の黒茶色で占められている。
おまけにあちらこちらで木の表面が、哀れなくらいにえぐられていた。
特に地面に近い部分は――おそらく白蟻にでも食われたのだろう――その太さが半分近くになるくらいまで周りを食い散らかされていた。
今建っていることが不思議に思えるほどの酷い状態である。
二階堂がそれらをぼんやりと見ていると、龍夜がバイクのエンジンを切った。
とたんにあたりが真っ暗な闇につつまれる。
龍夜がバイクを降りると言った。
「おい、おっさん。いつまで後生大事にバイクにしがみついているんだ。さっさとゆづきのところへ行こうぜ」
二階堂もバイクを降りた。
「暗くて何も見えないぜ」
「もうほんとに、これだから公務員は。って、これは公務員とは関係ないか。しょうがねえなあ。引っ張ってやるから、ついて来い」
龍夜は二階堂の手をつかむと、すたすたと歩き出した。
二階堂が半ば引ずられるような形のまま、ついて行く。
二階堂は足元のよく見えない石段で何度か転びそうになったが、そのたびに龍夜が手を引いて助けてくれた。
恩着せがましく文句を言いながらだが。
その石段は神社に通じる石段としては、そんなに長くはなかった。
十数段ほど登ったと思われた時、開けた場所に出た。
そしてその奥にぼんやりと明かりが見えた。
その明かりはそこに建っている古い神社からもれていた。
その神社は、神社としてはかなり小さいほうだろう。
その大きさが、一般的な民家より少し大きいくらいの大きさしかない。
そして本堂の横に小さな古びた蔵のようなものがあるだけで、他には何の建造物も存在しない。
狛犬とか灯篭とかといったものもなかった。
あきれたことに、神社には、たとえそれがどんなに寂れていたとしても違いなくあるはずの賽銭箱さえ、どこにも見当たらなかった。
敷地の面積もさして広くはない。
龍夜はじっと神社を見ている二階堂を無視して、本堂の左側にある扉を開けて、中に入った。
二階堂が慌てて龍夜の後を追う。
中には幅の狭い土間があり、その先には同じく幅の狭い広縁があった。
柱や天井などを含めた全体の様子から、かなり年月の経ったもののように思える。
広縁の先には六枚の障子が並んでいた。
龍夜は靴を脱ぐと広縁にあがり、真ん中にある二枚の障子を左右に開けた。
そこは日本間となっていた。
その二十畳以上ある日本間の真ん中の奥に、巫女が着る衣装を身にまとった少女が正座をしていた。
その少女が龍夜ごしに二階堂を見た。
二階堂はあっけにとられていた。
龍夜から〝かわいい〟とか〝絶世の美女になる〟とか聞かされてはいた。
しかし身内の欲目がかなりあると考えていたので、まさかこれほどまでとは思ってもいなかったからだ。
日本中、いや世界中のどこにだしても遜色のない、完全無欠で正真正銘の美少女である。
そのうえに二階堂を見るその大きな黒い瞳の中に、広い知性と強靭な意志、そして大きくて深い母のような愛が宿っていることが、二階堂には瞬時に理解できた。
もって生まれた奇跡的ともいえる顔立ちのよさ、それに加えてその内面の強さと美しさを、彼は痛いほどに理解した。
決してロリコンの気はない二階堂だったが、今目の前にいる少女を、心の底から〝美しい〟と感じていた。
ゆづきの顔を、穴が十個も二十個も開くほどじっと見つめている二階堂を見て、龍夜があからさまに不機嫌な口調で言った。
「おい、おっさん。さっきから何、ゆづきにぼーっと見とれているんだ。このおっさん、やっぱりロリコンだったんだな。危ねえ危ねえ。おい、ロリコンおっさん、ゆづきに会うのはこれっきりだぞ。もう二度と会わせねえからな。わかったか!」
龍夜をなだめるように、ゆづきが柔らかく言う。
「まあまあ龍夜様、もうそれくらいにしてくださいませ」
「……」
龍夜がおとなしくなったのを見とどけてから、ゆづきが二階堂に目を向けた。
「ようこそおいでくださいました二階堂様。遠路はるばる本当にご苦労様でございます。さあ遠慮なさらずに、どうぞお上がりくださいませ」
その声にあやつられるかのように、二階堂は日本間に上がった。
そしてすでに用意されていた二枚の座布団のうち、右側に座った。
龍夜が、子供がふてくされたような顔で二階堂を睨みつけながら、左側の座布団に座る。
二人が座り終えると、ゆづきが言った。
「では二階堂様。二階堂様におかれましては、いろいろとこのゆづきにお聞きになりたいことがございましょう。何なりと遠慮なさらずに、聞いてくださいませ。出来る限りお答えいたしましょう」
二階堂はしばらく黙ってゆづきを見ていたが、やがて口を開いた。
「じゃあ聞こう。何故俺をここに連れてきたんだ?」
「その質問には残念ですが、今はお答えすることができません。誠に申しわけありませんが。しかしその疑問については、そのうちにわかる時がくるでしょう。それまでしばしの間、お待ちくださいませ」
「では聞くが、お前達はいったい何者なんだ?」
「それについてはお答えできます。私達は……」
龍夜が突然声を荒げた。
「おいおい、ゆづき。こんな一度会っただけの公務員で国家権力の犬のおっさんになあ、俺たちの正体を明かしていいのかよ」
ゆづきが龍夜の顔をじっと見つめた。
その顔はまるで、母親が幼い我が子を優しくあやすような、そんな表情である。
「はい、龍夜様。それに関しましては、全く憂いはございません。龍夜様はこのゆづきが、他の誰よりも慎重で用心深い性格であることは、よくご存知のはずでしょう。それにいまさら言うまでもないことですが、私には〝視る〟力があります。そのことも含めて、この私が大丈夫だと判断して言っているのです。いらぬ御心配をなさらずに、このゆづきに全てをまかせていただけないでしょうか」
「……ああ、わかったよ。ゆづきがそこまで言うのなら、仕方がないな。おまえの好きなようにしていいぞ」
「はい、お言葉に甘えまして、そうさせていただきます。では二階堂様、お答えいたします。実は私達は、九龍一族です。龍の一族とも呼ばれております。そしてもう一つの名を、〝もののけ狩り師〟と、言います」
「もののけ狩り師?」
その時龍夜が、またいらぬ口を挟んできた。
「おい、もののけ狩り師、だってよ、おっさん。だっさいネーミングだろう。ほんと、だせえぜ。言ってて恥ずかしくなるぜ、まったく。でもってこの俺としてはだな、こんなださださじゃなくて、もっと気の利いたかっこいい名前に変えたいんだが。例えばおっさん、横文字なんか、かっこいいと思わないかい?
それも英語なんかじゃなくてフランス語だったりしたら、かっこいい上にお洒落でセレブだと、思わないかい? でも先祖代々使ってきた由緒ある名前だからだめだとゆづきが言うもんで、それで仕方なく……おいおいゆづき、そうにらむなよ。はいはい、わかりました。貝のように静かにしてますよ。九龍龍夜は、とってもいい子ですよ」
「おさわがせいたしました、二階堂様。申しわけありません。どうかお気になさらないでくださいませ。いつものことでございますから。こう見えても龍夜様は、美しい心の持ち主でございます。確かにその口は、少々悪いところがあるかもしれませんが、決して悪気はないのでございます。本当はとてもお優しい心をお持ちになっております」
「よせやい。体中がくまなく痒くなるぜ」
ゆづきは龍夜を見て軽く微笑むと、再び二階堂に視線を移した。
「では二階堂様。先ほどの話の続きでございますが、私達はもののけ狩り師として、そして九龍一族として千年もの長きにわたって、妖怪、もののけ、悪霊、あやかしといった悪しき存在と、戦ってまいりました。龍夜様とこの私はその末裔でございます。申し遅れましたが私の名は、九龍ゆづきと申します」
「二人は兄弟なのか」
「いいえ、兄弟ではございません。二人とも九龍の血を継ぐ者ではありますが」
二階堂が、ゆづきの右に置かれている刀掛けの上の日本刀を見た。
「それはわかった。ところで、その魍魎丸とは、いったいなんなんだ」
「はい、この者のことですね。者という言い方は、あまり正確とは言えませんが。お話しするととても長くはなりますが、申し上げましょう。魍魎丸はもともとは、龍夜様のおじいさまが造られたものです。この姿になる前は、四国のとある集落の土地神様と妖怪でした。最初はその土地で、ある妖怪が暴れたことから始まりました。
困り果てたその土地のものが、みなで古くからその地で信仰されていました土地神様に熱心にお願いしましたところ、土地神様がそのお姿を現わしになられて、妖怪を退治しに向かったそうでございます。ところが妖怪と土地神様が戦っている最中に、その二人といいましょうか二匹といいましょうか、とにかく体がくっついてしまいまして一つになってしまったそうです。
おそらく〝気〟が合ったのでございましょう。この場合の〝気〟とは、気持ちや人格などのことではございません。一方は悪しき妖怪で、一方は善なる土地神様なのですから、この双方の気持ちが合うわけがないのです。ところが、体のほうの〝気〟が合ってしまったのでございます。
気と言うものは人間とっても大変重要なものですが、神様や妖怪といったある意味において人間以上ともいえる存在にとっては、人間よりもさらに大事なものでございます。例えば人間は、たとえ気がなくなって死んでしまっても体は土になるまで残りますが、神様や妖怪などは気が無くなると、途端にその存在自体が消滅してしまいます。体を構成する上においてそれほどまでに重要な気が合ってしまったわけですから、妖怪と土地神様はひとつになってしまわれたのでございます」
「それで一つになって、日本刀になったのか?」
「いえ二階堂様、まだ先がございます。ふたつはひとつになりましたが、それでみなが救われたわけではございません。ふたつがひとつになったが為に、その力はより強力になりました。それも二倍になったわけではありません。お互いの力の相乗効果で、最初に比べて数倍もの力を持つようになりました。
そして土地神様の精神が勝っているときは、良かったのですが。なにせふたつの力は非常に拮抗しておりましたので、妖怪の心が勝るときがありました。そうなればより強力な力で、暴れることになるのです。人間も善と悪のふたつの心を持っているといいますが、そんななまやさしいものではございません。
なにせ完全な善と、そして完全な悪なのでございますから。困り果てた人々を、修行の旅で偶然通りかかった一人のもののけ狩り師が、お助けいたしました。その人が龍夜様のおじい様です」
「そして、魍魎丸になったと」
「いいえ、まだでございます、二階堂様。おじい様は最初、その怪物を退治しようといたしました。ところが怪物があまりに強力なものですから、今度は封印することにしたのです。そしていつものように自分の持っているひょうたんに、封印しようとしたのでございます。今までに幾多の悪しき者達を封印してきたひょうたんでした。
しかしこの怪物は今までの妖怪たちとは、その力が全然違っておりました。何十年もの長きにわたって数々の妖怪たちを閉じ込めてきたそのひょうたんを、内側から破壊しようとしたのです。このままではひょうたんが壊されてしまうと判断したおじい様は、急ぎ一振りの日本刀を作り、そのなかに怪物を封印したのです。それがこの魍魎丸です。一度お会いになったことがあるかと思いますが」
魍魎丸の中心部分が、わずかに紫色に光った。
「そうわしが魍魎丸じゃ。会うのはたしか二度目かのう、刑事さん」
口もないのに人間のようにしゃべる刀にむかって、二階堂が言った。
「確かに二度目だな。しかしこの年になって刀と会話することになるとは、全く想像してなかったが」
「おい刑事さんよ。刀、刀と気安く言うな。これでもわしは、もともとは強力な妖怪と力強い土地神が一つになった、この広い日本においてもまれにみる貴重で高貴な存在じゃぞ。もうちょっと敬わんかい。この未熟者めが!」
「これ、魍魎丸。もうそれくらいにしなさい」
「……」
「二階堂様、大変失礼をいたしました。それで日本刀に封印された魍魎丸ですが、刀から抜け出すことも刀を破壊することもできませんでしたが、その心ねは、最初はかわりませんでした。つまり善と悪との二つの心を持っていたのでございます。そこでおじい様が一日も欠かさず毎日気の通った念を送り、悪しき心のほうだけを消そうといたしました。
おじい様が数年間もの長きにわたって、毎日一心に念じ続けたおかげで、ほとんど土地神様の心だけが残るようになったのです。正義にあふれる強く美しい心です。ただし悪しき妖怪の心と言うかその性格の一部分が、少しばかりではありますが残ってしまいましたので、そのなんと申しましょうか……はっきり申し上げてしまえばその口だけは、先ほどのようにあまりよろしくない結果となってしまいました。その点におきましては、龍夜様と全く同じでございます」
「おいおいゆづき、それは違うぜ。俺は確かに他の人と比べるとほんのちょっとだけ口が悪いかもしれないが、そこのくそじじいみたいに、いじわるじゃあないぜ」
「なにをぬかす。このわしがいじわるじゃと? いじわるなのは、おぬしのほうじゃ」
「なんだとぉ、このくそじじい」
「おやめなさい、二人とも」
「……」
「……」
ゆづきにそう言われると、二人とも借りてきた猫のように、大人しくなる。
二人、いや一人と一匹とでも言ったほうがいいのかもしれないが、ともにゆづきには完全に尻にひかれているようだ。
二階堂にはそのやりとりが面白くてしかたがなかった。
笑いをかみ殺すのにかなり苦労していた。
ゆづきはしばらくの間、龍夜と魍魎丸を交互に見ていたが、やがて二階堂に目を移した。
「他に何かございますでしょうか」
「うーん、そうだな。重要な質問がある。それはここにいる龍夜とやりあった、表面上の姿形は人間の姿をしているあいつらは、いったいなんなんだ?」
「あやつらでございますか。あやつらは一言で言うと、吸血鬼でございます」
「吸血鬼だと!」
「はい二階堂様、吸血鬼でございます。今風に申し上げれば、ヴァンパイアということになりましょうか。全部で七人いたようでございますが、そのうちの三人は、龍夜様がすでに倒しております。ヨーロッパから来たようです。国籍もさまざまで、ヨーロッパではありますが、一人一人違う国で生まれた人間のようです。人間と言いましたが、もともとはみな人間であった存在でございます」
「吸血鬼ということはわかった。おそらく間違いないだろう。発見されたガイシャの体には血が一滴も残っていなかったからな。それで、あいつらはヨーロッパ人なのに、なんであんなにも流暢に日本語がしゃべれるんだ」
「それは日本人の血を吸ったからでございます」
「日本人の血を吸っただと?」
「はい、そうでございます。吸血鬼は人間の血を吸うと、その者の知識を得ることが出来るようです。この場合あくまで知識であって、その者の思い出とか記憶とかいったものではございません。おそらく血を吸った人間の記憶をいちいち自分の頭に取り込んでいたのでは、自らの記憶と交じり合って混乱をきたすために、自然とそういうふうになったのだと思われます。
そして血を吸った者のなかでも最後に吸った者の知識が、より強く記録されるようでございます。あやつらは全員日本に来て日本人の血を吸いました。最後に血を吸った人間が日本人なのです。ですからあやつらは自然と日本語を使っているのです」
二階堂の眼がきつくなった。
普段はどちらかといえば不真面目な彼が、真剣になっている。
その針のようなまなざしでゆづきを見た。
「やつらは全員日本人の血を吸っているのか。すると元は日本人で、今は吸血鬼になっている者がいるのか」
ゆづきが二階堂の鋭いまなざしに臆することなく答える。
「いいえ、それは心配におよびません。今のところそんな者は、誰一人いないようでございます。あやつらはヨーロッパで数百年にもわたって、人の血を吸い続けてきました。もちろん最初は一人でした。しかし聖騎士団と呼ばれている者たちにたおされた数名を加えましても、吸血鬼は全部で十人くらいかと思われます。
ただ数名の吸血鬼をたおすために、数百人もの聖騎士団の方々が、尊い犠牲となってしまいました。とても悲しいことでございます……話を元にもどしますと、あやつらは基本的には、空腹を満たすために人間の血を吸っています。食料というわけです。それ以外で誰かを仲間にするには、条件があるようでございます」
「その条件とは?」
「はい、その条件とは一言で言いますと、強い、と言うことでございます。例えば弱い人間を吸血鬼にした場合ですが、それでも普通の人間とは比べものにならないほどに強くはなりますが、吸血鬼としては弱い存在にしかなりません。あやつらの首領は独特の美学を持っているようです。
仮に弱い仲間だとしても、その数を増やせば増やすほど全体の力は強くなりますが、それを決してやらないのです。――弱い吸血鬼を生み出すぐらいなら組織が強くならなくてもよい ――と考えているようでございます。ですから首領自らが選んだ強い人間のみが、あやつらの仲間になっていくようです」
「被害者の死体は俺が知っている限り、今のところ一人しか見つかっていない。他の被害者は、いったいどうなった」
「あやつらは人間の血を吸った後、その〝精〟も吸いつくします。精もあやつらの食料というわけでございます。精を吸い尽くされた人間は、からからのミイラのようになってしまいます。そしてそれは持ち帰り燃やしてしまいます。まるで紙のようによく燃えるようでございます。証拠隠滅というわけです。まことに恐ろしいことでございます……
あやつらがそうするのは、いくらあやつらでも、死体が見つかって騒ぎが大きくなれば、いろいろと都合の悪いことがあるからだと思われます。そのためにあやつらの存在が公になったことは、一度もございません。ただ秘密裏にあやつらと戦っている組織が、一つだけございます。それが〝聖騎士団〟と呼ばれる人々です。私が〝視た〟ところによりますと、それは古くからカトリック教会に属する、非公式の組織のようでございます」
「見つかったガイシャの首のところに、犬の噛み跡があったが」
「特に強い人間を吸血鬼にしますと、ある種の変身能力をそなえるようでございます。大コウモリであったり、大型の猫科の動物であったりしますが、その中でも特別に強い力を持つ者は、狼に変身するようでございます」
「狼……か」
「はい、狼でございます。でも完全に狼になりきってしまうわけではございません。半人半獣のような存在になるようです。ただ獣人化した吸血鬼は、首から上は完全な獣の姿になるようでございます」
「それで大型犬、つまり狼の噛み跡があったのか」
「はい、そのとおりでございます」
今まで黙っていた龍夜が、口をはさんできた。
「でもよお、ゆづき。今まで俺と戦った三人は、狼なんかじゃなくて人間の姿のままだったぜ」
龍夜がそう言うと、ゆづきは深刻なまなざしで龍夜の顔をじっとみつめたまま黙り込んでしまったが、ややあってようやく口を開いた。
ただその口調はさっきまでと比べると、ずいぶんと弱く重々しい口調である。
「それは今までは龍夜様が、あやつらの中でも、弱きほうの三人と戦ったからでございます。残りの四人のうち視る力を持つ女を除く三人は、みな狼に変身することができます。三人とも人間の姿のままでも、今までの三人に比べればはるかに強うございます。そのうえに狼に姿を変えたならば、さらにその強さが増していくことでしょう。今後龍夜様がその者たちと戦ったならば、あやつらは最初から獣となって戦いを挑んでくることでしょう」
「……」
ゆづきは、無意識のうちに唇を強く噛んでいる龍夜をじっと見ていたが、やがて二階堂に話しかけた。
「他に何か聞きたいことはございますか、二階堂様」
「やつらをたおす方法は」
「テレビや映画などでは、十字架、にんにく、聖水、木の杭などといった物を使いますが、それは物語の中だけの話でございます。あやつらにそのようなものは一切通用いたしません。太陽の光だけは苦手なようでございますが、それはただたんに嫌っているだけでございます。あやつらは暗がりが好きなだけでございます。
太陽の光でその肉体が傷ついたり、ましてや死んだりするようなことは、全くありません。あやつらを倒す方法は、二つしかありません。魍魎丸がやったように、あやつらの力の源であるその血を全て吸い尽くしてしまうか、あるいは再生が不可能なほどまでに、その肉体を大きく破壊しなければなりません。そのどちらかのみで、あやつらを倒すことができるのでございます」
「切られて落ちた首が、まだしゃべっていたが」
「はい、首を切られたくらいでは、あやつらは死には至りません。もっと大きく体を損傷すれば、別でございますが」
「そうか。やはり人間とは根本的に違うようだな」
「はい、仮に人間が首を切られた場合のことを考えれば、その生命力の大きさの違いがわかるかと思われます」
「わかった。では、答えにくいことを聞くが、いいか?」
「はい、なんでございましょうか。ご質問の内容にもよりますが、出来る限りお答えしたいと思います」
二階堂が身を乗り出し、より大きな声で言った。
「では聞くぞ。吸血鬼どもはあと四人いると言ったな。そのうちの三人は狼になれるわけだ。つまり今までの三人より、少しは強いわけだな」
「少しではございません。これまでの三人と残りの三人では、その強さにかなりの開きがございます」
「やはりな。で、ここからが肝心なところだが、その三人をここにいる龍夜と魍魎丸で、倒すことができるのか?」
龍夜はおもわず二階堂を見た。
そしてゆづきを見た。
ゆづきはしばらく黙っていたが、やがて二階堂に言った。
「本当にお答えしにくいことをお聞きになるのですね、二階堂様。それは今まで以上に厳しい戦いとなると、申し上げておきましょう。首領を除く二人でさえかなりのものですが、あやつらの首領、この一連の出来事において全ての根源となる存在ですが、他の者とは比べものにならないほどの脅威だと思われます」
「その奴らの首領とは、いったいどんな奴なんだ」
「先ほど申し上げましたように、全ての源となった者です。仲間、というより下僕達と言ったほうがよろしいのですが、その者たちからは普段は伯爵様と呼ばれているようでございます。しかしもう一つの呼び名がございます。普段はあまりにも恐れ多くて下僕達でさえ口に出すのをはばかる、半ば封印された呼び名でございます。その呼び名は〝ドラゴンの子〟でございます」
「ドラゴンの子! ……だって」
龍夜が叫ぶような大声をあげた。
二階堂が思わず龍夜を見る。
その表情には明らかな驚きの色が現れていた。
ゆづきがゆっくりと噛みしめるように言った。
「はい、龍夜様。ドラゴンの子、でございます」
思わず中腰になっていた龍夜だが、やがてどたりと床の上に腰を下ろした。
そして力なくつぶやいた。
「ドラゴンの……子。……よりによって……ドラゴンの子……ってか」
二階堂が激しく首を振り、龍夜とゆづきを交互に見た。
「おいっ、いったいなんなんだ、そのドラゴンの子、とか言う奴は?」
ゆづきが努めて静かに答える。
「それに関しましては、いくら二階堂様でも、申し上げることはいたしかねます」
龍夜が、強く吐き出すように言った。
「ドラゴンの子は、ドラゴンの子さ」
二階堂は何も言わなかった。
いや言えなかった。
あのふてぶてしさを絵に描いたような龍夜が、尋常でなく動揺している。
そして表面上はあくまで静かながらも、その内面においては何かを押し殺して必死に耐えているように見える、十歳の少女であるゆづき。
その二人の雰囲気に完全に飲まれていた。
ややあって、何かを思い出したかのようにゆづきが言った。
「他に、何か質問がございますか、二階堂様」
「……いや、ない」
「そうですか。わかりました。誠にお手数をおかけいたしました……龍夜様、二階堂様を、お送りしてくださいませ」
「……わかった……おっさん、もうおうちに帰るぜ」
龍夜は立ち上がるとまだ座っていた二階堂の手を取って、大根でも抜くようにその体を引き上げ、有無を言わさず外に引っ張って行った。
後にはゆづきが一人残された。その黒い瞳は涙で濡れていた。
バイクが二階堂のアパートに着いた。
二階堂がバイクから降りると、龍夜は何も言わずにその場を走り去った。
二階堂はそのまま龍夜の後ろ姿を見送っていたが、やがて自分の部屋へと戻っていった。
洋館にある広く仄暗く、中世ヨーロッパの宮殿を模した部屋。
湿気に満ちた部屋に存在する優雅さや華やかさを隠す乾いた闇は、この世のものでない者の住処にふさわしい雰囲気をかもし出している。
男が独り黒いソファーに深々と座っている。
館の主だ。突然扉が開かれて女が入ってきた。リリアーナである。
「伯爵様、大変です」
「なんだ騒々しい。いったい何があった」
「あいつらの力が、変わりました」
伯爵の眼が大きく見開かれた。
「変わった。それはいったいどういうことだ。どう変わったと言うのだ。まさか、強くなったとでも言うのか?」
「それが全くわかりません。とても信じられないことですが、変わったということははっきりとわかるのですが、何がどうかわったのかは、私には何もわからないのです。しかしあいつらの中で何かが確かに、それも大きく変わりました。それだけは間違いありません」
「なんだと! リリアーナ。あいつらが変わったという事はわかるのに、なにがどうかわったのかが、まるでわからないと言うのか……こんなことは今まで一度もなかったことだな。実に由々しきことだ」
伯爵が何かを懸命に考えている。
そのまま心配そうに見ていたリリアーナが、おそるおそる声をかけた。
「どうしましょう。伯爵様」
伯爵がリリアーナをしっかりと見た。
「このままほおっておくと、事態がややこしいことになるやもしれぬ。そういう事にならないよう、何か早急に事を起こさねばなるまいな。そうと決まればこの事態の決着は、案外と早いかもしれぬぞ」
そう言うと伯爵は、にまり、と笑った。
それは氷のように冷たい笑みだった。
龍夜のバイクが、住みかである神社に戻った。
龍夜はバイクから降りると、そのままものすごい勢いで石段を駆け上がり、その勢いのままゆづきの前まで来て、尻からドンと大きな音をたてて座ると言った。
「ゆづき、お前に聞きたいことがある。正直に答えてくれないか」
「……はい、龍夜様」
ゆづきは返事をしたが、それは消え入りそうな声である。
龍夜がそれにかまわず続けた。
「言いにくいとは思うが、あいつらの残りとこの俺と魍魎丸、いったいどっちが強いのか、はっきりと答えてくれないか」
「……残りの三人は、先ほども申し上げましたように、今まで戦った相手より、数段強いようでございます」
「俺がカルロスともう一人……名前なんだったっけ? ……いや名前なんてもうどうでもいいが、その二人と戦う前に、この戦いがどうなるかとお前に聞いた時、お前は確か〝わからない〟と言ったな」
「はい、そのように申しました」
「なら今度の戦いは〝わからない〟のか〝だめ〟なのか、いったいどっちなんだ。正直に答えてくれないか」
「……勝負は時の運、とも申します。最初からどちらが勝つと決まっている戦いなど、ほとんどございません。それは相当の実力差があるときだけでございます。ただもう龍夜様もお気づきになっているとは思いますが、私の〝わからない〟という言葉には、いろいろな意味がございます」
「そう、その意味のことを、詳しく聞きたい」
「前に戦った二人ですが、その戦いはよほどのことがない限りにおいて、おそらく龍夜様が勝つと思っておりました。もちろん絶対に、ではありませんでしたが、龍夜様と魍魎丸の力が上回っているとは思っていました。ただ圧倒的と言うには、力の差がそれほどはありませんでした。
龍夜様たちが負けても、おかしくはありませんでした。ただ私が見抜けなかったことが、一つありました。龍夜様はあの場に相手が二人いるということを知っておりました。ところがあの二人はそのこと知りませんでした。二人は龍夜様が相手は一人だと思い込んでいる、と考えておりました。
これについて私は、視ることができませんでした。ですからあの戦いは私が思っておりました以上に、龍夜様が優位に戦うことができたのです。しかし残る三人ですが、おそらく最初に龍夜様がお相手をいたすのは首領を除く二人かと思われますが、その二人の力は正直に申し上げれば、龍夜様と魍魎丸の力を上回っております」
「……」
「ただ、圧倒的な実力差ではありません。ですから龍夜様たちが勝つ可能性もございます」
「じゃあ聞こう。正確に確立で言うと勝つ確立はどのくらいだ」
「確立ですか。それは……数学的なことは、正確にはわかりかねますが……おそらく一割くらいではないかと思われます」
「ふーん、そんでもってドラゴンの子は、その二人より強いわけね」
「はい、その二人よりさらに強い存在でございます」
「それじゃあ、そいつにこの俺が勝つ確立は、いったいどのくらいだ」
「……全くないわけではございませんが」
「ほとんどゼロに等しいと」
「……はい」
「わかった。言いにくいことを、よく正直に言ってくれた。悪かったな。さぞつらかったろうな、ゆづき」
龍夜はゆづきに体を寄せると、その体を優しく抱きしめた。
「はい、つろうございました、龍夜様」
ゆづきは龍夜に強く抱きついた。
そしてその大きな瞳から、大粒の涙を流し始めた。
「泣け。今は好きなだけ泣くといい」
「はい、龍夜様」
ゆづきは嗚咽を繰り返しながら、ひたすら泣き続けた。
龍夜はそのゆづきを、黙って抱きしめていた。
「事を起こすのですか? 伯爵様」
リリアーナが伯爵に聞いた。
「そうだ」
伯爵が答える。
「それは一体、どのような……」
「あわてるなリリアーナ。その前に必要な情報があるのだ」
「それはどんな情報ですか?」
「もちろん奴らのことだ。特にその住処に関する情報が、真っ先に必要だ」
「奴らの住処ですか。それならもうつきとめましたが」
伯爵の表情が変わった。
黒い怒りをそこに含んでいた。
「何故、それを早く言わないのだ!」
「いえ……いえ伯爵様、言おうと思っていたのです。奴らの変化を告げた後に、すぐ……」
伯爵の顔が少しだけ和らいだ。
ただ眼は変わらず、きつくリリアーナを見ている。
「そうであったか。なるほどな。それなら話が早いな」
「伯爵様、それともうひとつ」
「もうひとつ……なんだ?」
「実は……」
そういった後リリアーナは、前と同じく内緒話でもするかのように、伯爵の耳元で何かをささやいた。
二階堂はとりあえず署に戻った。
自分のデスクで椅子に重く身を預けていた。
彼は考えていた。
――なんと吸血鬼か。
同時に悩んでもいた。
――今回の事件は、おそらく迷宮入りだろうな。
まさか吸血鬼を捕まえて――こいつが犯人です――と引っ張ってくるわけにはいかない。
――署長にどう言ったものか。
捜査にはいろいろな事がある。
あれこれあるが署長は、最終的には二階堂が何とかしてくれると思っているようだ。
実際に二階堂は、今まで一つ残らず何とかしてきた。
二階堂は署に親密な者は一人もいない。
個性が強すぎて並の人間ではついていくことが出来ないからだ。
二階堂も並の人間には興味がなかった。
しかし署長だけは別だ。
上司という以前に何か惹かれるものがある。人間的に。
そんなことを考えていると、新人の婦人警官が二階堂を見ながらこちらに歩いてくるのが、目の端に写った。
彼が若くして結婚していたなら、これぐらいの娘がいても不思議ではないくらいの年齢だ。
彼女が何か言う前に二階堂が言った。
「なんだ?」
「二階堂さん。署長がお呼びです」
「……わかった」
婦人警官は軽く一礼をすると、背を向けた。
二階堂は天井を見上げた。
――こっちがごまかす前に、むこうから言ってきたか。
二階堂は椅子から力なく立ち上がると、ゆるりと歩き出した。
「入れ!」
ノックすると、間髪いれずに返事があった。
相変わらず力強い声だ。
「二階堂です。入ります」
「おお、待ってたぞ」
中にはいると、署長は両手をデスクの上に置き、身を乗り出しついでに首も突き出して二階堂を迎えた。
そして一度見たら二度と忘れられないほど見事にまんまるい眼で、じっと二階堂を見た。
そのギョロ眼には、凡人にはない眼力があった。
その眼を含めた彼の顔を一言で言うと、異相である。
それは子供が見たら、ひきつけを起こしそうなほどだ。
そして恰幅のいい体格に加え、心身ともにみなぎるエネルギーが人並み外れている。
エネルギッシュと言う言葉をそのまま人間に変換したら、こうなるのではないかと思えるような男だった。
おまけにキャリア組みとは思えないほど融通が利き、その懐も深い。
現場の苦労もよくわかっている。
――ここで二人っきりになるのは久しぶりだが、相変わらずだな
二階堂は軽く微笑んだ。
ゴマすりではなく、署長の顔を見るとついついそうなってしまう自分がいる。
署長が言った。
「早速だが、例の件はどうなった?」
「西野さやかの件ですか」
「他にないだろう」
「そうですね……」
署長が机を、どすん、と叩いた。
「前置きはいい。単刀直入に話せ」
「……実は、何もわからないのです」
「何もわからない? おまえがか?」
「はい」
「……」
署長は渋い顔をした。
沈黙の後、二階堂がやや小さな声で言った。
「あまりわからないことは時々ありますが、何もわからないというのは、実は初めてなんです」
「……そうだろうな」
「そこで考えたんですが。犯人はもう死んでる可能性があります」
「死んでるだと?」
二階堂は嘘を言った。
そして――自分のつく嘘は誰にも見抜かれることはない――と二階堂自身は思っていた。
「ええ、ここまで何も視えない、何も感じない、何もわからないとなると、もう死んでいる可能性が高いと思いますが」
「……そうか。もしおまえの言うとおりなら、仕方がない。……でも捜査はこのまま続けるんだ。わかったな」
「わかりました。でもこうなると、捜査というより、お守りになると思いますね」
「お守り? それは笹本のことか」
「はい」
「じゃ、お守りを続けてくれ。笹本は訳あっておまえにつけている」
「どんな訳ですか?」
「決まってるだろう。あの単細胞馬鹿正直は、このままではまるでものにならん。だからまるっきり正反対のおまえにつけた」
「……そうですか」
「とにかく、今すぐに笹本のお守り……じゃなかった捜査を続けろ」
「わかりました」
二階堂は一礼すると部屋を出た。
署長は二階堂が去った後もそのドアを鋭い眼で見続けていたが、やがてそろり視線を落とした。
――あいつ……。
彼はペン立てにささっているペンを、人差し指で軽くはじいた。
――どういう訳かはまるでわからんが、悪意があるともとても思えんが……この俺に初めて嘘をついたな。
署長は眠るように目を閉じた。
――今回があいつの初黒星になりそうだ。
その姿は、寂しがっている幼子のように見えた。
広く暗く、そしてヨーロッパの宮殿を思わせる豪勢で無機質な部屋。
大きな革張りのソファーに男が独り座っている。
そこに二人の男が入ってきた。
「何かご用でしょうか、伯爵様」
「何かご用でしょうか、伯爵様」
伯爵が座ったままで、二人を上目づかいに見る。
「お前たちを呼んだのは他でもない。あいつらのことだ。リリアーナがついに、あいつらの居場所をつきとめたぞ」
「それでは、あいつらを殺しに行くのでございますね、伯爵様」
「必ず仕留めてまいります、伯爵様」
二人は相変わらず交互にしゃべる。
伯爵が右手を上げて二人を制する。
「いや、仕掛けにいくのではない。あいつらをこちらに来させるのだ。あいつらの死に場所ははここだ」
「いったいどうなさるおつもりなのでございますか、伯爵様」
「なんなりとお申しつけください、伯爵様」
「それについてはリリアーナが説明する。リリアーナ、入ってまいれ」
リリアーナが入って来た。
リリアーナは伯爵と二人の男の間に立つと、二人の顔を淫靡な眼でゆっくりと見比べた後、言った。
「明日の夜、あいらの家は、十歳くらいの少女が一人きりになる。その子をここに連れて来ればよいのです」
「わかった、リリアーナ」
「おまえの言うとおりにしよう」
リリアーナが、二人に言って聞かせるように言う。
「間違いなく必ず連れて来るのです。ただし、決してその子を傷つけてはなりません。無傷で連れて来るのです。わかりましたか」
「わかった。そうしよう」
「なるほど。その娘を餌に、あいつらをここに呼び込むのだな」
伯爵がソファーからゆっくりと立ち上がる。
そして二人の男たちを見回した。
「おそらく明日が奴らとの最後の戦いとなるであろう。お前たち二人の力は、あいつらを上回っている。自信をもってあたれ。しかしくれぐれも油断をするな」
「わかりました、伯爵様」
「仰せのとおりにいたします、伯爵様」
「ではもう明日に備えるように。二人ともさがってよいぞ」
「はい、伯爵様」
「はい、伯爵様」
二人は深々と一礼をすると、素早く部屋を出て行った。
伯爵はそれを見とどけると黒ソファーに座り、リリアーナに顔を向けた。
「これでよかったのかな、リリアーナ」
「はい、これで全てが解決することでしょう」
「そうか、おまえがそう言うなら、間違いはないな」
「とにかく私はその少女に会ってみたいのです。私と同じ〝視る〟力を持っているという、その少女に」
「慌てなくても明日になれば、いやでも会えるというものだ。で、その少女に会って、いったいどうするつもりなのだ」
「あの二人が少年と仲間の妖怪を倒したならば、私がその少女の血をいたたぎます。その上で私の〝精〟を注ぎ込みます。それでよろしいですか、伯爵様」
伯爵の目が大きく見開いた。
「精を注ぎ込むだと? おまえの仲間にするのか」
「はい、そうです。もし仲間にしたならば、その少女が私のよき右腕になることは間違いありません。なにせこの私と同じ〝視る〟力を持っているのですから。このような人間には、めったなことではおめにかかれません。私とその少女、二人の力をあわせれば、これまで以上の成果が期待できることでしょう」
「そうか、そうなれば私も嬉しいぞ、リリアーナ」
「はい、伯爵様」
「明日が楽しみだな」
「はい、とても楽しみです、伯爵様」
「とにかく今夜は、明日に備えて早く休むとしよう。もう下がってよいぞ、リリアーナ」
「はい、伯爵様。それでは失礼します」
リリアーナは軽く一礼すると、部屋を出た。
伯爵はしばらく宙を眺めていたが、やがてぞっとするような氷の笑みを浮かべるとソファーに横になり、その目を閉じた。
二階堂は嫌な予感を感じていた。
それもとても強い予感である。
最初は、龍夜がドラゴンの子と呼ばれる存在に殺されてしまうからかと思ったが、やがてこの嫌な予感は、龍夜には関係が無いことに気がついた。
二階堂はゆるく椅子に座った。
一旦気持ちを落ち着かせると、そこでさらに神経を集中させる。
龍夜でないとしたら、悪い予感の対象が魍魎丸ではないかと考えたが、それも違うような気がする。
しかし二階堂が探れば探るほど、それは危険を意味する予感であると、確信が増していくばかりだ。
――危ない。
ある種の大きな危険が、二階堂の知っている誰かに迫っている。
それは間違いない。
しかし龍夜でも魍魎丸でもない。
――危ない。それは確かだ。間違いない。でも龍夜でも魍魎丸でもない。するといったい、誰が危ないというのだ?
二階堂はさらに意識を集中させた。
そのうちに何かが視えてきた。
――なるほど。そういうことか。
二階堂は椅子から立ち上がった。
ゆづきはいつもの日本間で、一人静かに座っていた。
正座をし、両手で印を結び、感覚を研ぎ澄ませていた。
ゆづきは探っていた。
その相手はもちろんドラゴンの子である。
――なんとしてでも、あやつの弱点を探り当てなければ。
その一点に集中していた。
ゆづきは徐々に、これまで以上にドラゴンの子を、その力を感じるようになっていた。
そして知れば知るほど、驚きと恐怖が増すばかりだった。
――強すぎます!
ゆづきがドラゴンの子を感じれば感じるほど、その力の強大さ、そして異様さを知る事になる。
なにしろその底がまるきり視えない。
強いと言うことははっきりとわかるが、あまりにも深すぎて、何処まで強いのかさえ掴みきれないでいるのだ。
一度はその強さをある程度わかっていたつもりだったが、それが完全に間違いであることに気がついた。
それはまるで、冥界へと続く果てしない地獄の底を覗いているかのように、ゆづきには感じられた。
――弱点どころではありません。あまりにも強すぎます!
ゆづきの心は、折れる寸前まで追い詰められていた。
しかしそれでもゆづきは、ドラゴンの子から自らの意識を離さなかった。
――なんとしてでも……なんとしてでも。
ゆづきの顔からは尋常でない汗がとめどなく流れている。
おまけにその小さな体が、小刻みに震えていた。
ドラゴンの子にむけて、自分の全ての意識を、全身全霊でぶつけていた。
――なんとしてでも……なんとしてでも……龍夜様のために!
外では強い風が吹き荒れていた。
その強風の中、神社の外で影が動いた。
影は二つあった。
大きな影と、小さな影。
その二つが静かに神社に忍びよっていた。
しかしゆづきは、近づくその影に全く気づいていなかった。
吹き叫ぶ風のせいもあるが、それ以前に、その意識の全てをドラゴンの子に奪われていたためである。
やがて二つの影は神社の前に立った。
その日、龍夜がちょっとした用事をすませて神社に帰ったころには、真夜中に近い時間となっていた。
前の戦いで龍夜が魍魎丸を投げた時に、魍魎丸の柄の部分が少し壊れてしまったので、なじみの刀匠のところへ行って直してもらっていたのだ。
龍夜と魍魎丸を何故かえらく気に入ってくれているその刀匠が、気を利かせて特に念入りに直してくれたのはありがたいが、そのおかげで家に帰るのが予定よりもずいぶんと遅れてしまったのだ。
龍夜はいつものように石段の下にバイクを停めて、いつもなら歩いて登る石段を、今日は二段とばしで駆け上がった。
ゆづきが心配していると思ったからだ。
そして庭に出て神社を見た時、龍夜の動きが止まった。
――ない?
なにもなかった。
いつもならここまで来れば、何もせずとも自然に、ゆづきの大きくて優しく暖かい気を感じることができる。
ところが今は、その龍夜の大好きなゆづきの柔らかい気が、全く感じられなかった。
龍夜は走った。
そのまま入り口の戸を蹴破って、ゆづきがいつも座っている部屋に入った。
ゆづきはやはり、そこにはいなかった。
龍夜はあたりを激しく見回した。
するといつもゆづきが座っている場所の後ろの壁に、一枚の貼り紙があることに気がついた。
龍夜は荒々しくそれを引きはがして読んだ。
そこには達筆な字で、こう書かれていた。
〈小僧へ。
娘はあずかった。返して欲しければ、我が屋敷に来るがいい。もし来なければ、娘の命はなきものと思え。
ドラゴンの子〉
『ドラゴンの子』。
そう書かれた文字を見た瞬間、龍夜の体の中に激しい怒りがこみ上げてきた。
龍夜は魍魎丸の柄を高々とさしあげると、大きく叫んだ。
「魍魎丸! 出て来い!」
「おう」
激しい紫の炎とともに魍魎丸が姿を現わした。
龍夜が再び叫ぶ。
「探せ! ゆづきの気を探せ!」
「わかった」
龍夜もある程度はゆづきの気を感じ取ることができる。
しかしその点においては、土地神と妖怪が合体した魍魎丸のほうが、一枚も二枚も上手である。
「まだか! 魍魎丸、早くしろ!」
「ちょっと待て。意識を集中させんといかんのじゃからな。早く見つけてほしくば、ちっと静かにしておれ」
龍夜は待った。
龍夜には一分が一時間にも感じられていたが、何も言わずに魍魎丸を高々とさし上げたまま、体をぴくりとも動かさずにいた。
魍魎丸を握る手に汗が浮き出してきている。
そしてその顔にも、粘っこい汗が滲み出ていた。
そして龍夜にとってはとてつもなく長い時間が過ぎたと思われた時、魍魎丸が叫んだ。
「見つけたぞ!」
「どこだ!」
「西じゃ。ここから真っ直ぐ西の方角じゃ」
「でかした。行くぞ」
神社を出て走る龍夜に、魍魎丸が言った。
「行くのはいいが、果たしておぬしとわしとで勝てるのかのう」
「行く。たとえ勝てないとしても、俺は行く。俺は死んでもいい。しかしゆづきはこの命に代えても、必ず助ける!」
「……わかった。仕方がないのう。おぬしがそう言うのならな。こうなれば、このわしもとことんつきあうぞ」
「じじいも死ぬかもしれないぜ」
「なに、おぬしとなら、わしはかまわんぞい」
「なに言ってやがる。こんなくそじじいと心中なんて、まっぴらごめんだぜ」
「ぬかせ、こいつめ」
龍夜はバイクにまたがった。
魍魎丸の刃が、そのすがたを消す。
龍夜は魍魎丸の柄をズボンの後ろのポケットに力強く刺しこむと、そのままヘルメットもつけずにバイクを急発進させた。
バイクは夜の闇の中を爆走した。
暗く湿っぽく、それでいて豪華な宮殿のような部屋。
男が独り大きな黒いソファーに座っている。
伯爵である。
突然女が入ってきた。リリアーナである。
リリアーナが言った。
「あいつらが来ます!」
「来るか」
「はい、もうすぐです」
「そうか、わかった。今すぐにヴォルフガングとクリフトフを呼んで来い」
「はい、伯爵様」
軽く一礼してリリアーナが部屋を出る。
伯爵はその後ろ姿をじっと見送った。
伯爵は冷たく笑っていた。
ややあって、二人の男が部屋に駆け込んできた。
「お呼びでしょうか、伯爵様」
「なんなりとお申し付けください、伯爵様」
伯爵はソファーから立ち上がり、二人を交互に強く指さしながら言った。
「よいか、二人とも。一度しか言わないから、よく聞くのだ。あいつらがもうすぐやって来る。決っして油断するな。最初から全力であたれ。そしてどんな手段を使ってもよいから、必ずやつらを一人残らず殺せ!」
「わかりました、伯爵様」
「必ず殺します、伯爵様」
二人は深く一礼をすると、走って部屋を出て行った。
一台の大型バイクが、中世ヨーロッパの宮殿のような大きな洋館の前に停まった。
龍夜である。
その長い黒髪が激しく乱れていた。
龍夜はバイクから降りると、手ぐしで軽く髪を整えた。
魍魎丸が言った。
「こんなところに、こんな大きなお屋敷があるとはのう」
「この屋敷は前にテレビで見たことあるぜ。名前は忘れたが、どっかのごりっぱな財閥の御曹司とやらの家だぜ」
「そうか、ちっとも知らんかったわい」
「ああ、働きもせず親の脛を出っ歯でかじりまくり、親の金で建てた屋敷を自慢げにマスコミに披露していたお坊ちゃまの屋敷だ。間違いない」
「さすればそのお坊ちゃまとやら、殺されてしまったのかのう」
「それはないぜ。そんなことをすれば、今頃日本中が大騒ぎになってるぜ」
「と言うことは……」
「おそらく今は奴らの仲間だ。ただやつらに住処を提供するだけの駒にすぎないぜ」
「そうか」
「ああっ、ぼんくらお坊ちゃまのことなんかは、どうでもいい。それよりゆづきだ。ここまでくればさすがに俺でもゆづきの気が十分感じ取れる。間違いなくこの中にいるようだな」
「ああ、おるわい。しかも無傷でいるようじゃな。心の気はさすがに少し乱れておるようじゃが、体の気は全く乱れておらんな」
「そのようだな。やつらゆづきを連れ去ったが、荒っぽい真似は一切しなかったようだな。その点だけはとりあえず感謝しておこうか」
「なにをのん気なことを言っておる。やつらそのうちに、ゆづきを殺すやもしれんぞ」
「そんなことは、わかってるさ。それじゃあ行こうか」
龍夜は屋敷の真ん中にある一番大きな扉、正面玄関と思われるところに向かって歩き出した。
魍魎丸が慌てる。
「おいおぬし、正面から行くつもりなのか?」
「どうせ俺が来るのは、わかっているさ。奴らがわざわざ呼んだんだからな。今さらこそこそしてもはじまらんぜ」
「まあ、そうじゃな。おぬしの言うとおりじゃ」
龍夜がズボンの後ろポケットから、魍魎丸の柄を取り出す。
「はなから全開でいくぞ。おまえももう出て来い」
柄の先から紫色の炎と共に、魍魎丸がその姿を現わした。
龍夜は魍魎丸を右手に持つと、正面玄関の前に立った。
そしてその大きな扉を押した。
扉は音もなくゆっくりと開いた。
龍夜は中に入って行った。
正面は広い吹き抜けのホールとなっていた
。中央に二階に上がる幅広の階段が見える。
右に一つ大きな扉があり、左に二つ小さなドアがあった。
「左だな」
龍夜が言った。
「そうじゃ」
魍魎丸が答える。
龍夜は左に向かって歩き出した。その時である。
階段の裏から、一人の男が出てきた。
いかにも高級品といった感じのスラックスに、これまた値だけは張りそうなド派手なトレーナーを着ていた。
それは龍夜には、人が服を着ているというよりも、人が服に着せられているように見えた。
「うわさをすればなんとやら。さっき言った脛かじりお坊ちゃまだぜ」
「あいつがそうか」
「ああ」
その御曹司は、顔色が少し青白いことを除けばごく普通の若い男に見えた。
そしてこちらに向かって静かに歩いてくる。
そしてその顔に恐ろしいまでに表情というものがない。
まるで蝋人形が歩いているようである。
しかし二人の前まで来たとき、その顔が一変した。
眼がつり上がり、それ以上に口の両端が限界を超えてつりあがる。
そしてその口からは、何か獣の唸りに似た声が漏れてきた。
――ああいうの、昔見たことあるぜ。
龍夜は思い出していた。
――あの時のあいつと、同じだ。
その昔、龍夜が八歳のことである。
山からの帰りに、見るからに異様な犬に出くわした。
歯をむき出して低く唸り、よだれをだらだらとたれ流しながら近づいてきた大型犬である。
それが狂犬病に冒され、飼い主をかみ殺した雄のセントバーナードであると龍夜が知ったのは、後のことである。
その犬に似ているのだ。
表情、特に眼が。
そして身体全体から発するオーラが驚くほど似ていた。
そこにあるのはただひとつ、野性的な狂気のみだった。
――同じ失敗を繰り返すわけには、いかないな。
あの時、龍夜は剣の修行のため、山に入っていた。
手には選りすぐりの硬い樫の木から作られた木刀を持っていた。
子供用ではなく大人が使うもので、祖父の代から三代にわたって受け継がれてきたものだ。
そして突然襲いかかってきたセントバーナードの眉間めがけて、龍夜は全体重を乗せた木刀を振り下ろしたのだ。
並の子供、いや並の大人でも勝負は明らかだ。
木刀一つでは狂犬病のセントバーナードに、まず勝つことはできない。
だが龍夜は並の八歳児ではなかった。
その一撃で龍夜より大きなその犬は地面にぶったおれ、二度と起き上がることはなかった。
しかし龍夜はあの時、無駄に犬を殺してしまったことを後悔していた。
――こいつは吸血鬼になりたてだ。だったら何とか助けられるかもしれない。
見れば御曹司はいつの間にか両手を床につけ、四つんばいになっていた。
「がるるるるるる」
顔は人間だが、声は畜生だった。
そして二本の手で床を強く叩き、同時に二本の足で床を蹴った。
人間ではとうてい不可能な高さまで飛び上がると、そのまま龍夜に向かってナイフのようにすとんと落ちてきた。
龍夜はほとんど動かなかった。
ほんのわずかだけ身体を左に避け紙一重のところでかわすと、御曹司が着地した瞬間、その首に向けて魍魎丸をすぱんと振り下ろした。
御曹司はそのままうつ伏せに床に倒れ、動かなくなった。
魍魎丸が言った。
「まだ息があるようじゃな」
「ああ、みねうちだ。気絶させただけだぜ……で、じじい、こいつの気だが、どんな感じだ? 特に今までの奴らに比べて」
「うむ、人間でない邪悪なものに操られてはおるが、まだほとんど人間の気じゃな。そこがいままでの奴らと、大きく違うようじゃな」
「やっぱりそうか。で、こいつは吸血鬼になってまだ日が浅い。親玉を倒したら人間に戻ると思うか」
「必ずとは言えんが、戻っても不思議ではないのう」
「そうか」
龍夜は再び、あの犬を思い出していた。
――あいつの代わりといっちゃあなんだが、こいつだけは助けてやりたいぜ。
龍夜はそのまま御曹司を見ていた。
その時である。
――来る
龍夜が飛んだ。
次の瞬間、何かがさっきまで龍夜のいた場所を、一瞬で駆け抜けた。
それはとてつもない速さで移動したかと思うと急に止まり、龍夜のほうに振り返った。
それは狼であった。
いや正確には狼ではない。
そいつは首から上は完全に狼となっていた。
しかもその頭は通常の狼よりもひとまわりは大きものであった。
しかし顔以外の裸の上半身は、狼と言うよりほどんど人間と言ってよい姿である。
ただ人間と大きく違うところがひとつあった。
それは全身に濃い灰色の深い毛がはえていることだ。
そしてその体の中でも、胸板の厚さと首と肩まわりの筋肉の発達が、尋常ではなかった。
それは人間がいくらボディビルで鍛え上げたとしても、これほどの筋肉を身につけることは、到底不可能であろうと思えるほどの筋肉の量である。
下半身には黒い皮のズボンをはいていたが、その上からでも上半身と比べると、ほっそりとしていることが見てとれた。
その足の丸みは人間の足に近い膨らみ方をしていたが、その関節の曲がり方は、明らかに四足動物の後ろ足のそれである。
そして何よりその身長が、ゆうに二メートルは超えていた。
それほどの巨体でありながら、先ほどは疾風のような速さで龍夜の横を駆け抜けて行ったのだ。
そしてその巨大な狼の右手には、一振りの剣が握られていた。
それは西洋流の両刃の剣で、それもバスタードソードと呼ばれている剣である。
バスタードとは私生児を意味する。
刺突型の剣と切斬型の剣との両方の特性をもち、雑種、混血の剣ということからその名がついた。
名が示すとおり両手でも片手でも使用でき、斬るにも突くにも適している。
それだけに自分の手足のように使いこなすにはかなりの熟練を要するが、もし使いこなすことが出来れば、これほど実践的な武器は他に無い。
前に戦ったカルロスと言う男が使った大鎌とは対極にある武器である。
それを構えて狼男が言った。
「やはり弱い人間を吸血鬼にしても、戦力としては役に立たないようだな。伯爵様のおっしゃるとおりだ」
「出やがったな化け物」
「おうっ、我が名はヴォルフガング。きさまとあい交えること、楽しみにしていたぞ。小僧、神妙に勝負しろ!」
龍夜がその半獣半人の男を鋭い眼で見据えた後、にやりと笑った。
「一対一でか」
「一対一だと言いたいところだが、もうわかっているだろう。もう一人いることを」
「うん、僕ちゃん、それちゃんと知ってるよ」
「こいつ、ほんとにふざけた野郎だ。その減らず口、きけないようにしてくれるわ。クリフトフ、出て来い!」
その声に答えるように、上から何かが音もなく落ちてきた。
そして亡霊のようにふわりと移動し、龍夜の後ろに立つ。
ヴォルフガングの立っている位置とは真反対の方だ。
そいつの姿かたちはヴォルフガングとほぼ同じだった。
ただわずかばかりだがヴォルフガングに比べると、体が全体的に丸みをおびている。
人間で言うと、やや小太りといったところか。
そしてさらに違うところは、その身長である。
ヴォルフガングと比べてかなり低く、仮に日本人の女性と比べたとしても、低いほうにあたるくらいの身長しかなかった。
そしてそいつは右手にはモルゲンスタイン、左手にはマン・ゴーシュを持っていた。
モルゲンスタインはモーニングスター(明けの明星)とも呼ばれている武器で、鉄の棒の先に無数の棘がはえた鉄球がついている武器である。
相手の体にあたれば棘が肉にささり、同時に鉄の玉で骨を砕くというしろものだ。
そして左手のマン・ゴーシュは、龍夜にとってはさらに注意を要する武器である。
基本的には鋭利な刃先で相手を貫く短剣であるが、刃のつけねの両側に、日本の十手の根元にあるような敵の剣を受け止める特殊なくぼみが、左右に二つついている。
敵が下手に切りつけてそのくぼみに刃先が入れば、そのままひねって相手の剣をへし折ることができるという、異形の武器だ。
使いこなすには、双方ともにバスタードソードと同様、かなりの熟練を要する武器である。
しかしクリフトフと呼ばれるその男は、それを右手と左手に一つずつ持っているのだ。
龍夜が二人を交互に見た。
「前回に引き続き、あいも変わらずまたデコボココンビかい。しかし体力勝負の前の奴らと違って今回は、二人とも構えが見事にさまになっているな。どう見ても、強ええぜ。こりゃまいったなあ。勝つのはそうとう厳しいかも」
魍魎丸が言った。
「龍夜よ。人間はどうせみな、一度は死ぬんじゃから。でもその前に、やることはちゃんとやっとかんとのう」
「たまにはいいこと言うぜ、くそじじい。ほんと、そのとおりだぜ。ここは当たって砕けろだ。思いっきり気合入れて行くぜ!」
そして龍夜は、魍魎丸にだけ聞こえるように、小さな声で言った。
俺の考えていることは、もちろんわかっているよな。チャンスは一度しかないぞ。失敗すれば二人ともあっさりあの世行きだぜ。くれぐれもタイミングを間違えるなよ――
魍魎丸が答える。
おう、わしにまかせとけ――
龍夜は体をクリフトフの方にむけた。そして走った。
「クリフトフ、行ったぞ」
「まかせろ」
クリフトフはモルゲンスタインとマン・ゴーシュを構えなおした。
――さて、どうくる。
基本的には、マン・ゴーシュで魍魎丸を受け止めた後、マン・ゴーシュをひねってその刃を折り、それと同時にモルゲンスタインを龍夜の頭に叩き込むのが定石である。
決まれば龍夜と魍魎丸を同時に倒すことができる。
しかしクリフトフは考えた。
――あの小僧は、すでに仲間を三人も殺している。それも自分は何のダメージを受けることなく。身体能力はもちろんのこと、その剣術の腕の方もなかなかたいしたものだ。あいつならそれくらいの戦術など百も承知だろう。
ヴォルフガングはしばらく走る龍夜を黙って見ていたが、ふと勝機を感じ、龍夜に向かって走った。
龍夜がクリフトフとやりあっているその隙に、後ろから攻撃をしかけようと考えたからである。
龍夜は魍魎丸を上段に構えると、真っ直ぐにクリフトフに突っ込んで行った。
そしてそのまま魍魎丸を、クリフトフの頭上めがけて思いっきり振り下ろした。
――なんだと、バカな。いや、バカかこいつは。
クリフトフはマン・ゴーシュで魍魎丸を受けた。
魍魎丸はマン・ゴーシュの刃上を火花を発しながら滑り、根元にあるくぼみの中にすぽりとはまった。
と同時に、龍夜が魍魎丸でマン・ゴーシュを力強く押した。
マン・ゴーシュは魍魎丸に押されかけたが、クリフトフが踏ん張り、魍魎丸を下から力いっぱい押し返した。
一瞬、龍夜が魍魎丸を押す力とクリフトフがマン・ゴーシュを下から突き上げる力が、同じとなった。
――今だ!
クリフトフはマン・ゴーシュをひねって、魍魎丸の刃を折ろうとした。
それと同時にモルゲンスタインを龍夜の頭をめがけて横殴りに振った。
次の瞬間、魍魎丸がマン・ゴーシュを押す力が、突然なくなった。
マン・ゴーシュを下からめいいっぱい押し上げていたクリフトフの体が、マン・ゴーシュとともに軽く浮いた。
下を向いたクリフトフの目の端に魍魎丸が見えた。
それは刀の柄の部分だけとなっていて、刃の部分が完全に消えていた。
龍夜はクリフトフと逆に、マン・ゴーシュを押していた魍魎丸の刃がなくなったために、その上半身が前のめりに倒れていった。
そしてクリフトフより身長が高い龍夜の頭が、クリフトフのあごの下まで下がってく。
クリフトフが力強く振り回したモルゲンスタインが、龍夜の頭上をかすめて空しく通りすぎた。
その時クリフトフの目の下で、紫色の光が強く輝いた。
次の瞬間、クリフトフの腹を激痛が襲った。
――なにっ?
見れば、さっきは完全に消えていたはずの魍魎丸の刃が再びその姿を現わし、クリフトフの腹を真っ直ぐ貫いていた。
――しまった!
クリフトフは気がついた。
自分の油断をつかれたことを。
マン・ゴーシュの使い手にとって一番隙が出来る時、あるいは喜びに体が震える瞬間は、敵を倒した時でもなく、相手の武器をへし折った時でもない。
それはマン・ゴーシュで相手の刃物を完全に捕らえた時なのだ。
クリフトフはリリアーナの水晶玉を通して、龍夜がカルロスとドウシャンの二人を相手に戦っているのを見ている。
その時、魍魎丸の刃の部分が現れたり消えたりするのを、その目でしっかりと見ていた。
――あの奇々怪々な武器には、十分注意をはらわなければならない。
そう心に強く刻んでいたはずだった。
ところがマン・ゴーシュで魍魎丸を捕らえた瞬間、そのことを完全に忘れてしまったのだ。
魍魎丸が言った。
「あとがつかえているんでのう。さっさとに吸わせてもらうぞい」
その言葉のとおり魍魎丸は、クリフトフの血を全て一気に吸いとった。
龍夜が素早く魍魎丸を引き抜く。
どたりと倒れたクリフトフの体は、数瞬後真っ白い灰へと変化していった。
龍夜は振り返り、猛スピードで迫り来るヴォルフガングに備えて、魍魎丸を構えなおした。
龍夜は思った。
――やったぞ、うまくいったぜ。これで残るはあと一人だ。
次の瞬間ヴォルフガングが龍夜に追いつき、バスタードソードを両手で持ち、全体重を乗せて振り下ろしてきた。
「きさま! よくもクリフトフを」
龍夜がバスタードソードを魍魎丸で受ける。
ガツン
龍夜が予想していた以上の大きな音がした。
そして龍夜の体は振り下ろされたバスタードソードの衝撃に押され、上半身が後方に流れた。
龍夜はバランスを崩し、後ろに倒れそうになった。
そこをヴォルフガングがバスタードソードで、たて続けに攻撃をしかけてきた。
その動きは龍夜には、剣術というよりもなにかしらの舞踊を踊っているかのように見えた。
見ようによっては、一級の大道芸人が道具を使って見せるパフォーマンスにも、見えなくもない。
ヴォルフガングはバスタードソードを右手、左手、両手と目にも止まらぬ速さで次々と持ちかえながら、右から左から、上から下からと矢継ぎ早に剣を振ってきた。
おまけに時折不意に、突きも混ぜてきている。
龍夜はその連続攻撃を、魍魎丸で受けることで精一杯だった。
崩れかけている体のバランスを立て直す暇など、まるでなかった。
反撃など論外である。
後方に倒れるぎりぎりの状態で、さがりたくもないのに徐々に後ろに後退し続けている。
まさに防戦一方であった。
――これはものすごく、やばいぜ。このままではやられてしまう。
そう不安がよぎった龍夜は、ふとあることに気がついた。
それは自分がクリフトフと同じ過ちを犯してしまっていたことである。
クリフトフの最大の敗因は、マン・ゴーシュで魍魎丸を捕らえた瞬間に喜びのあまりに心に隙が出来たことだが、龍夜はそれと同様の過ちを繰り返していたのだ。
一対二で戦う時、一人しかいない戦力の側の人間が一番気を抜くのは、二人を倒した時ではない。
二人のうち一人を倒した時である。
クリフトフを倒した瞬間ほんの一瞬ではあるが、龍夜の心の中にわずかな隙ができた。
そのごく小さな隙を、今目の前にいるヴォルフガングにつけ込まれたのだ。
――自業自得かい。とかなんとか言ってる場合じゃないぜ。このまま好き放題に攻撃されているだけじゃあ、いつかは本当にやられてしまう。
一流のダンサー、あるいはパフォーマーのように素早くそして華麗に動くヴォルフガングを見て、龍夜は考えた。
――こうなったら、一か八かしかない。失敗したら確実に殺されるが、このままでも結果は同じだぜ。
龍夜はヴォルフガングがバスタードソードを両手で上段に構えた瞬間、力を込めて上半身を強く固めた。
そして下半身のほうはそれとは逆に、全ての力を抜いて脱力状態にした。
そこへヴォルフガングがバスタードソードを力強く振り下ろして来る。
バスタードソードと魍魎丸が激しくぶつかった。
次の瞬間、ヴォルフガングが我が目を疑う事が起きた。
ヴォルフガングはバスタードソードが魍魎丸で受けられるところは、はっきりと見た。
ところがその直後、龍夜の姿が一瞬にして目の前から消えたのだ。
――なにっ?
次にヴォルフガングが見たものは、二本の棒のようなものが、下からせり上がってくるところである。
ヴォルフガングは一瞬、それがいったいなんであるのか、まるでわからなかった。
そしてそれが龍夜の二本の足が逆さまになっているものだと気がついた時には、すでに龍夜が魍魎丸を構えた状態で目の前に立っていた。
――おのれっ小僧、こしゃくなまねを。
この時になってはじめて、ヴォルフガングは龍夜がどう動いたのかがわかった。
下半身の力を全て抜いていた龍夜は、バスタードソードの振り下ろされた力を利用して、床に向かって背中から一気に倒れた。
そしてそのまま背中、肩、頭を使って体を一回転させて、ヴォルフガングの前に再び立ったのだ。
龍夜が言った。
「ふう、これでやっと最悪の状態は、まぬがれたな。危なかったぜ」
「おい、小僧、なかなかあじなまねをしてくれるじゃないか」
「へえーっ、俺が今何をやったのか、もう気がついたのかい。あんたやっぱり、才能あるわ。でも俺が一回転している間は、さすがにそれがわからなかったようだな。あの瞬間に見抜かれたら、何も出来ずに一方的にやられていただろうな。あんたの背が高くてほんと助かったぜ」
身長が高い者が自分より低い者を攻撃するときは、やや見下ろすかっこうになる。
しかしそれでも目の前の相手が瞬時に床に倒れればそれを目で追うことは、背の低い者と比べればやはり難しいであろう。
身長のある者は背の低い者より、下方に対して基本的に死角が大きいからである。
龍夜はそのことを言っているのだ。
ヴォルフガングは龍夜の言った意味を、全て瞬時に理解した。
――うれしいぞ、うれしいぞ、この小僧。ここまでこの俺を楽しませてくれるなんて。思ってもみなかったぞ。
ヴォルフガングの全身の血が、熱くたぎっていた。
彼は遠い昔を思い出していた。
吸血鬼となるその前は、ヴォルフガングは彼の祖国のドイツにおいて、王からも国民からも厚い信頼を受けていた地位も名誉もある騎士だった。
それは勇者と呼ばれて、生きる伝説となっていたほどだ。
敵と正々堂々と戦い、正々堂々と倒す。
一度もおくれをとったことはなかった。
騎士としての自分に大きな誇りを持っていた。
そのナイトの誇りが何百年かぶりに、今よみがえって来ている。
――こいつとは剣だけで、フェアな勝負を貫きたいものだ。
しかしヴォルフガングは伯爵から、〝どんな手段を使ってもいいから、やつらを必ず殺せ〟と命を受けていた。
今の彼の主は、残念なことに祖国ドイツの王ではない。
伯爵が今の彼の主なのだ。
不幸にして吸血鬼となった者は、伯爵に逆らうことが出来ない心と体になってしまうのである。
それがヴァンパイア一族の犯すことの出来ない掟なのだ。
彼の心の中にある種の悲しみのようなものが芽生えはじめていた。
それは彼が吸血鬼になって以来、久しく感じたことのなかった人間らしい感情である。
しかしヴォルフガングは鉄の意志で、その湿った心を振り払った。
そして龍夜の目を鋭い眼で見据えた。
「おい小僧、お前は本当にたいした奴だ。尊敬に値すると言っても、決して過言ではない。私のこれまでの人生においても、お前が最高の剣の使い手だ。お前のような奴とは正々堂々と剣だけの勝負がしたかった。しかし伯爵様は言われたのだ。どんな手を使ってもお前を殺せと。私は残念なことに伯爵様の命令には逆らえない。どんな手を使っても、剣以外の手段を使ってでも、お前を必ず殺す。……どうかこんな私を許してくれ」
龍夜は少なからず驚いた。
仮にも吸血鬼と呼ばれる存在が、こんなにも真っ当なことを言うとは想像もしていなかったからである。
しかもこの男は今、剣だけではなくそれ以外の手を使ってでも龍夜を殺すと、自ら言っているのだ。
剣だけでもよく言って龍夜と同等、へたをすれば龍夜より勝っているかもしれないのに、その上に剣以外のなにかの攻撃をプラスすると宣言しているのである。
――こいつはおそらく吸血鬼になる前は、ひとかどの人物だったのに違いない。その男が剣以外の何かを使うと、わざわざ敵であるこの俺に言っている。しかし剣以外の、いったい何を使うと言うのだ。
龍夜にはわからなかった。
見たところバスタードソード以外の武器はどこにも見当たらない。
隠剣のようにどこかに隠している可能性もあるが、いくら探してもやっぱりその様なものは何も目にとまらなかった。
「では小僧、まいるぞ」
龍夜がそんなことを考えていると、ヴォルフガングが言った。
そしてバスタードソードを構えて龍夜にむかってきた。
それは先ほどと同じく、惚れ惚れするほどの見事な連続攻撃である。
すでに下半身が安定している龍夜だったが、それでもヴォルフガングの攻撃をしのぐだけでせいいっぱいであることに、なんら変わりはなかった。
――くそっ、さっきよりはずいぶんましにはなったが、それでもやっぱりそう簡単には反撃の隙を与えてくれそうにはないな。しかしこいつこの状態から、いったい何をどう仕掛けるつもりなんだ?
ヴォルフガングは両手でバスタードソードを上段に構えると、力強く振り下ろしてきた。
龍夜が魍魎丸でそれを受ける。
二人の動きが一瞬止まった。
その時である。
なにかが横から飛んできて、龍夜の左側頭部に当たった。
強い力だ。
龍夜はその勢いに負けて、よろけて再び体のバランスを崩した。
そこへヴォルフガングが待ってましたとばかりに、バスタードソードの連続攻撃を仕掛けてきた。
龍夜は下半身のバランスをくずしたまま、ヴォルフガングの嵐のような攻撃を受け続けた。
――なんてこった! せっかく捨て身で体勢を整え直したのに、あっと言う間にもとに戻っちまった。これはまじでやばいぜ。……いやそんなことよりも、さっき俺の頭を横から叩いたもの。あれはいったいなんだったんだ。
そう考えながらも防戦一方の龍夜に対して、今度は右側頭部を何かが強く叩いた。
龍夜はさらにバランスを崩して、床の上に倒れた。
「死ね!小僧」
ヴォルフガングが龍夜にむかって、バスタードソードを突きたててきた。
龍夜は床に転がったまま体を横に回転させて、その刃をなんとか避けた。
そしてそのまま床の上を素早く転回し、その体勢のまま片手で床をはじくと、すっくと立ち上がった。
龍夜は少し離れた場所で硬い石の床に突き刺さったバスタードソードを抜いているヴォルフガングを見た。
それは一見前と、どこも変わっていないように見える。
しかし一つだけ前とは大きく変わっているところがあった。
それはヴォルフガングの尻尾である。
通常狼の尾はそれほど長くはない。
ヴォルフガングの尾も最初はそれほど長くはなく、とても攻撃に使えるようなしろものではなかった。
ところが今のヴォルフガングの尾は、まるでムチか何かのように長く延びていた。
今のその尾の先端は、ヴォルフガングの頭の上よりかなり高いところにある。
そしてその尾の先端が、ゆらゆらと左右に揺れていた。
「尻尾か! この狼野郎」
その龍夜の声を聞いたヴォルフガングが笑った。
顔が狼なのでその表情はわかりにくいはずなのだが、その時のヴォルフガングは確かに笑っていた。
「そうさ小僧。この俺には剣での攻撃に加えて、尾での攻撃が可能だ。そのことが何を意味するかは、おまえなら言わずともわかっているだろう。もう遊びは終わりだ。決めさせてもらうぞ。覚悟しろ!」
ヴォルフガングが向かって来た。
相変わらずのバスタードソードによる連続攻撃であるが、龍夜はやはり受け専門で、反撃の機会をつかめないままであった。
――くそっ。こんなことしているうちに、尻尾の攻撃が必ずまた来る。
攻撃はすぐさまやってきた。
ヴォルフガングの太く長いその尾は、今度は龍夜の脳天めがけて、真っ直ぐに振り下ろされた。
それは先ほどとは比べ物にならないほど強烈な一撃だった。
龍夜の身体に電気が稲妻のように走り、その全身がしびれる。
龍夜の手から魍魎丸が離れて床に落ちた。
「とどめだ!」
ヴォルフガングがバスタードソードで突いてきた。
龍夜はまだ思うようにならない体をなんとか回転させてその刃をかわしたが、避けるのでせいいっぱいだった。
龍夜は回りながら床にうつ伏せに倒れた。
「龍夜!」
床に落ちていた魍魎丸が飛んだ。
そしてヴォルフガングの体を貫こうとした。
しかしその魍魎丸を、十分にしなっていたヴォルフガングの尾が、上から垂直に襲ってきた。
「ぐわっ」
魍魎丸は激しく床に叩きつけられた。
「くそっ」
魍魎丸は再び飛ぼうとした。
しかし、するりと伸びてきたヴォルフガングの尾が、すばやくその柄に巻きついた。
「くそっ、離せ! こいつめ」
魍魎丸は必死で暴れたが、ヴォルフガングの尾が柄にしっかりと絡みつき、全く動くことが出来なくなっていた。
「いくら暴れても、無駄なあがきだ。おまえは後でゆっくりと始末してやる。まずはこの小僧からだ」
ヴォルフガングはそう言うと、まだ不自由な体ながらもなんとか起き上がろうとしていた龍夜の背中の上に、どすん、と馬乗りになった。
「おまえは本当にたいした奴だった。おまえとは剣のみで真剣勝負をしたかったと、心の底から思ったぞ。しかしこれも運命だ。しかたがない」
ヴォルフガングはバスタードソードを両手で逆手に持つと、それを龍夜の背にむけて構えた。
「それじゃあ小僧。今度こそ、死ね!」
その時である。
バン、バン、バン、バン、バン、バン
重く乾いた音が、連続してホールじゅうに響きわたった。
「なにっ?」
ヴォルフガングはその体のバランスを崩した。
そして倒れそうになりながらなんとか踏ん張っているヴォルフガングの腰と龍夜の背中との間に、隙間ができていた。
――今だ!
龍夜は右手で床を強く叩いた。
龍夜の体はくるりと反転し、仰向けとなった。
その時すでに、龍夜は両手を構えていた。
その拳は軽く握られ、両手の人差し指だけが、ぴんと真っ直ぐ伸びていた。
そして龍夜は上半身を起こすと同時に、その両の人差し指をヴォルフガングの両目の中に、思いっきり突っ込んだ。
「ぐわーーーっ!」
龍夜の二本の人差し指は、根元まで完全にヴォルフガングの目の中に入っていった。
そしてその指先は、ヴォルフガングの脳にまで達していた。
魍魎丸を捕らえていたヴォルフガングの尾の力が、すっと抜けた。
「今じゃ! きさま、よくもやってくれたな」
魍魎丸は飛んだ。
そしてヴォルフガングの背中から腹へと突き抜けた。
その時魍魎丸の刃先が、龍夜の右頬をかすめた。
傷は浅かったが、龍夜の頬から血が少し流れだしている。
――おいおい、このままじゃ魍魎丸が、俺の血まで吸ってしまうぜ。
龍夜が指を抜き、頭を左にかわす。
「死ね!」
魍魎丸はそう叫ぶと、ヴォルフガングの血を一気に吸った。
クリフトフの血を一気に吸ったのは、後ろからヴォルフガングが迫ってきていたからであったが、今回は腹いせに一気に吸ったのだ。
血を吸い尽くされたヴォルフガングは、やがて灰の塊となった。
その灰が崩れて魍魎丸とともに龍夜の体の上に落ちてきた。
龍夜は魍魎丸を右手で持つと立ち上がり、残った体の灰を左手で払いのけながら、魍魎丸に向かって怒鳴った。
「このバカ! くそじいい! おまえもう少しで、俺の顔面を貫くところだったぞ。ちっとは気をつけろ!」
「すまん、すまん。少しばかし、慌てていたもんでのう」
「今度やったら、ただじゃすまないからな。わかったか!」
「わかった、わかった。悪かった。そう怒るな」
「本当に気をつけろよな。……で、それはとりあえずさておいて」
龍夜は首だけを動かして、横を見た。
そこには男が一人立っていた。その手には拳銃が握られている。
二階堂進である。
「やっぱり、あんたか」
二階堂が龍夜に歩み寄ってきた。
「ああ俺だ。危ないところだったみたいだな」
「おおっ、うそ、大げさ、まぎらわしい抜きで、危ないところだったぜ。あんたが助けてくれなかったら、こんな色気のないくそじじいと心中事件になっていたところだ。礼を言うぜ。本当にありがとう……おいこら魍魎丸、こちらにおられるお方を、どなたとこころえる。恐れ多くもおまえの命の恩人だぞ。黙ってないでおまえも、さっさとお礼を申し上げないか」
「わかった。確かに命の恩人じゃ。二階堂さんとやら、心よりのお礼を申し上げる」
「よしよし、魍魎丸はとってもいい子だ……で、おっさん、こんなところに何しに来たんだ」
二階堂は苦笑いした。
「命の恩人になっても、おっさんは変わらんのか……まあそんなことはいいとしてだ、カンだよ、カン」
「これは聞くだけやぼだったな。さすが異能力者だ。俺の身に危険が迫っていることを、あっさりと察知したわけだな」
「おまえじゃない」
「へっ? 何だって。俺じゃないってか」
「なんじゃあ、わしかあ。残念じゃったのう、龍夜よ。刑事さんはおまえなんかより、わしの方が好きみたいじゃな」
「魍魎丸でもない」
「なんじゃと、わしじゃないじゃと」
「だったら、一体誰だい?」
「残るは一人しかいないだろう」
龍夜と魍魎丸が同時に言った。
「ゆづきか!」
「そうだ、ゆづきだ」
「おっさんはゆづきの身の危険を感じて、こんなへき地の山奥深いド田舎の字大字まで、わざわざやって来たって言うのか」
そう言った龍夜は、二階堂には何故かとても嬉しそうに見えた。
「そうかあ、そうだったのかあ。おっさんやっぱり俺の思ってたとおり、ロリコンだったんだな。危ねえ、危ねえ……ちょっとお、冗談だよ。そんなににらむなよな。そんなことより、とにかくこれはものすごくいいことを聞いた。おっさんはゆづきの危機を感じ取れるというわけか。いやあーっ、ほんとによかったぜ」
龍夜がぽんぽんと二階堂の肩を叩く。
二階堂が聞いた。
「何がそんなに、よかったんだ?」
「まあ、その話の続きは後だ。今はゆづきを助けるのが先だ」
「で、そのゆづきは何処にいる?」
その二階堂の言葉を聞いた龍夜は、なぜかひどく驚いているように見えた。
ややあって龍夜が言った。
「……おっさん、ゆづきの危機は感じ取れるのに、ゆづき自身の気は感じ取れないのかい?」
「そうだが……それがどうかしたか?」
「あっちゃーっ、まったくなんて異能力なんだ」
「なにが、あっちゃーっ、だ。いったい何をそんなに驚いている」
魍魎丸が口をはさむ。
「まあ言ってみれば、一流の懐石料理はうまく作れるが、カップラーメンはうまく作れない、みたいなもんじゃな」
龍夜が続いた。
「そうそう、マウンテンバイクの競技で優勝するのに、ママテャリはうまく乗れない、みたいなもんだな」
「そういうものなのか」
「そういうものじゃ」
「うん、そういうもんなんだ……まっ、それはそうとして、俺も魍魎丸もおっさんと違ってゆづきの気は感じられるぜ」
「でもおぬしとわしとでは、ミサイルと竹やりくらい違うぞい」
「うるっせえなあ、じじい。こんだけ近ければ、ほとんど変わらないだろうが……って、今はこんな事でもめてる場合じゃなかったな。それじゃあゆづきを助けに行くぜ」
龍夜は歩き出した。
玄関ロビーの左のほうに二つの扉が見える。
龍夜はその奥の扉の方に歩いて行った。二階堂が何も言わずに龍夜の後について行く。
龍夜は扉の前に行き、その扉を開けた。
そこは暗く細い廊下である。
龍夜はその廊下を進んで行った。
二階堂が後に続く。
龍夜は一つめの扉の前を通り過ぎ、奥にある二つめの扉の手前で立ち止まった。
「うーん、ここだな」
龍夜は壁の一点を見つめると、そこに向かって魍魎丸を突きたてた。
「ぎゃっ!」
壁の向こうから、高く短い叫び声が聞こえてきた。
龍夜は何事もなかったかのように、ドアノブに手をかけた。
「うんっ? なんだあ。いっちょまえに、鍵がかかっているじゃないか。偉そうに。そういうことなら、せーので、はい」
掛け声とともに、ガテャリ、と鍵の開く音がした。
龍夜はただドアノブを掴んでいただけだというのに。
――なんだ? 今いったい何を、どうやったんだ……こいつ、こんなわけのわからん手品を使って、俺のマンションの鍵も開けたんだな。もしこいつが本気で泥棒しようと思ったら、まさにやりたい放題だ。
二階堂はそう思った。
龍夜は二階堂の思いに気づかないまま鍵の開いたドアを開け、部屋に入った。
続いて二階堂が中に入る。
下巻に続く