淡い後悔
今日の教室は、空腹気味の俺とよく似ている。
プリントや資料集を詰め込みすぎてゴミ箱のようになっていた後ろのロッカーも、急な授業変更でも困ることがない、教科書を詰め込んだ机も、中身を失くして、どこか教室全体を寂しげにしていた。
それはまるで……それはまるで……。
「浮かばねえなあ」
俺は小さい声で呟く。その声はいつもより大きく反響して、耳に戻ってくる。
「演劇部だったのに、何一つ脚本書けなかった俺だもんな……大体空腹気味の俺ってなんだよ」
改めて自分の発想力の無さに落胆し、座っていた自分の机で授業中寝るような姿勢になる。
――しかし本当に何もないな。
顔だけ黒板に目を向けて、そこにチョークで描かれている、派手でまとまりの無い文字や絵の羅列を見てみる。一番後ろの廊下側である俺の席から、細かい文字は見えないが、中央に書かれている言葉は、多分視力が0.1の人でも見えるぐらい大きく書かれていた。
「祝 卒業」
そう、今日は卒業式だった。高校生活が今日終わったのだ。長いようで短い、という表現をよく聞くが、俺にとって見ればとても長かった気がする。六限まである日は何でこんなに学校にいなきゃいけないんだと思ったし、部活中の発声練習もただ疲れるだけでつまらなく、早く実践的なことをしたいと思っていた。多分、この三年間が本当に短かったものだと気づくのはもっと人生の分母が増えてからなんだろう。
でも同じ時間を過ごしたのに「あっという間だった」と言う人がいるのは確かだ。きっとその人たちは、部活や友達や恋愛等で、俺より何倍も充実した時間を過ごしたのであろう。
俺――由良聖の高校生活は酷く地味だった。三年の内にクラスは二回変わったが、どちらでも目立たなく、害のないキャラクターとして過ごしてきた。話したことがないクラスメイトなどザラで、一部には話す人もいたが、クラスメイトから友達に昇格することはなく、学校の外で遊ぶなんてことは無かった。所属していた演劇部ではそれなりに友達として交流を深めていたが、どちらも積極的に遊ぶような性格では無かったので、これまた辛うじて友達であるといった程度の間柄にしかなれなかった。
そんな奴が恋愛なんかできるわけもなく、唯一の救いである部活も、それなりにはやったけれど、せいぜい市のコンクールで入賞する程度だったし、それで満足するぐらいのやる気だった。
そんな色々を鑑みても、特筆することがない地味な高校生活だった。中途半端ではなく、自分が設定したハードルが低かっただけだから、後悔することもないのだけれど。でも、やはり俺もそれなりに華やかな高校生活に憧れてはいた。そんな未練が、卒業式を終えて、部員十名の演劇部のしょぼいお別れ会も終えた俺を、こうやって教室に呼んだのかもしれない。
「来てみたところで、って感じだけど」
独り言を呟き、窓の外を見てみる。今が夕方ぐらいで、夕陽が差し込んでいれば少しは様になっていたかもしれないが、まだ午後二時を回ったぐらいなので、陽は強く教室に射し込んでいて、趣の欠片も無い。もう時間の無駄な気がしてきた、卒業アルバムでも見ていた方が、まだ浸れるだろう。
「この黒板アートを写メって帰ろ」
俺は席を立ち、黒板の全体が写るように場所を変えて、スマートフォンのカメラを起動させた。
すると、教室後ろの扉が開く音がした。俺は驚いて、顔だけ音の方へ向けた。
「おお、由良じゃん。 びっくりしたあ」
そこにいたのは同じクラスの坂口だった。俺が話したことのある数少ない女子でもある。彼女はクラスの中心人物で、人を選ばず、誰でも同じように接してくれる。その性格を他人に妬まれることもなく、クラスで委員長にも任命されているぐらいだった。
「お、おう」
とはいえ、話したことは数える程度しかなく、しかもその殆どが連絡事項みたいな内容だったので、経験が乏しい俺はたどたどしい対応をしてしまった。
「何してたの? 部活のお別れ会終わり?」
彼女は忘れ物でもしていたのか、自分の席へ真っ先に向かい、机の中を覗き込んでいた。
「まあ、そんなところ」
どうか平静に見えるように、落ち着かせた声で答えて、反射的にカメラ機能をオフにした。
「そう。 んで、最後に教室来て浸っちゃおう、みたいな?」
そう聞き返してくる坂口の顔は半分笑っていて、どうせ正解だろう、みたいな顔をしていた。憎たらしくもあるが、悪戯をした時の子供みたいな幼い、したり顔は可愛く見えた。元々目が大きく整った顔をしているし、やはり容姿も中心人物になるには必要なのだろうか。
「折角だからね」
バレているなら変に繕っても仕方ないし、例え気持ち悪いと思われてもどうせ会うのは今日が最後だろうから、正直に答える。すると坂口はやっぱり、といった表情で高い声を出して笑った。
「ノスタルジー由良だね」
「そのあだ名変でしょ」
「案外かっこいいと思うよ?」
「適当でしょ」
「本気だと思う?」
彼女は既に机の中にあったであろう忘れ物をスクールバッグに入れていたが、それでも俺との会話を止めなかった。こんなに坂口と喋ったのは初めてだったからか、緊張で体は強ばっているが、心は徐々に温まっていくのを感じた。
「思わないな」
「英語と名字合わせるとかっこよくなると思うけどな……あ、まだ黒板消されてないんだ」
そう言って、俺の隣に並んで黒板に彼女は視線を向けた。こんなに女子と近づくのは久々だったので、瞬間鼓動が躓いたが、俺も同じように目線を黒板へ向けた。でも意識はまだ隣に残ったままで、視界の隅に映る彼女が案外小柄だということを感じ取っていた。
「卒業って実感沸かないなあ、またふらっと学校に来ちゃいそう」
さっきより寂しさが混ざった声だったので、俺は横を向いた。坂口はまだ黒板を見ていたが、横顔でも分かるぐらい彼女の目は赤く腫れていた。卒業式って女子は泣いている印象しか無いし、それに漏れず彼女も泣いていたんだろう。一緒に泣いてくれる友達も、離れたくない思い出も俺とは違って沢山あるだろうからな。
「坂口は、いつも楽しそうだったもんね」
「楽しかったね、由良はそうでもないの?」
ちょっとは慣れてきて、自分から話を広げることもできたのだが、すぐに自分への質問が返ってきた。さっき思っていたことがそのまま反映されている質問なんで迷うことなく答えることができた。
「うーん。 悪くはなかったけど、何ていうか地味で、話とかにしたら、つまんないって感想しか返ってこないような高校生活だった気がする」
「何それ、難しく言ったね」
また半笑いを含んだ声で馬鹿にしているような感じだった。悪気があるようには思えないのだが、どこか失敗してしまったような恥ずかしさを感じてしまう。
「すいませんね」
「いやいや、やっぱり演劇部だとそういうカッコイイ答えが返ってくるんだろうね」
“カッコイイ”をやたら強調していて、更に馬鹿にしているような感じだったが、それよりも俺が演劇部だったことを知っていることに驚いた。隠している訳では勿論無いのだが、言わなきゃ分からないぐらい露出は少ないので、知っている人なんて居ないと思っていた。
「俺が演劇部って知ってたんだ」
「あー、一回出ているの観たことあるんだ」
「観た?」
装っていた平静も少し揺らいでしまった。「知っている」という情報と「観た」という経験は全く違う。演劇部では結構弾けた演技をしているので、教室で透明人間のように存在を消している自分とでは、はっきりと言って真逆だ。そんな自分を観たとなると、相当俺に変な印象を抱いているに違いない。しかも、それを今の今まで言わなかったことも考えると、陰で笑っていたに違いない。
「ど、どこで観たの?」
折角慣れ始めたのに、最初よりたどたどしい声で聞いてしまった。もうそれすら笑われるんじゃないかと思ってしまうぐらい、心の中はあらゆる不安が飛び交っている。
「えっと、去年の市のコンクールだったかな? 私の友達が他校で演劇やってて、誘われて観に行ったんだよね。 そしたらうちの高校も出てて、ついでだから観ようかなって思って観たら由良がいてさ!」
そこで何故か手を叩いて笑い出す。何がおかしいのかよく分からないが、こっちとしてはそんなことはどうでもよかった。去年のコンクール? 何をやった?
「何かね、死神と男の子の話みたいな……」
「うわー! それかよ!」
思わず大きな声を出してしまった。よりによってなものを見られてしまった。それは余命一ヶ月の男の子が、死神と出会い、死神が出す数個の難題をやり遂げれば、好きなだけ生きられる時間を伸ばせるという話であった。俺は死神役で、しかもその死神が何故かハイテンションな関西人っていう役柄で、無理やり関西弁を使いながら、出来る限りのハイテンションで演じていた。
演技だったので恥ずかしさは無かったのだが、クラスメイトに観られていたと思うと、今になって下手な関西弁を話す、馬鹿な自分を思い出して、今すぐこの場を去りたくなった。
「い、いきなり大きな声出さないでよ!」
勢いよく坂口を見ると、耳を塞いで俺を驚いたような目で見ていた。
「ご、ごめん。 でも……わー、めっちゃハズい!」
俺は吹き出た額の脂汗を拭いながら、心が生産する恥ずかしさを、ひたすら恥ずかしいという言葉に乗せて、排出し続けた。
「……あっはははは…!」
口を隠しながら、ジタバタする俺を尻目に彼女は近くにある机を右手でバンバン叩きながら、左手で腹を抱えて大笑いしている。それは本当に心の底から笑っているというような感じだった。俺はもう、彼女に対して距離を置かなくなっていた。
「笑うなよ、本気でやってたんだから!」
ツッこむような口調で弁明をして、近くにあった机に座ってそっぽを向いた。
「ご、ごめんごめん‥‥‥あははは‥‥‥」
どうにか笑いを抑えようとしているようだが、ツボに入ったらしく中々抜け出せないでいる。しかし何がこんなに面白いのだろうか、やはり女子は分からない。
「怒るぞ、もう!」
「はは‥‥‥もう大丈夫、大丈夫。どうどうどう」
「馬かよ、俺は。 それにしても笑いすぎだよ」
落ち着き始めたのか、坂口は叩いていた机に座って息を整えた。細い足を少し広げて、間をスカートで隠すような仕草にドキッとして、俺は目を逸らす。
「いやー、だって、本気になってる由良が面白くて」
「え、演技の方じゃなくて‥‥‥そっちかよ!」
「そっちでしたー」
俺はてっきり演技の方を思い出して笑っているのだと思っていたから、膨らんでいた風船が萎んでいくように、力が抜けてしまった。頬杖をついて、坂口を見つめる。彼女はやっと平静になれたようでぶらぶらさせた足を見つめていた。
そこで会話は途切れてしまって、数十秒沈黙が流れた。俺は何か突破口を開けないかと、色々と話題を思い浮かべてみたが、今話すことでなかったり、さっきの話題を掘り下げたくないしで何も口にすることが出来なかった。
すると坂口は机を降りて、スカートの乱れを直しながら口を開いた。
「よーし、そろそろ帰ろうっかな。 忘れ物も取りに来れたし」
俺も小さく頷き、椅子から立ち上がった。スマートフォンを確認すると、最後に見たときから十五分ぐらい経っていた。凄く話したと思っていたのに、これぐらいだと思うと少し拍子抜けするが、教室に寄った意味はできた気がした。
「最後にこの黒板を撮ったら帰ろう」
そう言ってさっきしたようにカメラを起動して、ピントを合わせて撮った。シャッター音に坂口は反応して近くに寄ってきて、スマートフォンを覗き込んだ。
「お、いいね。 青春ぽい」
「俺の数少ない青春だな」
すると彼女が俺の方を向いた。画面を覗き込める程の距離だったので、とても間近に坂口の顔があり、一歩たじろいでしまった。
「でも一個後悔が増えたな」
その言葉を理解することが俺にはできなくて、聞き返した。
「何が?」
「由良ともっと絡んどけばよかった」
今まで見せたどの笑顔より、一番素直なものだった。白い八重歯が見えて、それだけなのに心を噛み付かれたような気分になった。
「由良面白いもん、同窓会とか企画するから絶対来なよ?」
言葉を出せなかった俺の肩を叩いて、彼女は自分の席に戻っていき、スクールバッグを肩にかける。何か言いたかったが、何も浮かんでこない。
「呼んでくれよな」
「うん、絶対!」
そう言って坂口は右手を耳の横あたりまで上げて、振った。
「どんなに遅くても成人式には会おう、じゃその時まで。 ばいばい!」
クラスメイトの「ばいばい」を聞いたのはいつぶりだろう。
それを返せるのもいつぶりだろう。
「おう、じゃあな」
小さく右手を上げて、返事をする。それを聞いて坂口は教室から出て行った。廊下を走っているであろうサンダルの音が随分止まなくて、とても学校全体が静かだったことを今思い出した。
俺はまた黒板に目をやり、チョークで書かれた沢山の別れや感謝の言葉、下手な絵、そして「祝 卒業」という言葉を見つめて呟く。
「俺も、後悔が一つ増えちゃったな」
その言葉はやはりいつもより大きく反響して耳に戻ってきた。
そして黒板に近づいて、俺も何か残そうとチョークを持った。
だけど、所狭しとクラスメイトの想いが書き込まれた黒板には、俺の想いを書けるスペースなんて無かった。