fat man !
この作品には、トンデモ理論が存在しますことをご了承ください。
『次のニュースです――』
ガラス越しにある薄型テレビの流れる映像に釣られ、本郷学は視線をそちらに動かした。
映像は、二週間前、突如起こった事件についてであった。
事件といっても、殺人などの重い事件ではなく、どちらかというと、エンターテインメントといった方が雰囲気としては近いかもしれない。
説明するアナウンサーの興奮した声がまさにそれを表現しているようで、学は少し苛立ちを覚える。
学は知った内容だとわかると、途端に興味は失せ、顔を前へと戻した。
ついアスファルトで出来た床に苛立ちに任せ足を叩きつける。
先ほど目がつられた場所――新山電機店は前まで節電という建前でテレビの電源すらついていなかった。
ウインドウには堂々とテレビを入れてあるというのに、である。
昔は赤字経営で苦しみ、いかにもさびれています、といった新山電機店は、いまや店内から活気を感じるほどに変わっていた。
というよりか、新山電機店を含むここの商店街は全体的に活気にあふれていた。
この商店街はまっすぐとした道を左右を店で挟むという構成をしている。
学ぶは自宅の近所ということもあり、小さい頃からここに来ていたが、思い返してみるとここまで活気に充ち溢れているのは初めてなのではないのか。
左右を見渡しても、学の見慣れた、閉じられた灰色のシャッターはなく、人工灯に包まれた人だかりと忙しそうに動き回る店主という光景が目に入ってくる。
普段なら目を優しく細めるところだが、学は逆に顔をしかめる。
その理由は、プラマイゼロという言葉で説明できる。
この事件に対して、商店街にプラスとして働いたとして、マイナスが学に向かうとしたら?
「うわぁあああ!!」
学の頭が暗い思考で垂れそうになった時、悲鳴が前方から響いてきた。
声に釣られ前の方に視線を向けた先には、学の悩みの種が空気を振動させて空中を舞っていた。
その横には、驚いた男性が尻もちをついている。
先ほど悲鳴を上げたのはたぶん彼だろう、と学は無駄な推察をしておく。
そして推察した後、若干の現実逃避から観念し学は例の飛行物体へ一瞥する。
細長く枝みたいな4つの足、その足に見合ったかのようなほっそりとした身体。
腕には大きい鎌が折りたたまれており、長い首には三角形の顔が鎮座している。
簡単に表現するなら、規格外の大きさの蟷螂が羽をはばたかせていた。
「今日もお出ましかい……」
学は嫌そうに顔をしかめて、口から言葉を逃がす。
だが、その蟷螂は学の心境も知らずにゆっくりと地面に身体を下ろした。
緑の色をした三角形の顔は学の顔を捉え、寸分も動かない。
そのせいもあってか、近くに尻もちをついた男はそのままの体勢で退避に成功していた。
学と蟷螂のにらみ合いで対峙している間に、住民は避難を終えて、店主は自分の店の中からこの光景を見物しようとしていた。
「高みの見物かぁ」
実際この立場でなければきっと自分もこうしていたに違いない、と学は思う。
「さて、と」
そのまま学は膝を軽く曲げて、一気に蟷螂と逆方向へと走った。
学が初めて事故に巻き込まれたのはつい先月のことである。
それほど広くない家の近くの道路で、とぼとぼと帰路に至っていたところに自動車が衝突。
その自動車の運転手が、なんと学の叔父にあたる人物というのが運命じみていたが、学はさらに運命に弄ばれることとなる。
その叔父――――東邦夫はバイオ研究の一人者ということもあり、この事故を隠蔽し学を実験動物として利用することにした。
その実験の結果、学はなぜか大きな昆虫に狙われる羽目になった。
――――と学は何度も頭でまとめた内容を反芻する。
何度も内容をまとめたのは、いずれ邦夫を訴えるためである。
頭の中で反芻している間にも、棘のついた大きな鎌は学に襲いかかる。
学はそれを屈んでかわし、さらに身体を横に投げ出す。
鎌が通り過ぎた刹那後、もう片方の鎌が先ほどまで学がいたところに振り下ろされた。
その鎌は勢いが余って、アスファルトに激突する。
傷はつかないものの、金属音に近い音が床に響く。
蟷螂はすぐに鎌を自分に引き寄せ、何か拝むようなファイティングポーズをとる。
それに対して学は、身を投げた衝撃が抜けきらないまま強引に身体を起こす。
「勘弁してほしいのだけど」
学の言葉は、異種族の壁へ阻まれ蟷螂の鎌が学へと振り下ろされる。
「仕方ないか……」
学は鎌が来る方向にタイミングよく手をかざす。
鎌は勢いを増し、学を腕ごと貫こうとするが――――それは出来ない。
学の身体に触れた瞬間、壁にでも遮られたかのように、鎌は急停止する。
鎌のインパクトは完全になくなり、その代わりといってはなんだが、学の身体に急激な変化が訪れる。
学の身体は横に膨張し、まるで力士のような体型に変貌する。
そう、これが事故の後に得た、東邦夫のバイオ研究の産物。
『脂肪変換能力』である。
力学的エネルギー保存の法則、というものがある。
それは、位置エネルギーと運動エネルギーの和が一定といったものだろう。
すべてのエネルギーとして適応されるわけではない、この法則に。
東邦夫のバイオ研究は、土足で足を踏み入れることになる。
脂肪は、運動し、燃焼することでエネルギーが生じる。
ならば、逆が出来たら。
それを東は独自の研究でそれを可能にしたのだ。
学は自分の身体がいきなり重くなるのを感じる。
『脂肪変換能力』を使ったせいだ。
あの蟷螂の鎌の運動エネルギーを、自分の脂肪へと変える。
それを一瞬にして、学はやってのけたのだ。
蟷螂は、鎌を自分の方へ引き戻すと、今度は斜めに切り込む。
先ほどよりも鋭い一撃。
今の身体が脂肪で覆われた学には、到底よけられない攻撃。
だが、学はそれをかわす。それも"先ほどよりも速い速度"で、だ。
そんなことを可能にするのは、やはり『脂肪変換能力』だ。
先ほど、学は一瞬にして鎌の運動エネルギーを己の脂肪へと変換させた。
ならば今度は逆に脂肪を運動エネルギーに変えた、というだけだ。
爆発的に肥大した運動エネルギーは学を弾丸のように突き動かして、蟷螂の背後をとらせた。
そして、運動エネルギーで増大した威力の掌底を、蟷螂の背中に押し込む。
インパクトした瞬間、蟷螂は身体を宙に浮かせ、簡単に吹き飛んだ。
そして、ノーバウンドで5メートルは飛び、地面へと叩きつけられた。
脂肪を急激に燃焼させ、蟷螂と対峙した時よりスリムになった学は、ゆっくりと蟷螂へと近づいた。
蟷螂は先ほどの学の攻撃のせいか、身体をぴくぴくと動かしたまま、立てないでいる。
そんな姿を学は見降ろし、そして容赦なく蟷螂の腹を踏みつぶした。
「また、使ってしまった……」
容赦のない一撃を放っても、学はそこに目も向けず、自分の心配だけをしていた。
その心配事というのは、もちろん『脂肪変換能力』のことである。
この大変便利な能力、実はメリットだけではなく、デメリットが存在する。
それは急激な体重の変化によって、寿命が縮むことである。
そんな、命を削るような真似を、学はしたくなかったので、能力を使うことをためらい、なんとかしてみるはずだった。
だが、今回もまた使ってしまった。
はぁ、と思わず溜息が洩れる。
普通なら、こんな能力を得れば、ヒーローになった気分にでも浸れるのだろう。
だが、自分の命を消費させて戦うとなれば話は別だ。
それならばない方がマシだ、と学は思ったが、今更どうにもならないのであった。
「いやぁ、本当にこうしてみると爽快なもんだ」
東邦夫は、学の蟷螂の腹を潰したところを見て、少し含みのある声で、隣にいる女性へと声をかける。
その声をかけられた女性――――東芳子、つまりは邦夫の妻――――はそれを聞いて表情が苛立ちへと変わる。
「今日はたまたま、調子が良かっただけでしょう?」
「といいつつ、2週間負け続けというのはどうだろうなぁ?」
どちらも喧嘩腰で、にらみ合う。
――――夫婦喧嘩。
この事件は、東夫妻による大規模な夫婦喧嘩が勃発して起きた、というのが事の顛末なのだが、学にはまだ知られていないことだった。
そうして、学はこの夫婦が飽きるまでこの喧嘩に利用されるのを気付いて、夫婦を暗殺する計画を立てるのは、また別のお話。