「俺の友人にでも貰ってもらえ」――では、公爵様と本気の恋を始めます ~殿下の遊び相手が、私の恋人になりました~
「そんなに結婚したいなら、俺の友人にでも貰ってもらえ」
婚約破棄を告げた殿下は、隣に立つ公爵様を指して笑った。私はジュスティーヌ、侯爵令嬢で二十四歳。
王宮の庭の茶会、近くの客たちの前で。婚約して三年、式の日取りを伺っただけなのに。王太子の婚約は王家の側から人前で告げれば解ける慣いで、父も異を唱えない。茶器の触れ合う音が、そこだけ止まる。開きかけた扇を、私は閉じたまま持ち直す。
「殿下、その言い方は失礼だ」
真っ先に怒ってくれたのは、指をさされた公爵様だった。話を遮らない人。使用人にも礼を言う人。殿下が笑うたび、困った顔をしていた人。
「では、公爵様。今度、私と出かけていただけますか?」
断られると思っていた殿下の前で、公爵様が真っ赤になった。
「本気にするな!」
「本気で選びました」
私は扇を公爵様へ向ける。指の先は冷たいのに、殿下への返事は少しもつかえない。
「結婚、結婚とうるさいからだ。お前は慰めてもらいたいだけだろう!」
「承諾はご本人に伺います。公爵様のお返事を、まだ聞いておりません」
殿下の指が、また公爵様へ向く。私はその先にいる方を見上げる。
「俺の友人だぞ」
「ご紹介ありがとうございました。選ぶのは私です」
公爵様が口を開くまで、私の扇も止まる。芝の匂いが急にはっきりと分かり、遠くの笑い声ばかり耳に届く。
「……ぜひ。明日、私の庭へ」
「待て、なぜ話が進んでいる!」
殿下が私たちを見比べる。公爵様は私のほうを向いたまま、短く答えた。
「誘ってもらったからだ」
殿下の笑みが固まる。その後ろで侍従が用件を告げた。
「殿下、次のお支度が整っています」
公爵様の名はオーギュスタン。殿下はエドガール。二人は幼い頃からの遊び相手で、散歩も観劇も夕食も、いつも殿下が誘う。私はそれを、隣の席で三年聞いてきた。
「明日、何時にお邪魔すれば?」
「……昼を過ぎたら、いつでも」
いつでも。その短い返事に頷くまで、なぜか間が空く。殿下の指が下がる前に、私は公爵様のほうへ足を向ける。
◇
翌日。玄関先で私を迎えたのは、公爵様の祖母であるオノリーヌ様だ。銀の髪をうなじでまとめ、椅子の脚を石畳に揃えている。隣の公爵様は、私を見るなり背を伸ばす。
「二人分、並べてあるわ。座りなさい、二人とも」
「ありがとうございます。もう私の席まで?」
オノリーヌ様は椅子の背から手を離し、にっこりと笑う。
「遅いくらいよ。孫が昨夜から、何度も窓を見ていたもの」
「お祖母様。そんなことまで言わないでください」
公爵様の声が低くなる。オノリーヌ様は笑いを隠しもしない。
「分かっていても、見てしまうのねえ」
公爵様が祖母を目で遮り、私へ椅子を示す。
「お祖母様、……挨拶くらいさせてください」
公爵様に促されて腰を下ろすと、隣でも椅子が小さく鳴る。公爵邸では、客の椅子はオノリーヌ様が並べるという。挨拶を交わすあいだ、私は扇の端を揃えてばかりいる。侍女が庭への扉を開いた。
「お庭へご案内いたします」
立ち上がり、公爵様と並木の間を歩き出す。葉の隙間を抜けた光が、足元に落ちてはほどけた。砂利を踏む音が近くで重なり、私は扇を少し強く握る。
「迷惑でしたか? 昨日は、急にお誘いしてしまいました」
「嬉しすぎて困っている」
公爵様の手が、隣で握られたり、開かれたりする。落ち着いた声につられて顔を上げると、その手も止まる。
「私を慰めるため……ですよね?」
「それだけなら手は震えない」
差し出された手の上で、木漏れ日まで揺れる。そこへ目を落としたまま、私は扇で口元を隠す。
「……本当に震えていますね?」
「笑わないでくれ。止めようとはしている」
堪えきれずに笑うと、公爵様の口元も緩む。
「困っていらっしゃるのに、すみません。少し、ほっとしてしまって」
「それならいい。君まで困らせたくはない」
葉擦れの音に、近づく足音が混じる。そこへ殿下が遠乗りの供を連れて来た。
「オーギュスタン、出かけるぞ。気楽に誘えるのはお前だけだ」
「今日は先約がある」
殿下の目が、公爵様の手から私へ移る。
「昨日の、あれか? あれで本当に約束したのか?」
「した。彼女が来てくれた」
殿下は何か言いかけ、わずかに足を踏み出す。侍従が殿下の後ろから告げる。
「殿下、お帰りの支度をいたします」
「まだ出かけてもいないぞ!」
侍従へ向けた顔が、また公爵様へ戻る。その口が開いたまま止まり、やがて呼びかけだけが残る。
「オーギュスタン、……今日だけだぞ」
返事を待たず、殿下は侍従と引き返す。馬の足音が遠ざかるまで、公爵様の手は私へ向いたままだ。それから、公爵様が私の顔を見る。
「なぜ私を?」
扇の端を撫でても、今度は返事が出てこない。昨日は、あれほど早く言葉が出たのに。砂利の上に目を落とすと、公爵様の靴も私と並んで止まっている。
「……今日は、公爵様のお話を聞きたいです」
「では、歩こう。ゆっくりでいい」
答えになっていないとは言われず、足元の影が静かに動き出す。私は遅れないよう顔を上げた。
「公爵様は、いつもそうおっしゃるのですか?」
「君にだけだ」
今度は歩くほうが遅れそうになる。公爵様は振り向いて待っていてくれる。私はその隣まで進み、並木の影の上で歩幅を揃えた。
◇
数日後。公爵家の桟敷で、公爵様が隣へ案内してくれる。幕の奥では楽の音が合わせられ、蝋の灯りが客席の縁を淡く照らす。腰を下ろすと、公爵様もこちらへ少し体を向ける。
「こちらなら舞台がよく見えますね。ここにします」
手すりに置いた掌へ、磨かれた木の冷たさが移る。幕はまだ動かず、隣からも何も言われない。
「幕が上がるまで、何を見ていればよいのでしょう?」
「……私を見ていてくれても、構わない」
公爵様が先に目を逸らす。私がそちらを向くと、耳が赤く染まる。
「そうおっしゃって、目を逸らされるのですか?」
「きっ、君に見られる用意までは、できていなかったようだ」
私は笑いを抑えきれず、扇を口元へ上げる。殿下はいつも王家の桟敷を空け、公爵家のこの席へ座りに来ていた。今夜は誘いもなく桟敷の扉が開き、扉口に殿下が立つ。
「おい! 俺がいつも隣だっただろう!」
「今日は彼女と来た」
公爵様の手が私の椅子の背に触れる。殿下は扉口から、そこへ目を据える。
「なら、俺はどこへ座るんだ?」
「王家の桟敷に、殿下の席があるだろう?」
殿下の視線が客席のほうへ流れ、すぐに戻る。
「そんなことは知っている! 友人をないがしろにするのか?」
「二人で決めた約束だ」
通路の客たちが近づき、扉口の殿下が身をよける。通り過ぎるまで待ってから、殿下の声が戻ってくる。
「薄情者!」
公爵様が、扉口にいる殿下を見る。
「彼女との約束を、君にも大事にしてほしかった」
椅子の背にあった手が静かに下がる。殿下は口を開きかけるものの、声を出さずに唇を結ぶ。侍従が殿下のそばへ進む。
「殿下、王家の桟敷へお戻りください」
「……分かっている。自分の席くらい」
殿下の背が通路の向こうへ遠ざかる。灯りが落ち、幕が上がると、隣の横顔にも舞台の光が届く。睫毛の先に揺れる明るさを見ていたら、手すりから手を離しそびれる。
「見えにくいか?」
「ここがよいのです」
公爵様が私を見てから、舞台へ向き直る。ようやく手すりを放すと、掌に触れる空気はもう冷たくない。幕の向こうの声を聞きながら、私は隣の横顔を、またそっと見上げる。
◇
数日後。オノリーヌ様に迎えられ、食堂で公爵様と並ぶ。オノリーヌ様も自分の席に着き、卓の上へ目を細める。皿の蓋の隙間から、焦がした砂糖の匂いが漏れている。侍女が料理を告げる。
「焼いた梨をお持ちしました」
「どうして私の好物をご存じなのですか?」
公爵様は私の皿を見て、口元を和らげる。
「今まで、何度も同じ卓についたからな」
「でも、殿下のお話ばかりで。私の話など、聞いていないと思っておりました」
皿へ伸ばした手が止まる。湯気がほどけてゆくあいだも、公爵様はこちらを見ている。
「私は君の話を聞いていた。取り残された客にも、話を振っていただろう?」
「……あんな、途切れ途切れのお話を?」
公爵様が頷く。匙を持ち直しても、礼の言葉がうまく形にならない。
「続きを聞きたかった」
匙の先が皿の縁に触れ、小さく鳴る。言い残した先を促す声はなく、公爵様は私が匙を置くまで待ってくれる。
「……ずるいです」
「今から全部聞かせてほしい」
俯くと、梨の表面に薄く張った砂糖が灯りを返す。匙を入れれば柔らかく崩れ、甘い匂いが近くなる。
「全部ですか? それでは、公爵様のお話を聞く暇がなくなります」
「それは困る。私も聞いてほしい」
短い返事がおかしくて、梨を口へ運ぶ手を止める。公爵様もつられたように笑い、私はやっと匙を進める。顔が緩むのは、甘さのせいにしておく。
「では、公爵様の好物も教えてくださいますか?」
「胡桃の菓子だ」
公爵様が皿へ目を落とす。耳の端が赤くなっている。私はその横顔を見ながら、匙を皿の脇に揃える。そこへ、夕食へ誘いに来た殿下が扉から顔を出す。
「もう食べているのか? 俺の席も用意しろ」
「二人分しか並べていないの」
オノリーヌ様が返す。公爵様の後ろで足を止めた殿下は、椅子の背を見てから、卓をぐるりと見渡す。
「オノリーヌ様、俺は王太子だぞ」
「ええ。だから立っていても様になるわ」
殿下の背筋が伸びる。けれど、すぐに眉が寄る。
「座っていても様になる!」
「ふふ、そんなに力を込めなくても分かっているわよ」
皿の湯気が殿下の顔の前を通る。殿下は公爵様へ向き直り、明るい声を出す。
「オーギュスタン、昔、庭で転んだ時は、俺が手を貸してやったな!」
「その話、彼女にも聞かせよう」
私は匙を置き、殿下へ向き直る。公爵様も椅子を動かさず、私のほうへ顔を向けた。
「公爵様も、お転びになるのですね」
「なる。……そこを驚かれるとは思わなかった」
隣から戻ってきた答えに、私は口元を緩める。殿下の指が公爵様を指しかけ、途中で曲がる。
「お前たちの話ではない。俺が手を貸した話だ!」
「ええ。続きを聞かせてください」
殿下は私と公爵様を見比べる。私は続きを待ち、公爵様も顔を上げたままでいる。
「……また今度だ」
「では明日の夕食にいらっしゃい。座って、ゆっくり聞かせてちょうだい」
オノリーヌ様の言葉に、殿下は開きかけた口を閉じる。やがてオノリーヌ様が席を立ち、公爵様を食堂に残して、私だけを玄関へ連れ出す。殿下は侍従と帰っていく。扉の向こうから夜気が入り、食堂で温まった頬を撫でた。
◇
その夜。殿下の去った玄関で、オノリーヌ様と向き合った。灯りの芯がかすかに音を立て、石畳に落ちる影を揺らす。
「最初は殿下への当てつけだったでしょう?」
「はい。最初は、そうでした」
扇の端を指で押さえる。言い切った声が静まると、オノリーヌ様はわずかに首を傾ける。
「今は?」
「……今、は」
扇の骨が指の下でずれる。端を揃えようとしても、いつもなら閉じられるところで引っかかる。オノリーヌ様の視線を感じて顔を上げ、私はまた扇へ目を戻した。
「ふふ、扇のほうが正直ね!」
「これは、その……うまく閉じられないだけです」
オノリーヌ様が声を立てて笑う。私は持ち直した扇を見つめ、開くことも閉じることもできずにいる。
「あら、あたしは扇の直し方を訊いたかしら?」
「……いいえ。私のことを、訊いてくださったのですね」
笑い声が柔らかく収まる。次の言葉を待たれるほど、食堂に置いてきた皿の並びが目に浮かぶ。梨の湯気の向こうで、私を待っていてくれた顔も。
「ちゃんと聞いているわ。言いかけたこともね」
「公爵様の前でも、言葉が出てこなくなります。あんなに、待ってくださるのに」
俯いた拍子に、扇が装いの裾に触れる。その小さな音が消えるまで、オノリーヌ様は口を挟まない。
「急がなくていいわ。あの子には、聞かせてあげて」
「では、明日。ご本人に伝えに参ります。途中で止まっても、続きを言います」
扇から指の力を抜くと、ようやく端が揃う。オノリーヌ様が門のほうへ私を送り出してくれた。夜の石畳の冷たさが、靴の底を通して伝わる。
「ジュスティーヌ、明日の夕食にもいらっしゃい。約束よ」
「はい。胡桃の菓子を持って参ります」
言ってから、閉じた扇へ目を落とす。今の返事は、何も探さなくても口から出た。
「あら、もう覚えたの」
「はい。公爵様の好物ですから。伺えたのが嬉しくて、伺ったときから、持ってきたいと思っておりました」
オノリーヌ様が目を細める。私は扇を胸に当て、門を出る。夜風に触れても、頬の温かさはなかなか消えない。
散歩、観劇、夕食。公爵様を知るほどに、私は好きになる。そして殿下は、友人を誘うたびに、私との先約に負けていく。
◇
翌日の昼。殿下に呼び出された私は、王宮の庭の、あの日と同じ場所に立つ。芝の上を渡る風が、装いの裾を揺らす。庭の向こうに、登城帰りの公爵様の姿が見える。殿下が顎で、そちらを示す。
「そいつは俺の友人だぞ!」
「はい。私の好きな方でもあります」
扇を閉じ損ねる。ご本人より先に、殿下へ言ってしまった。開いた隙間から庭の向こうを窺うが、公爵様はまだこちらを向かない。
「あの日の紹介の礼など、言われる筋合いはない!」
「ご紹介の受け取り方は、私が決めます」
殿下が私の扇を見て、声を強める。私はそれを慌てて下ろす。
「お前は、俺に当てつけているだけだ」
「最初は、そうでした」
殿下の手が握られ、開く。侍従が殿下の指示に頷き、公爵様へ声を掛ける。
「公爵様、殿下がお呼びです」
「オーギュスタンを返せ!」
殿下の声につられて、公爵様も顔を上げる。私はそちらへ体を向ける。
「ご本人へお訊きください。公爵様のお返事は、公爵様のものです」
公爵様が歩み寄り、殿下の前に立つ。登城の装いのまま、息が少し上がっている。
「公務は済ませた。彼女と過ごしたい」
「まだ何も訊いていないぞ!」
公爵様は殿下へ答えず、私のほうを見る。
「……お前、そんな顔をするやつだったか」
公爵様が殿下を見返す。
「君が知らなかっただけだ」
殿下の顎が下がる。私たちのあいだへ目をやり、握っていた手を下ろす。
「……勝手にしろ」
公爵様が私に向き直る。私は芝を踏み直して、顔を上げた。
「公爵様、私からお伝えしたいことが……」
「私の恋人になってくれるか?」
言いかけの口を閉じる。指先にうまく力が入らず、装いの裾を握りかける。公爵様は私の手元を見てから、目が合う高さで待っていてくれる。
「……私からも、お願いします!」
「おぉ……そうか……嬉しい。……とても」
公爵様の顔が耳まで赤くなる。私は自分の頬に手を当てかけて、下ろす。隠してしまうには、その顔があまりに近い。
「公爵様、お顔が」
「分かっている。言わないでくれ」
強いはずの言い方が、終わりだけ小さくなる。私は手を下ろしたまま、公爵様を見る。
「……私も、同じ顔だと思います」
「では、こちらを見ていてくれ」
顔を逸らしかけたところで止まり、私は頷く。殿下は口を開きかけ、侍従と庭を去る。芝を踏む音が遠ざかっても、私の前には公爵様がいて、目を逸らす理由が見つからない。
◇
同じ日の夕方。胡桃の菓子を抱えた私を公爵様が玄関で迎え、食堂へ案内する。二人分の椅子の隣には、殿下の席も用意されている。オノリーヌ様が自分の席から立ち上がると、私は公爵様と並んで足を止める。
「オノリーヌ様、公爵様と恋人になりました。私からも望んだことです」
「まあ! 待った甲斐があるわ!」
公爵様が私のほうを向く。私はオノリーヌ様へ向き直る。
「昨日は、うまくお答えできませんでしたけれど……」
「今日は、ちゃんと聞こえたわ。よかったわね、ジュスティーヌ」
頷くと、腕の中の包みが小さく動く。持参した胡桃の菓子を公爵様へ渡す。受け取る手がそっと包みを支え、私はその手つきを見つめる。
「ありがとう。覚えていてくれたのか?」
「ええ。今度は私が、公爵様のお顔を見ていたいです」
包みから手を離すのが遅れる。公爵様はそれを引かず、私が指をほどくのを待つ。
「そんなに見られると、食べにくい」
「では、お顔が緩んだところだけ拝見します」
公爵様の口元がすぐに緩み、私は笑ってしまう。殿下が到着し、侍女が扉を開く。侍従がその前で挨拶する。
「殿下がお着きです」
「紹介した方のお祝いが、まだね」
「頼んでいない!」
オノリーヌ様が私たちを示す。殿下の視線が公爵様で止まり、私へ移る。
「紹介したのは誰?」
「……俺だ」
私は公爵様の隣で待つ。指を伸ばしかけた皿は、触れる前からまっすぐに並んでいる。手を下ろすと、公爵様も殿下へ向き直る。
「ふふ、そこは覚えていたのね。では、顔を見て言いなさい」
「……幸せにしろ。俺が選んだ友人だ」
公爵様が私を見てから、殿下へ頷く。
「ありがとう、殿下」
「殿下の遊び相手が、私の恋人になりました」
言い終えて公爵様を見上げると、目が合う。殿下が小さく鼻を鳴らす。
「……言われなくても分かっている」
オノリーヌ様が三つ目の椅子を示す。
「さあ、殿下も座りなさい。冷めてしまうわ」
「……頂こう」
殿下が椅子へ手を掛ける。オノリーヌ様は自分の席へ戻りながら、卓の上を示す。
「菓子も、殿下の分までちゃんとあるわ」
「そうか。なら、ゆっくり食べよう」
殿下が腰を下ろす。公爵様も頷いて席に着き、私はその隣へ座る。皿を前にすると、殿下の肩から力が抜ける。匙の触れる音が重なり、食堂に静かな笑い声が戻る。
◇
その夜、庭に並ぶ二人分の椅子へ向かう。公爵様の隣へ、私から腰を下ろす。夜風に鳴る並木の葉は、昼とは違う暗い色を重ねている。自分が選んだ友人だ、という殿下の祝いの言い方が、まだ耳に残る。
「殿下のご友人だから、最初のお誘いを断れなかったのでは?」
「違う!」
椅子の縁を握った私の手が止まる。公爵様の顔が赤い。椅子の上でこちらへ向き直った姿を見て、私は扇を下げる。
「そんな大声、初めてですわ」
「……すまない。そこは、間違えてほしくない」
並木の葉が鳴り、私は椅子の端へ触れる。指を伸ばすと、公爵様の椅子もすぐそばにある。
「謝らないでください。嬉しかったのですから」
「う、嬉しいのか?」
問いかける声は、いつもの静かさに戻っている。私は頷きかけて、言葉にするまで顔を上げておく。
「少し驚きましたけど、公爵様の本心だと、はっきり分かりました」
「そう、私が君に選ばれたい。……言いたいことがあるんだ」
扇を膝に置き、椅子の上で体ごと公爵様へ向き直る。伏せかけた目を上げ、その顔を正面から見る。
「聞かせてください」
「私と結婚してほしい」
膝の上の扇を閉じる。揃った端へ指を沿わせ、また離す。公爵様は言葉を足さず、私が顔を上げるまで待ってくれる。
息を整えて立つ。椅子の縁に触れていた手を離し、公爵様を見る。並木の葉の音に紛れない声で、その名を呼ぶ。
「オーギュスタン様。好きです。私も、あなたと結婚したいです」
公爵様が立ち上がり、私の手を取る。握り返すと、その指にも力がこもる。公爵様は、私たちのほかには誰もいない庭へ視線を向ける。
「これからは、紹介のことは言わないで欲しい。ずっと隣に居てくれるか?」
私は自分から、公爵様へ近づき――――その胸に頬を寄せた。
「はい。もう紹介は関係ありません。私が、オーギュスタン様を選んだのです」




