父のランプ :約3500文字
ある晴れた日の午後。緩やかな丘の上に建つ、ほどほどの大きさの一軒家。
窓からは柔らかな陽光が差し込み、白いカーテンが風にそってかすかに揺れていた。外では鳥たちがさえずり、時おり空を横切る影が窓辺を静かに過ぎていった。
老人はまぶたを小さく持ち上げ、ベッドに横たわったままその影をぼんやりと追っていた。窓から入り込む風が乾いた手の甲をそっと撫でるたびに、遠い昔の記憶が胸の奥でかすかに揺れ、懐かしさだけが込み上げてくる。
と、そこへ控えめなノックの音が響いた。
「父さん? 入るよ」
「……おお」
老人が返事をして間もなく、ドアが静かに開き、一人の青年が部屋に入ってきた。
青年は穏やかな笑みを浮かべ、ベッドの脇まで歩み寄った。
「どう、調子は?」
「ああ……そろそろかな」
「そろそろ?」
「母さんのところへ……」
「またそんなことを……」
軽く笑って受け流そうとしたが、言葉が最後まで続かなかった。青年は小さく咳払いをして誤魔化したが、目の奥がじわりと熱くなるのを抑えられなかった。
父の命がもう長くないことは彼にもよく分かっていた。顔には深い皺が幾重にも刻まれ、頬は萎びた果実のように痩せ細っている。かつては大きく、頼もしく見えた身体も、今では掛け布団の下で輪郭だけをかろうじて残し、まるでベッドの上に一時的に置かれた荷物のように見えた。その重たげなまぶたの隙間から覗く瞳だけが、この狭い部屋を離れ、もっと遠くの景色を映しているようだった。
もう自力で起き上がることさえ難しく、身の回りの世話はすべてヘルパーに頼っている。妻は数年前に先立ち、老人はこの家で一人きりで暮らしていた。
「今日、ヘルパーさんは?」
「今日はもう帰ってもらったよ。やることもないしな。植物と変わらんよ」
老人は掠れた声でそう言って、小さく笑った。青年は「そんなことないよ」と口にしかけたが、掛け布団の上に置かれた痩せ細った腕が目に入ると、その言葉は喉の奥で消えてしまった。
「あー……あ、それは何?」
その痛ましさから逃げるように視線を逸らした先、窓辺に置かれた古びたランプが目に留まった。
金属の表面は黒ずんでいながらも、ところどころに鈍い金色を残しており、陽射しを静かに返していた。
「これは……」
老人はゆっくりと息を吸い、懐かしむように目を細めた。
「魔法のランプだ……」
「へえ……」
青年はわずかに間を置き、とりあえずそう返した。言葉の意味が飲み込めなかったのだ。だが、すぐに頬が緩んだ。
父がこんな冗談を口にするのは珍しい。まだ自分を子供扱いしたいのかもしれない。こそばゆくも、どこか嬉しかった。
「すごいね。魔法のランプってあれでしょ? こすると精霊が出てきて願いを叶えてくれるっていう」
青年は明るい調子で言った。
老人は枕に頭を預けたまま小さく頷いた。
「で、何をお願いしたの?」
「……っ」
老人の喉が小さく鳴った。唾を飲み込んだ拍子にむせたのだ。青年は慌ててベッド脇のローテーブルへ手を伸ばし、水差しを掴んだ。しかし老人は手をわずかに持ち上げ、それを制した。
「いい、いい……大丈夫だ」
「そう……」
二人の間に沈黙が落ちた。窓の外では風が草木を撫で、さあっと葉擦れの音が穏やかに流れてくる。白いカーテンがふわりと膨らみ、柔らかな陽光が床から壁へと静かに移ろっていった。
青年は水差しを元に戻すと、改めてランプに目を向けた。鉄のように黒くくすんだ表面には、ところどころに金色の光沢が残り、胴には細かな模様が刻まれていた。中央には小さな宝石のような装飾が埋め込まれており、デザインそのものは古くても安物には見えなかった。
「願いは……」
「え? ああ」
青年は一拍遅れて老人に視線を戻した。
老人は天井を見上げたまま、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「願いは…………願わなかった」
「え? 願わなかった……? 何も?」
「……そうだ」
「どうして?」
「それは……」
老人はしばらく黙り込んだ。窓の外で鳥がひと声鳴き、その余韻が部屋に溶けていった。
青年が相槌を打とうか迷っていると、老人は静かに口を開いた。
「……幸せだったからだ」
「幸せ?」
「そう……そうだ、何を願おうかと考えている、その時間がな……」
「うん」
老人は遠い記憶を一つずつ手繰り寄せるように、ゆっくりと続けた。
「仕事から帰って晩酌をしているときや……ベッドで眠っている……お前の寝顔を眺めたあとにな……。それに……お前や母さんに何かあったときのために……使おうと……取っておいた……」
老人は咳き込んだ。青年がびくりと肩を揺らすと、老人は再び手で制した。ただ、その手は先ほどのようには上がらず、ほとんどベッドから離れていなかった。
「一度しか……一度しか使えないから……」
「父さん……」
青年の声はかすかに震えていた。
「立派だよ。毎日仕事を頑張って、この家を建てて、僕を育ててくれて……。誰にも頼らず、本当に立派だよ」
「ああ……」
老人は息を吐くように短く応えた。
「私が……父さんが死んだら……そのランプは……どこかに埋めてくれ。誰にも見つからない場所に……」
「……うん、わかった」
「お前は……お前たちは……私が……望んだとおりの……すばらしい……家族……」
老人は息を大きく吸った。痩せた胸がゆっくりと持ち上がり、そして静かに沈んだ。それきり、その口が再び開くことはなかった。
青年は鼻をすすり、目を擦った。それから震える手を伸ばし、老人のまぶたをそっと閉じた。
「父さん……」
かすれた声で呟いた。呼びかけたわけではない。返事は返ってこないことは分かっていた。
青年は老人の胸にそっと手を置いた。
窓の外では相変わらず穏やかな時間が流れていた。何一つ変わっていない。穏やかな風が吹き、鳥がさえずり、陽光が降り注いでいる。けれど、自分の世界だけが大きく欠け落ちたかのような喪失感が確かに胸を抉っていた。
青年はそのままじっとしていた。父親との記憶を思い返すたびに手の震えが大きくなった。
そのランプはどこかに埋めてくれ――。
どれくらいそうしていたか。やがてふと老人の言葉が頭をよぎり、青年はゆっくりと顔を上げて、窓辺のランプに視線を向けた。
父が生涯大切にしてきたもの、か――。
青年はそっと手を伸ばし、ランプを両手で包むように持ち上げた。
魔法のランプか……。そういえば、幼い頃に何度か見かけたことがあった気がする。きっとおもちゃにされてはかなわないと考え、普段はどこかに大切にしまい込んでいたのだろう。ときどき出しては人知れず眺めていたのかもしれない。
ランプを眺めて微笑む父親の姿が目に浮かび、青年もまた頬を緩めた。
それはそうと……確かに大切な品だったのだろうけど、魔法の道具ではないことはもちろん、骨董品としての価値があるようには見えない。おおかた、どこかの古道具屋で買ったのだろう。父も本気で魔法を信じていたわけではなく、ちょっとした空想に浸るのが好きだったのかもしれない。社会人になった今、その気持ちはよく分かる。
青年は小さく笑みを漏らした。
その直後、一粒の涙がぽたりとランプの表面に落ちた。涙は金属のくすんだ表面をゆっくりと伝い、小さく光を弾いた。まるで雨が上がり、雲間から差した陽光に照らされ、草花に残った雫が輝くように。
頑張れよー―。そう父に言われた気がして青年はまた頬を緩めた。そして鼻をすすり、袖口でそっとそれを拭った。
そのときだった。
「……煙?」
陽光に滲むように淡く、視線を外すとすぐに見失いそうなほど細く白い煙が確かにランプの先端から立ち上っていた。
青年は思わず目を見開いた。
まさか、本当に――そんな考えが脳裏をよぎり、危うくランプを落としそうになり、慌てて握りしめた。
もし本当に精霊が現れて願いを叶えてくれるのなら、ああ、いったい何を願おうか。
勢いを増す煙が、そんな子供じみた空想に少しずつ輪郭を与えていくようだった。
青年はランプを顔の高さまで持ち上げた。
いよいよ現れる――そう思った。
だが――。
違う……。
これは……吸い込んでいる?
青年は思わず眉をひそめた。白い煙はランプから噴き出しているのではなかった。渦を巻きながら、先端の口へ勢いよく吸い込まれていたのだ。
青年は反射的に煙の流れを目で追いかけた。
家具だった。
部屋の隅にあった棚が輪郭を崩し、白い煙となって消えていく。椅子も机も、ローテーブルもベッドも、さらにはドアも壁も音を立てずにその形を失っていく。
そして青年自身の手もまた、白くほどけるように――。




