第一話 燃やせ地獄龍! インフェルノラーメン
吹きすさぶ風が微かに暖気を帯び始めている。
国道4590号線沿い、とある県境に建てられた一軒のラーメン店、中華そば『無抵抗羊』の店主、無垢羊弱造は、店の戸口から流れ込む風に花の匂いを感じ、この年初めての春の気配に微笑みを浮かべた。齢七十、深く皺の刻まれた弱造の口元が幸福感で緩む。午後の日差しが窓から差し込む中、厨房では妻の無垢羊台詞無美が空いたどんぶりをリズミカルな水音を立てて洗っていた。
店はさほど広くはなく、カウンターと、あとは小さなテーブルが三つほどあるばかり。郊外の開けた土地に立つ店としてはコンパクトだが、その数少ない席もさして埋まってはいない。だが、弱造は満足だった。常連たちが定期的に通ってくれるおかげで何とかやりくりできる程度の売り上げはある。僅かに蓄えも貯まり、定期的に夫婦で小旅行も楽しめている。
何の不満もない。良い生活だ。
そう思ったと同時に、戸口が勢いよく開かれる。現れたのはどの常連でもない、見知らぬ若者だった。
「よう、俺、ラーメン評論家のジギタリス三郎ってんだ。おたくのラーメンをちょいと拝見しに来たぜ。まあ、取材ってやつだ」
「ああ、その、ええと、いらっしゃい……」
如何に田舎の食事処とて、客商売の自覚が弱造にはあった。ついついお辞儀して、店内にその若い男を招いてしまう。それが、悲劇の始まりだった。
「ざけんじゃねぇぞ、なんだよこのクソ不味いゴミラーメンはよォ!」
出されたチャーシュー麺を口にしてものの二分ほど、ジギタリス三郎はカウンターに立つ弱造に叫び、食ってかかる。
「お客さん、一体どうしたってんです……」
「どうしたもこうしたもあるかヨボ爺よ、俺ァ色んなラーメン食ってきたがこいつはとびきり酷いぜ、とびきりだ。舌が半年煮込んだチャーシューみたく溶け出すところだぜ」
騒ぎの気配を察して、数名いた常連客達が何事かと顔を向ける。しかしジギタリス三郎はお構いなしに大声を発し続けていた。
彼はさっと懐からスマホを取り出すと、画面を弱造に向ける。最新機種の林檎スマホの画面には、どこぞのアホが乗っ取った無法地帯SNSの画面が表示されていた。ジギタリス三郎、と表示されたアカウント名を確認し、そのすぐ下に表示された数字を見て弱造はグッと喉が詰まるような恐怖に襲われた。フォロワー数、およそ200万。
「見ての通り俺は名の通ったラーメン評論家でよ。俺がネットに一筆書けば、こんな店吹き飛ぶって寸法さ」
「い、一体何を言っているんです!」
「何を言うも言わぬも無い。やるかやらねぇか、だ」
にやりと笑う口元の吊上がり具合、その邪悪さにしばし弱造はほとんど呆然としてしまう。一体何が起きているのか、つい先ほどまで穏やかな日々に浸りきっていたその精神は、現状の理解を拒み続けている。
「俺も鬼じゃねぇ。テメェが猶予をくれってんなら、考えてもいい。だが評論家として執筆が滞れば勿論収入が減るからよ、おまんまの食い上げになっちまうよな? その分は、補填してもらわねぇとなぁ」
ジギタリスの右手の指が、親指と人差し指だけで輪を作っている。極めて分かりやすいジェスチャ。ノンバーバルメッセージで日本円を表しつつ、ざっとこんなもんかな、と彼はスマホの電卓アプリに七桁の数字を表示してみせる。
「困りますよ、私達にそんな余裕はありませんから」
「俺は本物のラーメンってやつを食べに来たのによ、それがこんな不味いラーメンもどきを喰わされたんだ。文句があんならまともなラーメン出してくんなよ、本物のラーメンってやつをよ、えぇ?」
それとも永遠にお店とさよならするかい、それでもいいんだぜ――ジギタリスはにやにやと嗤う。表情にも所作にも愉悦がにじみ出ていた。弱造は悟る。この悪魔の狙いは、金銭ですらない。金か店の評判の破滅か、どちらにしろ悲惨な二択を突きつけることそのものだ、と。相手を踏みつける精神的優位の快感をこそ求めているのだ……。
項垂れた弱造が、最早やむなし、とカウンターの下で包丁を握りしめる。が、その時、またも勢いよく戸口が開く。
「話は聞かせてもらった」
太陽光をバックに、巨大な人影がぬっと敷居をまたぐ。偉丈夫というより他にない、身長二メートルを優に超える大男だった。シャツの上にジャケットを羽織っているにもかかわらず、その全身が見事な筋肉に包まれているのが一目で判る。二の腕など、替え玉をまとめて数人前詰め込んだような有様である。真っ黒い髪は頭頂部分が逆立ち、重力も慣性も無視してびしりと貼り付いたかのようにセットされていた。
アメリカハクトウワシの如き鋭い眼光が弱造のそれとかち合う。
「お客さん、今は」
と言い差して、弱造は気が付く。あまりに異様な迫力を背負った男を、弱造は知っていた。いや、弱造だけではない、ジギタリスも、妻の台詞無美も知っている。
およそラーメンに関わる人間であれば、食通であれ料理家であれ評論家であれ、誰もが知る男だった。
「まさか、地獄龍――」
ジギタリスがうわごとのように呟く。
「その通り」
男が頷く。金属に彫り込んだかのような険しい顔貌が今や店内の全ての視線を集めていた。
「俺は地獄龍流。ラーメン創作家だ」
幻のラーメンクリエイター、地獄龍流。伝説的なラーメン人間。業界で常に噂され続ける、孤高の調理人である。
地獄龍は、ジギタリスを見下ろして傲然と言い放つ。
「俺が、本物のラーメンを味わわせてやろう」
*
邪魔するぜ、と厨房に歩み入る地獄龍を、弱造も台詞無美も全く止めなかった。止めようという発想がそもそも沸いては来なかった。それほどに彼の動きは自然で、自信に満ち溢れていた。
彼は厨房に立つと、極めて素早い手つきで鍋を火にかけ始める。初めて来訪した店だというのに、地獄龍の動作はまるで何十年もこの店で働いてきたかのように迷いが無く、シャープで効率的な動きを弱造達に見せつけていた。
(だが、一体どうするというんだ)
弱造は内心で疑念と懸念を抱えていた。弱造の店にある材料はさほど多くはない。店のラーメンは、醤油ベースのシンプルな昔ながらの中華そばと、それを具材によってアレンジしたもの、即ちチャーシュー麺やワンタンメン程度のものしか出していないのだ。それらにしたって通を唸らせるようなものではない。あくまで地元の常連のための、安価な日常食だ。
これでは、今からラーメンを作るといっても、凝った創作ラーメンなど不可能ではないのか。そんな弱造の考えと同じようなことを、皮肉にもジギタリスも考えてるようだった。さっきまで嫌味と、勝ち誇るような快楽の笑みが貼り付いていた顔面に、ただ疑問符を浮かべている。
だが地獄龍はそんな二人の疑念などお構いなしに、余らせていたラードと、付け合わせを作るために使っていた揚げ油や炒め用の植物油を、まとめて寸胴鍋に入れていく。
「あぶらだけ、だと……」
ジギタリスが呻く。地獄龍は鍋に動物系の素材も野菜の類も入れず、ただ油脂ばかりを入れて、更に、そこに大量の銀色の粉末を投入した。
ラーメン制作の常識、いやおよそ一般の料理の常識から考えても異様な工程に、ジギタリスはひたすら困惑していた。弱腰な老店主を脅すだけのつもりが、一体自分は何を呼び込んでしまったのか――彼の顔にはそんな内心がそのまま浮き出ている。
「一つ、昔話をしてやろう」
ぼそりと、だが異様によく通る声で、地獄龍が呟く。
「ある男が、その昔、『本物のラーメン』を追い求めて果てのない探究へと踏み出した。そいつは麺に拘り、具材に拘り、スープづくりのために古今東西ありとあらゆる食材を片端から試していった。無数のラーメンが生まれ、無数の味わいが造り出された……だが、男は満足しなかった」
油ばかりの鍋が煮えて、鍋の中に泡が浮き上がる。
「何故なら、『本物のラーメン』なるものが何なのか、男自身にすら分かっていなかったからさ。追い求める何か、本当の、真のラーメンとは何か。男は考え続けた。お前には分かるか、ジギタリス三郎よ」
問われて、カウンターで地獄龍の向かいに座るジギタリスは何かを口にしようと唇を開きかけて、すぐに顔を強張らせて首を横に振った。
「分からんだろうな。その男にも分かりはしなかった。何故か。答えは簡単だ。そんなものは、最初からありはしないからだ」
最初から強火で加熱され続けた寸胴鍋の中では、油の中に銀の粉が混ざり合い、異様な銀光沢の色味が生じていた。店内には加熱された油の臭気が充満し始めている。
「ラーメンは自在だ。いや、そもそも料理というもの自体が、自由自在なんだ。これという単一の答えも真理もない。本物のラーメンなどと、そんなものはラーメンの可能性を狭める戯言でしかなかった。男は長い時間をかけて気づいた――もし本物のラーメンがあるとすれば、それは、あらゆるラーメンの中に微細に宿る、ラーメンの可能性の集合そのものだと」
地獄龍は鍋の中身をおたまで一掬いし、確かめる。凄まじい温度になった油脂が金属のおたまのなかでぐつぐつと煮えていた。
「そして男は、拘りのためにどんどんと装飾過剰になった己がラーメンから様々な要素を引き算していった。麺、具、出汁。何もかもをはぎ取って、最小限のラーメンを造り出した。ラーメンというものを引き算にかけた時、最後に残るものが何か、見極めようとしたんだ」
ギラリと、地獄龍の目が光る。禍々しくも美しい、落ちる星が燃えるような輝きだった。
「それで……何が残ったんだ」
エセ評論家であっても、どこかにその矜持が残っていたのか――つい堪らず、といった様子で、ジギタリスが問う。
地獄龍はそんなジギタリスに、にやりと笑ってみせた。
「これさ」
そうして彼は、発火寸前まで熱された油で満載の寸胴鍋を片手で軽々持ち上げて、ジギタリスに向かって中身をぶちまけた。
魂を委縮させるような絶叫が響き渡る。脂が飛び散り、卓上のお冷に接触して一瞬で沸騰させて弾ける。カウンターの塗装面が熱でめくり上がり、その下の木材がバリバリと音を立ててしなる。ジギタリスは椅子から転げ落ちて、床で叫び続けながら手足を狂乱した小虫のようにばたつかせていたが、やがて大人しくなった。
「暴力だ。残ったのは暴力。バイオレンス・ラーメンが完成したんだ」
弱造は、己と地獄龍の、料理人としてのあまりのセンスの差に敗北感を覚えることすらできず、ただただ圧倒的な発想力にひれ伏す想いだった。ラーメンだというのに、ありとあらゆる具材どころかスープの味わいすら捨てて、ただの熱した油にまで還元された究極のシンプルラーメン。こんな発想は、幻のラーメンクリエイターにしかできない……!
「さあ、どうだ。批評してみるがいい、俺のラーメンを」
ジギタリスは、びくびくと身体を痙攣させながら、弱弱しく地獄龍を見上げる。
「うぅ……助けて、金ならいくらでもやる、だから命までは」
あまりに陳腐な懇願だった。それを聞いた途端に、地獄龍は眦を吊り上げる。
「貴様、評論家を自称し老店主を脅迫しておきながら、いざラーメンを出されれば碌に食いもせず、あまつさえ金を渡して逃げようというのか。一体どこまで卑劣な奴なのだ!」
地獄龍は怒っていた。激烈な義憤だった。卑劣な相手にも正面からラーメンを出して、しかしその想いをすら裏切られたのだ。人間に残る一欠片の善性、ラーメン評論家としての魂の残りカスすらジギタリスには残っていない。こんな悪辣さがあってたまるものか――床に広がる油よりも熱く燃え上がる怒りの形相を浮かべた地獄龍の内心が、弱造には伝わってくる。
「お前など、こうだ!」
地獄龍は胸元からジッポライターを取り出して火を点ける。無論、地獄龍は料理人であるから、タバコなど吸わないはずである。弱造は悟る――地獄龍は、こうした時のために、日々備えて、わざわざジッポライターを携帯しているのだと。
地獄龍は点火したライターを、いささかのためらいもなくジギタリスに放り投げた。高温の油は一瞬で炎で包まれる。弱造と妻、それに客が一斉に外へと逃げるが、地獄龍は燃え盛るジギタリスの前に傲然と立ち続けていた。
ジギタリスは炎にのたうち回りながらも、何かの異変に気付いていた。傍若無人なジギタリスは面の皮が厚いため炎にはそれなりに耐えていたが、ただの炎ではない、異様な高温を察知したのである。
「ラーメンをただ食べるだけのものと見做したその固定観念がお前の限界だ、ジギタリス三郎」
地獄龍が宣告するがごとく言う。そして、指先にかすかに残った銀の粉末をジギタリスに見せていた。
「あれは、アルミ粉末だ」
客の誰かが言った。それで、弱造にも得心がいく。
テルミット反応。アルミ粉末と金属酸化物に着火することで急激な酸化還元反応が起こり、数千度の熱が生じる。
閃光が生まれ、輝きを強めながら何もかもを燃焼させていく。店の柱が燃え上がり、床のリノリウムもまた炎に包まれ、ジギタリスの腕のロレックスが溶解して液体金属となってどろりと手首から流れ出す。地獄の業火が天井を舐めまわし、ガラスが熱で歪み、煙の勢いで割れ爆ぜる。年代物の電灯が弾けてガラスが撒き散らされ、その破片が空中で溶けて赤熱した飛沫となって滴り落ちる。焦熱が龍となって荒れ狂い、全てを呑み込みその灼熱の咢で噛み砕いて灰へと変えていく。
これが、真のラーメン。
あまりの光景に、弱造は愕然とする。自分たち夫婦が歩んできた平凡な道の価値を否定するわけではない。だがしかし、ラーメンの可能性は、これほどのものだったのかと、ただただ驚愕する。腹を満たし日常の小さな娯楽にもなる、シンプルな中華そばを作り続けてきた弱造には見ることのなかった、見えなかった、ラーメンの新世界。なんという広い世界か。
「邪魔したな」
炎の中から歩み出て、かすり傷一つ負っていない地獄龍はそのまま歩み去る。何の言葉も、報酬も、喝采も求めず、むしろ拒否するかのように、分厚く広い背中を見せて、ただ去り行く。
遠ざかる男の背に、弱造は今頃になって思い出していた。地獄龍流のもう一つの異名を。
ラーメングラディエーター。怒りと共にあらゆる悪徳と不条理にラーメンで斬りかかる生粋のラーメン闘争者。彼は今日もどこかを放浪し、ラーメンを作り続ける。
完全に燃え落ちた店舗を振り返って、弱造は彼の闘いの苛烈さを想う。あの者は、ずっとこんな闘いを一人で続けてきたのだろうかと考えて、それから、スマホをポケットより取り出し、110番をしたのだった。
ラーメングラディエーターの戦いに終わりはない。世の悪にもまた終わりはないがために。そして刑法も彼を放ってはおかないだろう――戦え地獄龍、収監されるその日まで。
次回予告
日本の夏は暑い。進行する温暖化は既に人類の未来を大いに脅かしていた。このままでは安心してラーメンを食べ続けることもできない。「身勝手な人類め、麺を捨てて二酸化炭素だけを吸う気か!」環境問題に深く憤る地獄龍はネットで偶然、ラーメンに炭素を固定する装置を見つけて購入する。だがそれは悪辣な智慧者の罠だった。インチキ商品に騙された地獄龍は出品者の住所を突き止めながら、愚かな詐欺師に鉄槌を下すために自らもまたラーメンによる発明を行う。ラーメングラディエーター地獄龍流、次回第二話『穿て地獄龍! エコラーメン』




