クシャミが響く無人の書庫
挿絵の画像を作成する際には、「AIイラストくん」と「Ainova AI」と「Gemini AI」を使用させて頂きました。
この紫禁城は今でこそ我が中華王朝の王城で御座いますが、その歴史は一朝一夕に出来た物では御座いません。
何しろ我が中華王朝の前身である大清帝国だけではなく、漢民族の明朝でも王城として運用されていたのですから。
それ故に城内の各所には様々な逸話や伝説が眠っていましたし、曰く付きの品物もまた随所に転がっていたのでした。
中華王朝初代女王である私こと愛新覚羅紅蘭が直接目の当たりにしたあの一件もまた、そうした紫禁城に伝わる逸話の一つなのですよ。
それは紫禁城に入城した私が清朝の皇位請求権を行使する形で即位して以来、初めて迎えた冬の事で御座いました。
冬服への衣替えを済ませた女官達の間で、奇妙な噂話が囁かれるようになったのです。
「本当ですのよ、誰もいないはずの書庫の中からクシャミが聞こえたのです。あれ程に魂消てしまった事はなく、もう背筋に冷水を浴びせられたような思いを致しましたわ。」
こんな証言がまるで挨拶代わりに紫禁城で飛び交うのですから、自然と私の耳にも飛び込んでくるのですよ。
「宮中で働く女官達の間では、斯様な噂話が持ちきりのようで御座いますね。完顔夕華、この噂話を如何様に御判断なされますか?」
そこでこうして朝議の折に、腹心である太傅に意見を求めたのです。
「一件や二件だけならば、単なる聞き間違いや気の所為と片付ける事も出来たかも知れませんが…既に証言が二桁から三桁に迫ろうという勢いで御座いますからね。もはや捨て置く訳にも参りません。何かの凶兆やも知れませんし、斯様な噂話を放置すれば『紫禁城は御し易い』と不穏分子を調子付かせるやもしれません。速やかに事の真偽を見極め、適切な処置を取らなければ…」
少女時代からの付き合いである太傅の普段と変わらぬ理知的な返答は実に頼もしく、私も己の為すべきを落ち着いて見据える事が出来ましたよ。
そこで政務の合間を縫い、太傅と近衛兵を従えた上で件の書庫へ足を踏み入れたのでした。
己が居城の中で起きている異変も処理出来ないような人間に、一国の天子など務まりませんからね。
そして程なくして、不可解なクシャミの謎が解き明かされたのです。
「太傅、御覧下さい!書庫の奥より発見されたのですが…」
「これは西欧式の革装本では御座いませんか…えっ!?ああ、成る程。これは確かに…」
近衛兵より手渡された分厚い古書を検めた太傅は、納得したように頻りに頷いていたのでした。
「その本がどうしたのです、完顔夕華?一見した所では、西欧諸国の聖書や辞典のような普通の革製本に見えますが…」
「仰る通りで御座います、陛下。これは清代に西欧より渡来した革装の医学書…しかし表紙に用いられているのは人間の皮、それも病死した患者の顔の皮膚で御座います。」
太傅が此方へ向けた表紙を目にした時、私は反射的に呻き声を上げてしまいました。
ピッタリと閉じられた瞼と唇が、そこにあったからです。
触れれば体温や息遣いさえ感じられそうでしたよ。
「人皮装丁本、このような物が所蔵されていようとは…」
今日では行われてはいませんが、かつての西欧諸国では人間の皮膚を材料とする製本技術が用いられていたそうで御座います。
ところが我が中華王朝の前身である清朝にはそうした風習が存在しなかったため、この人皮装丁の医学書は献上されたものの紫禁城の書庫へは収蔵されず、漢族の高級官僚のコレクションとして保管されて今日まで至ったとの事。
辛亥革命や国共内戦を始めとする中華王朝建国以前の動乱で散逸しなかったのは、ある意味では奇跡と呼んでも過言では御座いませんね。
「陛下が清朝の皇位請求権を行使される形で中華王朝を建国された際、壊滅状態にあった書庫の蔵書を回復させるべく民達に古書を募られた事が御座いましたね。この人皮装丁本も、その時に紛れ込んでいたのでしょう。漢族の官僚の邸宅では適度な温度と湿度の下で管理されていましたが、紫禁城の書庫では他の本と同じ条件で管理されていましたからね。それと知っていたら適切な管理が出来たのですが、まだ蔵書整理の最中で御座いますからね。」
「この紫禁城の位置する北京の冬は殊更に冷え込みますからね。人皮装丁本も、さぞかし寒い思いをした事でしょう。」
確かに薄気味悪い話では御座いますが、さりとて人皮装丁本を打ち捨てる訳にも参りません。
人道的問題に繋がりかねないのは勿論ですが、始皇帝の焚書坑儒やバグダードの戦いにおける「知恵の館」の消失のような書物を蔑ろにする行為は、現代の国際社会の一員を自負する立憲君主制国家の君主として恥ずべき真似ですからね。
そこで西洋の聖職者と道教の道士による御祓いを行った上で、適切な保存の出来る博物院へと寄贈させて頂いたのでした。
それ以来、人皮装丁本がクシャミをするという不気味な噂が囁かれる事はなくなったそうで御座います。
自分達の価値観から見たら奇異に見える存在でも無闇に排除せず、適切な妥協点を見つけて共存の道を探る。
此度の怪現象で、そうした仁政に大切な心構えを改めて学ばされた次第で御座いますよ。




