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婚約破棄された聖女ですが、辺境の診療院で“役立たずスキル”が神技だと判明しました  作者: 妙原奇天


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第6話「門」

 朝露の粒が、村の四つの杭から杭へ渡した薄布にきらりと光った。布の目には細い糸が通っている。昨夜、私は木札に新たな綴りを縫った——名《門》、態《見極め》、返《開くべきときに開け/閉じるべきときに閉じよ》、供《眠らない夜、ひとつ》。供の半分は黒縄を退けたときに使い、残りは布の針目に置いた。


 試しに牛を一頭、畜舎から畑へ移す。黒い網が濃かった頃は、牛が境で足をこわばらせ、鼻息を荒くして後ずさった。今日はどうだろう。ローワンが手綱を緩め、ミナが牛の首を撫で、私は杭の前で掌を上げる。


 「——開け」


 布の糸目が、ひと目ぶんだけほどけた。牛が一歩、二歩。境をまたぐように首を伸ばし、何もない空気の匂いを嗅ぐ。背中の毛がざわりと逆立ち——次の瞬間、おとなしく蹄を運んだ。振り返ることもなく、畑の柔らかい土に鼻を下ろす。


 「通った……」


 ミナの声に、胸の奥の固さが少しほどけた。「門」は道の形を取る。開けるときは細く、閉じるときは静かに。双環の輪ではなく、木戸の蝶番を意識して縫ったのが効いたのかもしれない。


 午前中は診療で手が埋まった。古い背の痛み、子どもの擦り傷、木こりの指のひび。境が静かになると、別の痛みが顔を出す。私の灯りは小さい。小さいから、近くの痛みを取りこぼさずに済む。


 昼前、風に砂が混じった。村はずれの見張り台でトーマが手を振る。旅装の一団が、道に膝をついて咳き込んでいた。荷車には塩と蜜蝋。王都からの仕入れだというが、途中の町——灰の門で足止めを食らい、迂回路で黒の網に絡まれたらしい。


 「門が変わったんだとさ。許可印の布が双環に替わって、古い花印じゃ通れないって」


 旅の男が唇を青くして言う。胸がきしむ。王都の門に新しい結びが掛かったということだ。遠くで動く輪は、近くの息を締める。私は荷車の上の布をめくり、蜜蝋の塊をひとつ手に取った。蜂の体温を少しだけ残した匂いがする。村にはこれが要る。冬前の保存と灯に。


 「……通す」


 口が独りでに言っていた。ローワンが目だけで頷く。「王都西門に俺の印も利く。だが、門の結びが変わってるなら、言葉が要る」


 私は木札を取り出した。新しい札に糸を通し、短い文を縫う。名《西門の結び》、態《開け》、返《食と灯りの荷、村の歌の息とともに》、供《歩数三十と鈴二つ》。札の端に、村の四方の布と同じ針目をひと目だけ重ねる。それで「門」と「道」が家族だと分かる。


 「ミナ、鈴を二つ。トーマ、旅人の足を整えて。村の広場に寄って、歩数をみんなで三十踏んでもらう。息を札に通すの」


 「はい!」


 慌ただしさの中で、胸の底に冷たい水が流れた。遠い門に言葉を届けるのは初めてだ。けれど、門は門だ。蝶番の位置と、引き手の温度を知れば、開けられる。


     ◇


 西日が傾く頃、ローワンが旅人の一団を連れて出た。私が渡した札は、彼の胸の内側、鎖帷子の下、心臓の上に結んである。鈴は外套の下で布に包まれ、余計な音を出さない。トーマは見張り台に上がり、道の向こうを見守る。私は診療小屋の机に向かい、誰かの呼吸を縫うみたいに「門」の針目を確かめた。


 「エリシアさん……!」


 扉が開き、女たちが担いだ寝台が運び込まれた。若い女の顔が汗で濡れ、唇を噛んでいる。腹は高く張り、陣痛の波が短い。


 「——開かないの」


 傍らの婆が泣き笑いで言った。産婆は手を握り、眉間を寄せる。「骨盤は細くない。けれど、門が固い。力んでは戻る。戻っては痛む」


 門。私は頷いて膝をついた。掌の灯りは、いちばん近い「門」を見つけるためにある。名《命の門》、態《開け》、返《母と子へ》、供《歌三拍と蜂蜜水》。ミナが蜂蜜を薄く溶かし、産婆が女の背を支える。私は女の手に手を重ね、低く三拍の歌を紡いだ。古い子守歌を借り、導灯祓の節を混ぜる。


 灯りは、皮膚の表をなぞるのではなく、骨の蝶番に触れる。蝶番は恐怖で固まり、痛みで熱を持つ。私は糸を細くして、蝶番の隙に通した。閉じている理由をほどく——「ここで開いて良い」という許しを言葉で縫い込む。


 「いま、開くよ。息を、下へ」


 女は泣きそうに笑い、深く息を吐いた。蝶番が緩む。波が来る。産婆がうなずく。女は叫ばず、押す。ミナが額の汗を拭く。婆が祈る。私は糸を緩めず、返を繰り返す——母へ、子へ。やがて、小さな声が、ぬるりと滑って空気へ出た。初めの泣き声は短く、強かった。


 「——おめでとう」


 産婆が笑い、母が泣いた。私は掌の痺れを胸に引き、女の髪を撫でた。「よくがんばった。門は、開けるべきときに開く」


 子を抱いた母が、弱く頷いた。その頬に、灯りが薄く映る。さっきまで固く閉じていた蝶番が、やわらかい場所へ戻るのを見るのは、祈りに似ていた。


     ◇


 夕餉の煙が屋根から上がる時分、見張り台から歓声が下りてきた。ローワンの一団が、塩と蜜蝋を載せたまま戻ってくる。村の入口で鈴が二度、礼の間を置いて鳴った。


 「通ったの?」


 駆け寄ると、ローワンが札を外套の内から取り出して見せた。木札の端は少し焦げ、針目はところどころに煤が入っている。けれど、生きて戻ってきた。


 「西門は新しい双環で固められていた。門番の文官が『命令』の文を掲げたが、札を見せると目が泳いだ。鈴二つで『礼』の合図を送り、歩数三十を門の前で踏むと、蝶番が鳴って、門の綴りがひと目ぶんほどけた。荷だけ通すと書かれていたから、そのまま通った。——Jの印を押した通行札を渡された」


 渡された板札の端に、細いJの字が焼き印で刻まれていた。跳ねが長い。私が朝に見た紙の「J」と同じ癖。裏には「七十七日の礼を尊ぶ者に限る」と浅く刻まれている。


 「見られているな」


 オットーが板札を透かし、鼻を鳴らした。「門は、開いたぶん、名も向こうへ渡した」


 「良いの?」


 ミナが不安げに見上げる。私は板札を掌に載せ、針目を一目、重ねた。


 「門は道。道は往還。行くだけでは足りない。戻ることが入って、やっと呼吸になる」


 言いながら、胸の奥で静かに灯りが強くなるのを感じた。遠い門で言葉が通じた。こちらの歌と歩数が、あちらの綴り目に届いた。礼は、まだ動く。


     ◇


 夜。机の上の巻紙が、また微かに光った。焦げ目の手前に、銀の文字がひとつだけ浮かぶ。


 《——かんぬき


 門を留める横木。開閉の要。私は木札を一枚取り、糸を通した。名《閂》、態《掛けよ/外せ》、返《息が行き来するとき》、供《歩数七と鈴一》。これは、村の夜のために縫う。黒の縄が落ちる夜に、門の蝶番だけでなく閂を意識しておきたい。開けすぎないために。閉じすぎないために。


 縫い目が静まりかけたそのとき、窓に薄い影が映った。井戸端の方から、鈴が一度だけ鳴る。高すぎず、低すぎず。私は戸を開けた。


 白が立っていた。杖は持たず、両手を見える位置に。手首の輪は、朝よりさらに緩い。フードの奥の目が、こちらを見る。


 「門は、通した。礼は、呼吸をした」


 「西門にJの焼き印があったわ」


 白は一瞬、目を伏せ、頷いた。「Jは、門の閂にも触れる。——内が開けば、外も開く。外が閉じれば、内も閉じる。双環の片輪が、喉に降りないように」


 「あなたは、どちらの輪にいるの」


 問いは刺すつもりはなかったが、刺のように響いた。白の口元が痛く笑い、すぐに静まる。


 「輪の縫い目にいる。どちらの色にも染まらない糸。祈りを数え、礼を覚え、息を盗まないための糸」


 白は薄い紙を差し出した。水に溶ける紙。そこに、簡単な門の綴りが書かれている。名《内門》、態《見極め》、返《灯と食》、供《双鈴》。紙の端に、針のように細い字。——《門番の印司しるしのつかさがJと同じ手。名はまだ、言わない》。


 「——門番の印司」


 私は復唱した。門に押す印、その順序、その掛け替え。その掌に力がある。白は小さく頷き、井戸から水をひと掬いし、地に返礼を落とした。


 「七十七日の礼まで、門を息で保って。双環の内は、わたしが」


 白は鈴を一度鳴らし、闇に溶けた。白の去った後、窓の外で小さな羽音。梟が枝をふるい、遠くで犬が一声吠える。


     ◇


 翌朝、村の子たちは広場で歩数七を楽しげに踏んだ。ミナが鈴を鳴らす合間に、私は杭に「閂」の札をかける。門の蝶番が息をし、閂が息を止め、また解く。開けて良いときは、自然に開く。閉じるべきときは、静かに閉じる。呼吸の仕組みを外に出しただけだ。


 そこへ、灰色の外套の文官がひとり、馬で現れた。前回の文官とは違い、外套の襟の双環刺繍は綺麗だ。糸の張りが均一で、輪の交点の糸が重なっていない。礼の手が結んだ輪だ。


 「王都監察院より。筆頭司祭セシリアの口上を伝える」


 文官は馬から下り、巻紙を差し出した。封は一重、銀印のみ。針金の節は祈りの形で、隠した命令はない。私は灯りで軽く撫で、封を開いた。


 《——礼を守り、息を返すための道を支える。西門への往還について、歩数三十と双鈴を公の礼とする。門番の印司にひとまずの教令を出した。名は、まだ書けない。——セシリア》


 「公に、したの……」


 ミナが小さく声を漏らす。公になった礼は、守られる代わりに、見られる。良いことも悪いことも。ローワンは短く頷き、文官に礼を返した。


 「門は、道だ。——道は、往還だ」


 自分に言い聞かせるように口にすると、掌の灯りが、針目ひと目ぶんだけ強くなった。


     ◇


 夕刻。境の布は静かだった。黒の縄は落ちない。代わりに、村の子が結んだ白い糸が、井戸端で揺れている。糸の結び目を私は礼で整え、双環ではなく、小さな輪をひとつだけ加えた。開くための輪。閉じるための結びは、閂に任せる。


 机に戻ると、板札の端に焼かれたJが目に入った。跳ねが長い、あの手。門番の印司。双環の内。白の言葉。


 私は、新しい木札を取った。四隅に糸を通す。名——《Jの手》。態——《見極め》。返——《灯の下》、供——「蜂蜜ひと匙と、夜の読書ひと刻」。灯りは、名を欲しがる。けれど、焦ってはいけない。名は、相手の息に触れてからでないと、結びを違える。


 札を机に置くと、窓の外で鈴が二つ鳴った。礼の間を置いて。見張り台でトーマが手を振る。西の道で、旅人が二組すれちがった。村へ来る荷車と、村から出る牛車。互いに鈴を鳴らし、歩数を合わせ、門の前で息を揃える。門は、開くべきときに開き、閉じるべきときに閉じた。


 私は深く息を吸い、掌を下ろした。掌の灯りは細く、強く、道の針目に沿って伸びている。双環の輪は、まだ村の外にある。けれど、門はここにある。閂もある。息は通う。礼は学ばれる。


 ——次話「印司しるしのつかさ」。王都の門に座す“J”の手が姿を現し、双環の内側の綴りが動く。村の門は閂を覚え、往還の道は初めて遠客を迎える。

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