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婚約破棄された聖女ですが、辺境の診療院で“役立たずスキル”が神技だと判明しました  作者: 妙原奇天


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第5話「双環」

 眠らない夜、ひとつ——それを供にすると決めたから、私は灯りを細く伸ばしたまま、診療小屋の窓辺に座っていた。灯りは揺れず、糸のまま、夜気の中に静かに張り出している。村の四方の木札は息を合わせ、薄い布が境にかかっている。犬が二度吠え、すぐ黙った。遠くで川がひそやかに石を押す音。


 眠らないと、頭の奥に余白ができる。昼間は詰まってしまう細い裂け目に、灯りがするりと入り込む。私は掌を裏返し、糸の先に二重の輪を結ぶ真似をした。輪は、わずかにずれる——双環。輪の向きが違えば、かかる息も違う。森の息と村の息、宮廷の息と庶民の息。輪は、重なれば美しい。ずれれば、人を締める。


 東の空が薄く灰色になる頃、糸の先に小さな影がふれた。鳥ではない。布。そっと窓枠にかかる感触。私は糸を細く緩め、布を指先で受け取った。白い布片に、小さな結び——双環。輪のひとつが、ほんの紙一枚ぶんだけ、内へ寄っている。宮廷の礼で使う“正”の結びではない。迷いの癖がある。


 「——起きていらしたのね」


 戸口の向こうから、息を殺した声。私は立ち上がった。音は軽い。鈴のように高くはないが、重くもない。扉を開けると、白のフードがひとつ、井戸端の影に溶けていた。杖は持っていない。両手は見える位置にある。細い手。指の節に、擦れた跡。祈りの珠に触れる癖のある手だ。


 「昨夜の礼は、礼だったのね」


 私が言うと、フードの奥がわずかに頷いた。


 「礼だけで、足りるなら。……足りないから、来た」


 声は若い。女——に近い。私は視線を落とした。白い手首に巻かれた細い紐。双環。その輪の交わるところに、小さな留め金。黒ではない。鈍い銀。王城の鍍金とは違う、神殿の工房の手。


 「それ、痛いでしょう」


 白は少し笑った。「痛い、という言葉を、灯りはよく知っている」


 私は掌を上げた。「——ほどく。全部じゃない。息ができるだけ」


 白は静かに手首を差し出した。私は微光を糸にし、灯綴の四つの柱を、指先の中で小さく立てる。名は《白の輪の留め》、態は《緩め》、返は《皮膚の下へ》、供は——「私の夜、あと半分」。糸が留め金のくぼみに触れ、わずかに鳴った。銀は強情だが、礼の上に乗っている。高慢ではない。輪が一息ぶん、緩む。白の肩が、目に見えないほど落ちた。


 「息が入った?」


 白は頷いた。フードの内側の影で、目がこちらを見る。その目は、昨夜谷で見た迷いの色と同じだった。


 「あなたは、王都の……神殿の人?」


 「そう。——王城神殿。礼と結びと、祈りの帳簿を預かる役」


 祈りの帳簿。王の誕生日の鈴の数、死者の名、水の流れ、季の移ろい、返礼の順序。王都はそれで回る。私は喉が乾くのを、井戸の縁を握って堪えた。


 「黒と一緒にいるのは、望んだから?」


 白の指が、留め金の跡に触れた。指の腹に、僅かに硬い皮。祈りより、紐に触れてきた指。


 「望まなくても、繋がれてしまう時がある。王都は、輪を好むから」


 「輪は礼にもなる。——けれど、締める輪もある」


 白は頷いた。フードが揺れ、影の中の口元がかすかに痛む。


 「あなたの灯りは、見過ぎる。……王都へ戻ってとは言わない。今は。戻れないことも、分かる。代わりに——内を見て。双環の内側に、誰の手があるか」


 白は小さな紙を出した。紙は薄く、水に溶ける紙。そこに結びの図が、二つだけ描かれていた。ひとつは、昨夜水に写った双環。もうひとつは、それをほどく逆の節。紙の端に、針のように細い字。——《J》。


 たった一文字。けれど、その癖は、見覚えがある。王宮の文庫で見た帳簿の余白、献立表の端、礼賛歌の譜裏。Jという筆を、王都で持つ者は多くない。殿下の側近のひとり——侍従長の筆は、斜めに入る。神殿監察院の若い副官は、跳ねが短い。このJは、跳ねが長い。礼法の教本の書き手に近い手癖。


 「名は、まだ言わない」


 白はそう言い、フードを深く被り直した。影の奥で、目が一度だけ笑った気がした。


 「王都の礼にも、息を」


 白は井戸から一杯の水を掬い、輪が緩んだ手首でその水を地に返した。返礼。それだけを置いて、白は森の方へ去った。足音は軽い。双環の片輪を、内へ寄せたまま。


     ◇


 朝の光が村を起こした頃、ローワンが戻ってきた。監察院への返事は送り終えたという。夜明けの道は冷たく、人の少ない王都の外れ道を、彼は目を逸らさずに見てきた。


 「王城の門の前で、侍従の列が動いていた。礼装の裾に双環が刺繍されている。昔は、花だった」


 「輪に変わったのね」


 「礼を掛け直したのだろう。王妃選定の仕切り直しと関係がある」


 王妃。胸の奥がひやりとした。——私は、その輪から落ちた。いや、外された。それでいい。輪の中の息が届かない場所に、灯りは残っていた。私は井戸端の白い布片を見せ、Jの紙を渡した。ローワンの顔が険しくなる。


 「名が出せる。だが、今は出すべきではない」


 「双環の内で、礼に迷いがあるなら」


 「一気に引けば、輪が切れる。切れた輪は、喉に落ちる」


 言葉の比喩が、現実に直結する気がした。私は頷く。見極める——それが今の灯綴の名だ。


     ◇


 午前、診療小屋は忙しかった。網が薄くなって見えるからこそ、別の痛みが浮かぶ。背中の筋、指のひび割れ、古い傷の天気痛。小屋の扉には、白い糸が一本結ばれている。村の子が結んだ。「開いている」の印だという。可笑しくなって笑い、糸の結び目を礼に合わせて整えた。


 昼前、馬蹄の音。砂を巻いて、銀の胸甲が陽を弾く。王都騎士団。ローワンが外へ出て、短い言葉を交わす。騎士は二人。もう一人は、文官。手に筒。封蝋は赤、上に銀。二重の封——宮廷と神殿。胸が痛いほど、既視感。


 「聖女候補エリシア・ハーヴェイ殿に。拘束……ではない。保護の名のもとに、王都へ」


 文官の声は淡々としていた。けれど、筒の封の奥で、針金がわずかに動くのが見えた。呪封。私は掌をかざし、灯りを細い糸にして針金の節を撫でる。ほどかない。読む。節の向こうに、布の匂い。礼の言葉に紛れて、命令の綴り目。双環の片輪を強く引いて、相手の首にかける手口。


 「これは、命令文です。保護ではありません」


 私の言葉に、文官の顎が少し上がった。ローワンの手が、剣の柄に落ちる。騎士の片方も、眉を寄せた。


 「——灯綴」


 私は静かに四つの柱を立てた。名は《この文の結び》、態は《暴く》、返は《読め》、供は——「私の名、もう一文字」。リ。胸の中で、またひとつ、穴が空く。痛む。けれど、読めた。文の綴りが裏返り、命令の句が露になる。押収・拘束・移送。文官の瞳が揺れた。


 「監察院の銀印が、偽だ」


 ローワンが低く唸った。騎士が文官を見た。文官は言い訳を探すように唇を開きかけ、閉じた。双環の刺繍が、彼の外套の襟に粗く縫いつけられている。礼の手ではない。


 「戻って。王都の礼は、礼で出直して」


 私はそう言って、鈴を一度だけ鳴らした。礼の場では、鈴は閉じの合図だ。騎士は片膝をつき、文官は顔をしかめ、筒を下げた。ローワンが一歩前に出る。


 「ここは診療小屋。息を奪う文は、入れない」


 騎士は目だけで頷き、文官の腕を軽く引いた。馬蹄が遠ざかる。私は肩の力が抜けるのを感じ、椅子に腰を落とした。掌のひらに、**“エリ”**が並ぶ穴。名は、灯りにも重い。


 「お嬢様……」


 ミナが湯を差し出す。蜂蜜の香りが、穴の縁にやさしい膜を張った。オットーが器を撫で、トーマが窓から外を覗く。村長は槍を壁に立てかけ、黙って頷いた。


 「今のは、始まりに過ぎん」


 オットーが静かに言う。「双環の片輪が、村へ伸びてきた。だが、礼はまだ死んでおらん」


     ◇


 夕刻。境の布が鳴った。昨日の綿毛ではない。縄。太い黒縄が、上から落ちた。布ごと引きちぎる力。私は走る。ローワンも、トーマも。村長が杭を押さえ、ミナが鈴を鳴らす。鈴は高く、遠くまで。


 黒縄の芯に、爪がある。蛇の鱗の並びではない。人の爪。指の跡。結びの指が、直接来ている。——黒。


 私は布の前に膝をつき、灯綴の名を変えた。名——《結び手》。態——《待て》。返——《自らの輪へ》。供——「眠らない夜、残り」。私の視界が端から黒くなる。眠気が、ではない。夜が、灯りの中に沈む。糸が太る。待てという言葉が、布を通じて縄の芯に刺さる。爪が止まった。黒縄が重く下がり、布の上で沈黙する。


 「——今」


 ローワンの声。トーマの矢が芯の結びを射抜き、ミナの鈴が返礼の二音を刻む。私は器に雷苔を薄く広げ、黒の意味だけを掬って眠らせた。縄は砂に崩れ、布の裂け目は、私の糸で繕われる。膝が震える。眠らないという供は、身体の芯をごっそり持っていく。けれど、言葉は立った。


 その時、鈴の音に交じって、別の澄んだ鈴が響いた。森の際。白だ。影の中で、白のフードが杖を横にして立っている。杖の先の紐束は、白が多い。白は、鈴を二度、短く鳴らした。礼の合図。——境の向こうから、礼で出てきた。


 「七十七日の礼は、生きている」


 白の声は、谷の時よりも近い。私は頷いた。白の手首の輪は、朝より緩い。私は白の影に、双環の紙のJが揺れるのを見た。白は一瞬だけ目を伏せ、杖の先で地を軽くなでた。双環が二つ、地面に描かれる。輪と輪の交点に、小さな穴。逃げ道。白は私を見た。


 「内は、内側から。外は、あなたが」


 それだけ言って、白は鈴をひとつ鳴らし、森の影に消えた。黒の気配は引いた。境の布が、軽くなる。


     ◇


 夜。診療小屋に、村長と組合頭たちが来た。井戸の白糸を結んだ子も、母親に手を引かれて来た。ローワンは壁に背を預け、トーマは扉の外。ミナは湯を配る。オットーは器のひびを撫でる。


 「診療小屋は、村の灯だ」


 村長の声は短く、強かった。「白鹿の角の欠片を、印に持ってほしい。村の守り手の印だ。昔は祠の人間が持っていたが、今は誰も居らん」


 差し出されたのは、掌に隠れるほどの白い角の欠片。縁は磨かれ、中央に小さな穴。糸を通せる。私は胸の奥が熱くなるのを抑え、深く頭を下げた。


 「——預かります。礼を守り、息を返します」


 角片を掌に載せると、灯りが静かに強くなった。神技という呼び名の重さが、少しだけ形になって指に乗る。落とさないように、糸で結ぶ。


 夜更け、ローワンが机の上の巻紙を指さした。銀の文字が、焦げ目の手前にひとつだけ浮かぶ。


 《——もん


 門。輪ではない。開きでもある。出入りでもある。見張りでもある。王都の門。村の門。境の門。私は木札を取り、四隅に糸を通した。名——《門》。態——《見極め》。返——《開くべきときに開け/閉じるべきときに閉じよ》。供——「私の夜、もうひとつ」。


 「眠らない夜を、ふたつ?」


 ミナの声に、私は笑った。「今夜は、眠れる。明日に、もうひとつ置く。七十七日のあいだに、二つの門を覚えたい」


 ローワンが頷いた。「王都にも、門がある。内から開ける者と、外から押し開ける者。Jは、どちらだ」


 私は白の置いた紙の一文字を見つめた。J。跳ねの長い、その手。双環の向きを決める手。門に手をかける者。


 「見極める。——双環の内側で」


 掌の灯りは、細く、強かった。糸は震えず、門の針目を、ひと目ずつ、丁寧に縫い始めた。


 ——次話「門」。王都と村、二つの門が同時に軋み、Jの手が見える。灯綴は“開閉”を覚え、微光は人の往還に道をつくる。

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