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婚約破棄された聖女ですが、辺境の診療院で“役立たずスキル”が神技だと判明しました  作者: 妙原奇天


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第2話「黒筋の正体」

 夜の空気は、昼より冷たく鋭かった。青年——トーマが扉の前で肩で息をし、私の袖を掴む。


 「こっちです!」


 診療小屋から駆け出すと、土の匂いが濃くなる。月は薄く、星ばかりが明るい。トーマの家に入ると、藁敷きの寝台にエミルが横たわっていた。昼間より痩せたように見える。右脇腹から胸の方へ、墨汁をこぼしたみたいな黒い筋が一本、皮膚の下を走っている。


 息は荒く浅い。額は熱いのに、指先は冷たい。悪い兆候だ。


 「水と炭は?」


 「飲ませました。さっきまでは落ち着いてたのに、急に黒い筋が……」


 ミナがすでに台所で湯を沸かしていた。オットーも駆けつけて、包帯と清潔な布を広げている。私は袖をまくって膝をついた。


 「エミル、聞こえる? いま、手を置くね」


 少年の睫毛が微かに震える。私は掌を脇腹に近づけ、【微光治癒】を呼んだ。柔い光が揺れ、皮膚越しに流れ込む。黒い筋の縁が、霞んだようにぼやける。押し返してくる何かがいる。昼間と違う。毒が“起きている”。


 ——押し込まない。囲む。


 私は光の幅を変え、筋の周囲を細い輪で囲むようになぞった。冷たい川の流路を、細い石垣で区切るイメージ。黒は、嫌がるように身をよじる。よじれた瞬間、筋の奥に固い棘の感触。……刺さっている?


 「オットーさん、塩をひとつまみ。灰を少し。——それから、さっき森の端で見た青白い光、あれの正体は?」


 老人は眉を上げ、すぐに頷く。


 「ここの森の“雷苔いかずちごけ”じゃ。稀に地脈が擦れる夜、地を這うように光る。毒や瘴気を吸って育つ」


 「どこで手に入りますか」


 「境の倒木の側だ。だが夜は危ない。黒縞が出る」


 トーマが立ち上がる。「行きます、俺が採ってくる」


 「だめ。見分けがいる。——ミナ、ここで光を保つから、私が行く。二人は、体を冷やしすぎないように気をつけて。炭をもう一度薄めて、少しずつ」


 「お嬢様——」


 ミナの声を背に、私は外套を羽織った。トーマが「俺も」と短く言って肩を並べる。オットーが松明を手渡してくれた。


 村外れの小径は、昼にはただの畔道だったのに、夜は獣の通り道のように見えた。草の先に露が光り、土の上に細い銀の糸が無数に走る。耳が、森の呼吸を聞き取る。遠くの梟。枝の軋み。どこかで小さなものが走る音。


 森の境で、地面に青白い筋が現れた。稲妻の残り火のような線が、地を這っている。触れると、熱くも冷たくもなく、ぬるりとした感触があった。


 「これだ」


 倒木の影に、苔が薄く張り付いて光っている。私は小刀で少しずつ削り、木皿に集めた。指先に痺れが上がる。吸い込まれているのは私の光か、周りの瘴気か。


 ——コツ、コツ。


 乾いた音。振り返ると、黒い影が地面を這う。蛇だ。月光を吸い込んだような鱗に黒い縞。頭を持ち上げ、舌先が二度、空を裂く。トーマが松明を振る。蛇は怯まず、むしろ火を避けて私たちの横を滑るように回り込む。


 「近づくな」


 私は足を止め、掌を上げた。微光を強め、蛇の目にかざす。蛇は一瞬、目を細めたように頭を傾げ、舌を引っ込めた。視界の端に、もう一本。二匹。三匹。森の暗闇から、黒い線が音もなく押し寄せる。


 ——数が多い。


 トーマが身を低くして松明を振り払い、私は苔の皿を胸に抱えて下がった。蛇の動きは妙に揃っていて、火より光を避ける。光を嫌う。燻んだ闇が、蛇を通じてこちらを見ている気配。背筋に寒気が走る。


 「引くよ」


 「うん」


 手短に頷き、私たちはゆっくりと後退した。蛇は追ってこない。一定の境から先へは来ない。見えない線があるのだ。森と村の間の、境界。


 「戻ろう」


 呼吸が整ったのは、村に灯りが見えた時だった。私は皿を抱えたまま走り、トーマの家に飛び込む。ミナがすぐに鍋と乳鉢を出し、オットーが酒を少し注いで苔を潰す。匂いは弱いのに、鼻の奥が痺れる。毒を食う者の匂い。


 「これを傷の周りに薄く——あ、待って。……光を先に」


 私はエミルの脇腹に手を置き、微光で黒い筋の縁をさらに細く囲んだ。筋はまるで生き物のように、逃げようとして別の毛細路へ潜ろうとする。私は追わない。逃げ道をわざと残しながら、中心に向かって細い堤防を積み直していく。囲い込んで、出口をひとつに。


 「今、そこ」


 ミナが雷苔の膏を、私が開けた細い出口に乗せる。苔が黒に触れた瞬間、膏が微かに明滅した。黒い筋がピクリと震え、糸を引かれるように滲み出す。私は光で道を照らし、苔の方へ導く。黒は、薄墨になって流れる。皮膚の上に現れ、苔に吸われ、消えていく。


 「——!」


 エミルが息を呑む音がした。瞼が震え、口の端が僅かに緩む。黒い筋の色が、目に見えて薄くなっていく。私は額の汗を拭う暇もなく、光を保ち続けた。手が痺れる。視界が狭くなる。ミナが肩を支える。トーマが黙って布で私の額を押さえ、オットーが包帯を用意する。


 最後の黒が滲み出たとき、苔の明滅は止まった。膏は灰色に変わり、ぱたりと光を失う。私は光を絞り、傷の周りを一度温め、血の巡りを整える。脈がゆっくりと、確かに打っている。指先の冷たさが戻ってきた。


 「終わった……のか?」


 トーマの声は涙を飲み込んでいた。私は頷き、苔を薄く塗り直し、清潔な布で覆って包帯で固定する。


 「峠は越えたと思う。熱は下がっていくはず。水を少しずつ。夜中に一度、汗を拭いてあげて」


 「ありがとうございます、ありがとうございます……!」


 トーマが何度も頭を下げる。オットーが、使い終わった乳鉢の底を指でなぞり、黒い粉を見つめた。


 「見ろ、エリシア」


 粉末の中に、砂粒より少し大きい黒い欠片があった。光を当てると、欠片の中に細い線が組まれているのが分かる。……紋のような、編み目のような。


 「これは、蛇の毒じゃない」


 私の口から、自然に言葉がこぼれた。「毒に乗った“呪い”だ。流れるように見えて、芯に留まる棘がある。光で輪郭を浮かべないと見えない。——だから、薬草だけじゃ外れない」


 「呪いを蛇に乗せる輩が、近くにいるということか」


 オットーの目は暗かった。村長が呼ばれてきて、事の次第を聞くと顔色を変えた。


 「この春に入ってから、家畜が痩せるのが早いと思っていたが……森に入っていた木こりも腕を黒くして戻ってきた。もしや、全部」


 「森の境で、蛇が群れていました。光を嫌います。……境の向こう側に、『線』があった。越えてこない線です」


 「結界か、縄張りか」


 オットーは頷き、顎鬚を撫でる。「いずれにしろ、森は荒れておる。地脈もな」


 私は小さく息を吐いた。掌を見下ろす。微光は弱い火種みたいに、まだ震えている。先ほど苔に吸われた痺れが、指先に残っていた。光は、小さいほど近くが見える。近くが見えるから、細かい網目を解ける。私にできるのは、きっとそういう仕事だ。


 「エミルが落ち着いたら、明るい時間に境を見に行きましょう。苔をもう少し確保して……境の『線』の正体を確かめたい」


 村長は逡巡し、深く頷いた。「わしも行く。勝手は許さんが、村のことだ」


 トーマも顔を上げる。「俺も。森の小道は知ってます」


 私が頷くと、ミナが小さく笑った。「お嬢様、顔色が真っ白です。いったん戻りましょう。温かいものと、蜂蜜入りのハーブを」


 言われて初めて、膝が笑っているのに気づく。私は立ち上がり、トーマの家を後にした。夜風が頬を撫でる。星が、先ほどより少し遠い。


     ◇


 明け方、診療小屋の戸に、乾いた音が二度、三度。目を覚ますと、扉の隙間に薄い何かが差し込まれている。拾い上げると、黒い紐が編まれて、蛇の形になっていた。尾の先が結び目で輪になっている。編み目は細かく、肉眼では分からないほどの模様が埋め込まれている。


 「何、それ」


 眠気をこすりながら出てきたミナが覗き込む。私は編紐をひっくり返し、掌の上で微光を灯した。黒い編み目の奥で、さざ波みたいに光が乱反射し、細い細い“字”が浮かんだ。


 ——ミルナの森へ立ち入るな。


 荒い文字。けれど、間違いない。誰かが、読む相手を指定して投げてきた。村の入口に、誰かが昨夜のうちに立っていた。こちらを知っている誰かが。


 「脅し……でしょうか」


 ミナの声が震える。私は首を振った。


 「脅しというより、警告。境を越えたら、次は容赦しない、という」


 「……どうしますか」


 私は編紐を布に包み、棚の奥にしまう。胸の中で、微光が波立った。怖い。けれど、放っておけば、次のエミルが出る。誰かの弟、誰かの母、誰かの名もない人が、あの黒い筋に飲み込まれる。


 「行きます。昼。日が高いうちに。……オットーさんと、村長と、トーマと一緒に」


 ミナは強く頷いた。私は手帳を開き、雷苔の量、包帯、清潔布、塩、炭、酒、鉤縄、小刀、火打石——必要なものを書き出す。書き出すと、不思議と手が動いた。怖さが、段取りの中で小さくなる。


     ◇


 昼の陽は、森の手前で柔らかく割れた。村長、オットー、トーマと私、そしてミナ。五人で境に立つ。昨日の青白い筋は消えていたが、空気に薄い焦げの匂いが残っている。倒木の側には、昨日削った苔の跡。新しい苔が薄く生えている。生えるのが早い。


 「この辺りに——」


 言いかけたとき、足元の土がわずかに沈んだ。踏んだのは、草の根に紛れた黒い糸。靴の底を通じて、冷たい震えが脛を駆け上がる。私はすぐに足を引いた。黒い糸は土の中に潜り、見えなくなる。


 「見えるのか?」


 トーマが訊く。私は膝をつき、掌を地面に近づけた。微光が、土の粒の間を満たす。薄い光の膜が、毛細血管のような通り道を浮かび上がらせる。網の目。網の目に、ところどころ黒い節。その節は、結び目だ。編紐の結び目と同じ構造。誰かが結っている。地面に、呪いの網を。


 「“結界”じゃな」


 オットーが低く言う。「入る者に毒を流し、出る者は痩せさせる。獣も人も、森の都合に縛るために」


 「森の都合、ではないかもしれません」


 私は顔を上げる。「人の手です。編み目が、神殿の古文書にある“結び目祓い”に似ている。けれど逆。祓うんじゃなく、留めるための結び」


 村長が顎をさすった。「誰がそんな真似を」


 答えようとしたとき、森の奥から乾いた枝の音。二歩分ほど先の梢が揺れて、灰色の外套の人物が現れた。顔は深いフードで見えない。右手に、黒い枝——いや、細く削った杖。先端に黒い紐の束がぶら下がり、風に揺れている。


 「森は、返してもらう」


 低い声。男とも女ともつかぬ、乾いた響き。外套の裾に、編み紐と同じ蛇の意匠が刺繍されている。私が一歩踏み出すと、相手は杖を軽く振った。地面の黒い糸がピンと張り、足元の土が波打つ。


 「下がれ!」


 トーマが私の前に出た。だが、相手は私だけを見ていた。フードの奥の視線が、掌の光を測るように細くなる。


 「微光の聖女。——お前の灯りは、よく見える」


 掌のひらが、勝手に強く脈打った。呼吸が浅くなる。けれど、逃げるわけにはいかない。私の灯りは小さい。小さいから、近くの結び目が見える。


 私は掌を地面すれすれに下ろし、細い環を結んだ。黒い糸の一部が光の輪に絡まり、ほどける感触。相手の杖の先が、わずかに震えた。


 「……面倒な手を覚えたな」


 フードの下で、口元だけが笑った。


 「ならば、手向けを」


 黒い紐束が空に放たれ、地面に雨のように降った。無数の糸が足元へ走る。私は息を吸い、光を薄く、広く、地面一面に展げる。糸の流れを見分け、結び目だけを逆結びにほどく。光は弱い。弱いから、細い仕事ができる。ミナが背を押す。オットーの声が聞こえた。「焦るな。節だけを切れ」


 糸の雨が終わるころ、フードの人物は一歩、森の奥へ退いていた。杖の先の紐束は半分に減り、残った紐が風に鳴る。


 「今日は、それでよい」


 「二度と、村に呪いを」


 言い終わる前に、相手はフードを深く被り直した。


 「二度と、森を荒らすな」


 低い声。次の瞬間、足元の地面がふっと軽くなった。黒い糸は、私の光の下で砂のように崩れ、風に運ばれて消えた。相手の姿も、霧のように木々の間に溶ける。ただ、残り香のような冷えだけが、皮膚に貼りついた。


 「今のは……」


 トーマが杖の残響を睨み、村長が肩をいからせる。オットーが深く息を吐いた。


 「呪い師じゃ。しかも、よく訓練された手口。——王都の神殿が相手にする類いだ」


 ミナが私の袖を握る。私は小さく頷いた。掌の光は、震えながらも消えない。消さない。


 「村を守りましょう。境の網を解き、雷苔を備えて、傷を逃さない。……そして、誰が森に“結んだ”のかを見つける」


 口にしてみると、恐怖の輪郭が少しだけ変わる。怖さはある。でも、やることもある。小さな灯りにできることは、確かにある。


 背後で、村に向かう道の向こうから蹄の音が聞こえた。振り向くと、旅装の騎馬が土埃を上げて近づいてくる。胸甲に、王都騎士団の紋章。騎士は馬を止めると、こちらに手を挙げ、真っ直ぐに私を見た。


 「聖女候補エリシア・ハーヴェイ殿だな。——王都からの急使だ。君に伝えるべき密書がある」


 風が頁をめくるみたいに、心臓が跳ねた。騎士の肩越しに、森の影が静かに揺れる。黒い紐の結び目が、まだどこかで息をしている気配。王都の封蝋は、赤く光った。


 小さな灯りは、村のためだけでは終わらないのだと、私は悟った。


 ——次話、「密書」。王都と森の糸は一本に繋がり、微光は“神技”の名を得る第一歩を踏む。

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