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第1話「婚約破棄の宣告」

 「エリシア。君との婚約は、本日をもって解消する」


 玉座の間に落ちた言葉は、刃のように冷たかった。白大理石の床に射す陽がまぶしく、私の影だけが薄く揺れた。周囲に並ぶ廷臣たちが一斉に息を呑む気配。誰かの衣擦れが耳障りに長く響く。


 第二王子アルノルト殿下は、金糸の髪を無造作に払うと、淡々と続けた。


 「神殿の神託は疑い得ない。君に授けられたのは【微光治癒】。擦り傷を明日までに消す程度の力では、王妃として王国を支えられない。……君自身も理解しているだろう?」


 唇が震える。理解——している、はずだった。侯爵家の娘として、宮廷礼法も政治も学び、聖女候補として祈りの作法を十年続けた。どれほど眠い夜でも、神殿の床で額を冷やし、信じていたのだ。いつか光が私を選ぶ、と。


 けれど光はこう告げた。微光。わずかな光。誰の命も劇的には救えない、取るに足らない灯火。


 「……殿下。私は、役目を果たしたいと思っております。微かな光でも、重ねれば——」


 「望みは聞かない」


 殿下の灰色の瞳が、最初から最後まで少しも揺れなかった。彼の背後に立つ侍従が、無言で巻紙を掲げる。婚約解消の文書。王印の赤が、血のように鮮やかだ。


 「それと、君の父上にも伝えたが——侯爵家からの支援は打ち切る。王都の屋敷も、今月末までに明け渡せ」


 「……はい」


 喉の奥で小さな音が崩れた。静まり返った玉座の間に、私の返答だけが落ちる。廷臣の列の端で、誰かが笑いを噛み殺した。殿下は目も向けない。私の名を呼ぶ声も、慰める手も、そこにはない。


 光の神像が高い柱の上から見下ろしている。私の額に刻まれた聖印は、かつては誇りだった。今は重く、熱く、恥の火種にしか思えない。


 長い廊下を出ると、王宮の庭が春の香りで満ちていた。花弁が風に舞い、白い階段にはらはらと降り積もる。美しいのに、世界の色はどこか遠く、薄い。私は柵に手を置いた。指先が微かに光る——【微光治癒】。幼いころ、膝を擦りむいた従妹に手をあてがったら、痛みがやわらいだ。そんな、ささやかな火が私のすべて。


 「お嬢様!」


 駆けてきたのは、侍女のミナだった。茶色の髪が乱れ、目元は赤い。


 「ひどい……ひどいです。あの方は一度だってお嬢様を——」


 「いいの」


 言葉を遮ると、ミナは唇を噛んだ。私は笑おうとしたが、頬が上手く動かなかった。笑顔なんて、どうやって作るのか忘れてしまったみたいだ。


 「出立の支度を。王都を出ます」


 「どちらへ?」


 「——辺境へ。父の旧友が、小さな村で薬草商をしていると聞いたわ」


 ミナの目が大きく見開かれた。身分を考えれば、滑稽な選択だ。けれど、王都に居場所はない。神殿の祈りの席にも、宮廷の舞踏会にも、私はもう座れない。せめて、自分の手が届くところで役に立ちたい。小鳥の傷が癒えるくらいの灯りでも、暗闇の中の誰かが一歩進めるなら。


 「お供します」


 ミナの返事は早かった。彼女の手が私の手を包む。温かかった。


     ◇


 王都を離れる馬車は、石畳の終わりで揺れが増した。平原に伸びる街道は、春雨の名残でぬかるみ、車輪がときどき泥に食われる。窓外の景色には、やがて麦畑が消え、背の高い針葉樹が増えていった。


 「お嬢様、少しお休みを」


 「大丈夫」


 目を閉じると、玉座の間の光景がよみがえる。殿下の声は遠く、代わりに別の声が近づいた。幼い私に、神殿のシスターが言った言葉だ。


 ——光は、強さを選ぶのではなく、必要を選ぶのですよ。


 必要。誰にとって? 王都の誰かではないのかもしれない。私の光は、もっと小さな場所で必要とされる。そう思うと、胸の奥に固くなっていたものが少しだけほどけた。


 木々の合間から、小さな村が見えたのは夕刻のことだった。煙突から細い煙があがり、井戸端で子どもと女たちが話している。家々は素朴だが清潔で、扉に草花の飾りが結わえられていた。


 「ここが……」


 「エリデ村だと思います。地図の印では」


 馬車を降りると、土の匂いが濃い。踏みしめる地面が柔らかい。遠くで犬が吠え、鶏が鳴いた。


 薬草商の店は、村の外れにあった。屋根に干したタイムが束ねられ、扉を開けると乾いた香りが満ちてくる。奥から、丸い背中の老人が現れた。白い髭。深く刻まれた皺の間に、優しい光が宿っている。


 「おや……エルマーのところのお嬢さんか」


 「父をご存知で?」


 「むかし、王都の市で世話になってな。ふむ、ずいぶん遠い目をしておる」


 事情をかいつまんで話すと、老人——オットーは、ふむふむと頷き、何も問わずに店の裏庭へ案内した。そこには、石造りの小さな離れがあった。


 「古い診療小屋じゃ。もう長いこと使い手がいない。掃除をすれば住める。雨も凌げる。村長には、わしから話しておこう」


 「よろしいのですか」


 「良いも悪いも、必要ならそうすればよい。神さまは、そういう時のために目をお作りになった」


 オットーの目尻が柔らかく下がる。胸の奥が熱くなるのを、私は深呼吸で落ち着けた。


 離れの扉を開けると、陽の匂いがした。窓枠には埃が積もっているが、光はまっすぐに床まで届いている。古い棚に、瓶や器具の残骸。ミナが袖をまくった。


 「お嬢様、掃除を」


 「ええ」


 雑巾を絞り、床を拭く。ひと拭きごとに、知らなかった自分の場所が現れていく。王都の鏡張りの廊下では、私は何者でもなかった。ここなら——誰かの痛みに、直接触れられるかもしれない。


     ◇


 村の最初の夜は、星が驚くほど近かった。診療小屋の窓から、手を伸ばせば掬えそうなほど。藁の寝台の上で、ミナが小さく寝息を立てる。私は膝の上で両手を組んだ。掌のひらに、微かな光。赤子の息のように弱く、震えながら、確かにそこに在る。


 ——どうか。


 ——どうか、この灯りが誰かに届きますように。


 祈りというより、呟きだった。返事はない。けれど、星は瞬いた。


     ◇


 二日目。朝早くから、村の子どもたちが好奇心に目を輝かせて現れた。


 「ねえ、ここで怪我みてくれるの?」


 「お医者さまは、いないの?」


 「昔はいたんだよ。隣村に行ったんだってばあちゃんが」


 ミナが揚げパンを分けると、子どもたちはすぐに懐いた。私は、棚に並べ始めた包帯や薬草の束を整えながら、簡単な言葉で告げた。


 「大きな怪我は、わたしじゃ無理。でも、手当てと、痛みを軽くすることはできるかもしれない」


 「手、あったかい!」


 小さな女の子が、私の指を触って笑った。奇妙な懐かしさに胸がきゅっとなる。幼い従妹の膝に掌を当てた日の感触がよみがえる。あのときも光は弱かったけれど、確かに痛みは和らいだ。


 昼過ぎ、裏庭でミナと洗濯をしていたときだった。村の通りでざわめきが起き、土埃を巻き上げながら一頭の馬が駆けてくる。鞍にしがみついているのは、青年だ。その背後には背の低い男が走り、声を枯らして叫んでいた。


 「誰か——誰か、手を! エミルが、エミルが!」


 私は桶から手を引き上げ、滴る水を拭く暇もなく通りへ飛び出した。人垣が割れる。地面に、十歳くらいの少年が横たわっていた。顔色が悪い。息は浅く、唇に色がない。右の脇腹に、黒い痣のようなもの——いや、これは。


 「蛇毒……?」


 青年は額に汗を浮かべ、歯を食いしばって頷いた。


 「森の境で、黒縞蛇に。薬草を煎じたが、効かない。医師を呼びに行く間——」


 言葉が詰まる。少年の小さな胸が、かすかに上下している。私は膝をつき、痣の縁に指を近づけた。皮膚の下で、熱が濁流のように渦巻いているのが分かる。毒は速い。時間がない。


 「——診療小屋へ。運ぶのは危険。ここで、します」


 私は周囲を見渡した。


 「水を一桶。清潔な布を。灰と塩、それから——オットーさん、炭はありますか。粉にしたものが」


 「ある、すぐ持ってくる」


 人々が散っていく。ミナが私の隣に膝をついた。手は震えていない。私だけが、震えている。深呼吸。目を閉じる。掌のひらで、灯りを呼ぶ。


 【微光治癒】。


 柔らかな光が、掌に芽吹く。小さな、弱い、あの光。私はそれを少年の脇腹へそっと置いた。熱の渦に触れる。毒の気配は、冷たく、粘る。光は、飲み込まれそうに弱い。


 ——違う。押しつけるんじゃない。


 光は、強さを選ばない。必要を選ぶ。私はゆっくりと呼吸を合わせた。光を一点に集めず、薄く、広く、痣の縁をなぞるように流し込む。毒の動きが、わずかに緩む。そこへ、オットーが粉末の炭を持って戻ってきた。


 「飲ませるのか?」


 「はい。水で溶いて——ミナ、少しずつ。吐かせないように」


 「わかりました」


 少年の唇に、炭の液が流し込まれる。私は光を保ちながら、痣の中心を避け、周りから毒の経路を探った。皮膚の下で、細い線が何本も走っている。冷たい川の地図を読むみたいに、指先でなぞる。光が通れば、毒の流れがわずかに遅くなる。


 「……すごい」


 誰かが呟いた。私は聞こえないふりをした。自分の鼓動だけが大きい。少年の呼吸が、少し深くなる。痣の色が、わずかに薄い——気がする。まだ、油断できない。炭が毒を吸うまで、光で動きを止め続ける。


 どれくらい時間が経っただろう。日差しが家々の屋根の角度を変え、影が長く伸び始めたころ、少年の瞼がぴくりと動いた。ゆっくりと、薄茶色の瞳が開く。


 「……お、おかあ……」


 掠れた声。青年——少年の兄だろう——が顔をくしゃくしゃにした。周りの人たちがどっと息を吐く。私は光を収めると、掌のひらが痺れているのに気づいた。指先が熱い。微光。小さな灯りのくせに、こんなに熱を持つのか。


 「もう大丈夫。けれど、今夜は安静に。水を多く飲ませて、炭をもう一度少量。熱が上がったら、知らせて」


 「助かった……助かったよ」


 兄が何度も頭を下げる。私は笑おうとした。今度は、頬が素直に動いた。涙がこぼれそうになり、慌てて俯いた。ミナがそっと背中を支える。


 群衆が散っていき、通りに静けさが戻る。オットーが顎髭を撫でながら言った。


 「【微光治癒】、か。灯りが小さいほど、近くがよく見える。——そんな顔をしておった」


 「見えていました、私の手が?」


 「光を持つ人間は、遠目でも分かる。年寄りの目にもな」


 オットーはおどけたように笑い、それから急に真面目な顔になった。


 「王都の者は、遠くまで照らす火を有り難がる。だが、ここで必要なのは、足元を照らす灯りだ。段差で転ばぬよう、棘で足を切らぬよう、毒の道を一本ずつ見つける灯りだよ」


 胸の奥で、何かがほどけた。私はうなずいた。


 「私で……いいのですね」


 「君でなければ、今の子は明日を見なかったろう」


 言葉は静かだのに、刃物より鋭く、温かかった。目の縁がじんとするのを、また深呼吸でごまかした。


     ◇


 その夜、村は早くから灯りを落とした。頭上の星は昨夜よりも近い。診療小屋の窓辺に座り、私は掌を見つめる。微光が、かすかに震えながら脈打っている。昼間よりも、少しだけ強い——ように見える。


 「お嬢様」


 ミナが湯気の立つハーブティーを差し出した。タイムと蜂蜜の香り。


 「今日のこと、王都の誰かに知られたら……」


 「大丈夫よ。私たちは誰かの席を奪いに来たわけじゃない。空いている椅子に座っているだけ」


 自分で言って、少し笑う。空いている椅子。誰も座らなかった理由は簡単だ。ここには、王妃の冠も、輝く舞踏会もない。ただ、誰かの痛みがあり、泣き声があり、泥と草の匂いがある。


 遠くで、犬が二度吠えた。続けて、風を裂く羽音。ミナが窓から身を乗り出す。


 「今の、何の音でしょう」


 「梟……じゃない。もっと……大きい」


 闇の向こう、森の端に青白い光が一筋走った。稲妻のようでいて、音が遅れてこない。光は地を這い、すぐに消える。胸がざわつく。掌のひらの微光が、呼応するように震えた。


 「……ミナ。明日、森の境を見に行きましょう」


 「危険では?」


 「今日の蛇は、森から来た。あの光も、無関係だとは思えない」


 微光は、必要を選ぶ。もしあの光が、誰かの必要から生まれたものなら——。


 そのとき、扉が激しく叩かれた。反射的に立ち上がる。ミナが小声で「はい」と返事をすると、戸の向こうからさっきの青年の声がした。息が切れている。


 「すみません、夜分に! エミルが——急に、傷口から黒い筋が——!」


 握った掌の中で、灯りがはじけるように明滅した。炭の吸着だけでは、届かない毒がある。昼間、確かに見た。痣の中心、触れずに避けた場所——あそこに、何かがいる。


 私は外套を掴み、扉を開け放った。夜気が肌を刺す。空には星、森には青白い余韻。私の灯りは小さい。けれど、足元を照らすには十分だ。


 「行きましょう」


 夜の村道に、微かな光が一つ灯る。小屋の窓に残った灯火が、私たちの背中を押した。


——次話「黒筋の正体」、診療小屋の最初の試練。微光は“毒の道”の向こう側を映し出す。

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