第三話 光と謎の声
叶梅達は『一年B組』と書かれた札の下がった教室へ入り、それぞれの自席に着いた。
叶梅は、教科書の整理をしながら机の中にしまっていく。
最後に、鞄の中から、雪輪の紋様が入った藍色の麻袋を取り出す。
紐を引っ張って口を緩め、袋を逆さまにすると、縁に龍の装飾が施された、古びた手鏡が手のひらに転がり落ち、ズシリとした重みが伝わってくる。
無言で鏡を眺めていると、先に教科書の整理を終えた日葵が叶梅の方に歩み寄ってきた。
「叶梅、またそれ持ってきてるのか?」
「うん…なんか、持ってないと、落ち着かなくて…」
日葵の問いかけに、鏡を両手で持ちながら、叶梅は答えた。
「ちょっと、見せて貰ってもいいか?」
「うん、いいよ」
叶梅が鏡を差し出し、受け取った日葵は、あちこちの角度から興味深そうに鏡を眺めた。
「前から思ってたけど、綺麗な鏡だな」
「ありがとう…そう言えば、日葵ちゃんと仲良くなったの、この鏡がきっかけだったよね」
憶えてる?と叶梅が訊ねると、日葵は口元に穏やかな笑みを浮かべた。
「勿論だ…忘れたりなどするものか」
(…何を持ってるんだ?)
あれは、小学校に入学して間もなくの頃。
教室の椅子に座って、鏡を眺めていると、いつの間にか席の隣にいた、日葵が話しかけてきたのが始まりだった。
以来彼女とは、顔を合わす度に、短い会話を交わす仲となり、いつしかそれはゆるぎない互いの信頼へと変わっていった。
日葵は懐かしむように目を細めて、鏡を見つめた後、それをそっと叶梅に手渡した。
「初めて会った時から、叶梅はずっとこの鏡を大事にしているな。何か、思い入れがあるのか?」
今まで、当たり前過ぎて何とも思わなかった事に、ふと疑問を感じ、日葵は叶梅に訊ねた。
「実は、私にも解らないんだよね…気がついたら、いつも持ってたから…」
物心ついた時には、気がつけばいつもこの鏡が側にあった。
両親に訊ねても、ずっと昔からあったという何処か曖昧な答えしか得られなかった。
叶梅は鏡をじっと見つめる。
時折、この鏡を見ていると、泣きたくなるような懐かしい気持ちになる事があった。
それが、この鏡を手放したくない理由と、何か関係があるのかもしれない。
叶梅がぼんやり考えていた、その直後ーーーーーー。
ーーーーーーーーッカァ!
突如、空を天地ごと切り裂くような閃光が落ち、次の瞬間、轟音とともに白銀の光が地面に激突した。
視界を突き破るかのような光の奔流に、世界が一瞬で白に塗りつぶされる。
「きゃああっ」
「な、なんだっ!?」
教室のあちこちから悲鳴が上がり、叶梅もまた、焼き付くような眩しさにたまらず、両腕で目を覆った。
まぶたの裏を、散る火花のような残光がチカチカと駆け抜ける。
胸の奥が掴まれたようにぎゅっと縮み、鼓動が早くなるのを感じた。
やがて、波が引くように光が弱まっていくのを感じ、叶梅は恐る恐る顔を上げる。
胸の奥ではまだ、心臓が激しく脈打っていた。
光が収まると同時に、教室は、一気にクラスメイト達が口々に騒ぐ声で溢れる。
「今の、何?」
「雷っ?」
「叶梅、大丈夫かっ!?」
「日葵ちゃん…」
普段は冷静な日葵が、珍しく慌てた様子で駆け寄ってきた。
その顔に、不安の色が浮かんでいるのを見て、叶梅は胸の前でぎゅっと両手を握り、かすかに息を整え、「大丈夫」と伝えた。
背後では、他のクラスメイト達がざわめきながら押し寄せてくる気配を感じる。
叶梅は日葵と顔を見合せ、窓の外へ目を向けた。
校庭では、部活動に勤しんでいた生徒達が、動きを止めて、皆同じ向きに―――――あの、落雷のような光が落ちた方角へ揃って顔を向けているのが見えた。
しかし、それ以外で叶梅の目に映るのは、何の変哲もない青空と、見慣れた町並み。
まるで、先程の閃光など幻であったかのように、景色は平穏そのものだった。
長い沈黙の後、次第に生徒達は落ち着きを取り戻していった。
「…皆さん、落ち着いて下さい。そろそろ席へ戻りましょう」
学級委員長、御手洗満が真剣な表情で声をかける。
その一言がきっかけで、生徒達は口々一体何だったのかと、呟きを漏らしつつ、それぞれ自分の席へ散っていった。
叶梅と日葵も、互いに首を傾げながら、自分の席へと戻っていく。
直後、カーテンを潜り抜けるように、そよ風がふわりと室内に舞い込み、叶梅の頬を撫で、髪を優しく揺らしていった。
――――――たすけて……
それは、風に溶け込むほどの微かな声。
幼い子供が、泣きながら縋る様に発したものだった。
胸の奥をきゅっと掴まれるような切ない響きに、叶梅は思わず窓の方へ振り返った。
「…叶梅?」
じっと窓の方を見ている叶梅に、日葵が怪訝そうな表情を浮かべながら声をかける。
はっと我に返り、慌てて笑みを作る。
「あ...ううん、何でもないの」
そう言いながらも、心のざわめきは収まらない。
どうしても気になって、再び窓の外へと視線を向ける。
只の風の音を、聞き間違えただけかも知れない。
そう思う方が自然で、正しいのだろう。
けれど…。
―――――叶梅は、確かに聞いた。
誰かを求める様に泣いている、小さな女の子の声を……………。
――――――――時は、落雷のような光が、墜落した直後まで遡る
叶梅達の通う中学校から、そう遠く離れていない場所にある、薄暗い路地裏。
その真ん中にあたる地点に、小さな人影がうつ伏せの姿勢で横たわっていた。
影の正体は、薄汚れたボロボロの布を身に纏った、淡い桃色の長い髪を持つ、十にも満たない幼い少女だった。
「っ、……………………」
ピクリと、ふっくらとした小さな指先が、震えるように動いた直後、髪の間から覗く瞼がゆっくりと開き、宝石のように透き通った、蒼い瞳が露になった。
少女は小さく呻きながら、緩慢な仕草で身体を起こし、何かを探るように周囲に視線をめぐらせた。
細い首に取り付けられた、黒いチョーカーネックレスの金の鈴が「チリンッ」と澄んだ音を奏でる。
(…ここは…どこ………?)
不安と怯えがない交ぜになった表情で、少女は周囲を見渡す。
薄くヒビの入った、建物も、壁を伝う黒い蔦のようなもの――――パイプも、少女の目に映るのは初めてのものばかりだ。
何故、自分がこんな所にいるのか…そもそもここは何処なのか、皆目見当がつかない。
(……わ、たし…わたしは、たしか……)
意識を失う直前の出来事を思い返そうと、記憶の糸を手繰り寄せる。
――――――だが…
(…あれ?)
違和感に気付いて、右目を手で覆う。
正体の解らない焦りから、心臓が鼓動を早める。
―――――――何も思い出せない
自分の名前も、自分の家族も、今までいた場所でさえも。
脳裏に拡がるのは、塗りつぶされたような、真っ暗な闇ばかり。
目が覚める以前の――――いや、生まれてから全ての記憶が、少女の中から消えていた。
突如、足場が崩れて、奈落の底深くへと叩き落とされたような恐怖が、少女を襲った。
それらから逃れるように、フードを深く被り、両目を固くつむって、祈るような気持ちで、記憶の欠片を探る。
「―――――――ッ!」
無理に、記憶を引き出そうとした、弊害だろうか。
突如、頭が内側から割れるように痛くなり、声も出せずにその場に横倒しになった。
(っ!?わたし…こえが…)
少女は、自らの喉に手を当てて震える。
そう、少女は気づいた――――気づいてしまった。
自分の喉が、凍りついたように、動かない事に。
試しに何か言おうとしても、唇から微かな吐息が漏れるだけだった。
(どうしてっ!?なんで…こんなのやだよ…ひとりはいや…こわい……)
「…っひ、ぐず…ひっく…」
記憶を失くし、声も出せず、理由も解らないまま、たった独り知らない世界に放り出された。
星一つない夜の海に、重りをつけて沈められたような、途方もない孤独と絶望がのし掛かり、一歩も動く事ができず、金色の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ、少女はその場で捨てられた子犬のようにうずくまり、震えながら声も出せず泣き出した。
(…たす、けて…)
凍りついた喉を震わせ、少女は顔も名も知らない誰かに助けを求めた。
だが、誰も救いの手を差し伸べてくれないことは、頭の何処かで解っていた。
自分がここにいる事を、知っている者は誰もいないのだから。
そして、自分がここにいる事実を伝える術もない。
(…おねがい…だれか……)
しゃっくりをあげながら、か細く震える手を路地の入り口へ伸ばす。
歩けば数歩でたどり着けるその場所が、果てしなく遠くに存在しているように見えた。
―――――たすけて…………
縋るように、祈るように、心の中で少女は繰り返し助けを求め続けた。
それに応えるかのように、細い通路を風が緩やかに駆け抜ける。
風は形のない想いを乗せ、町を通り抜け、やがてとある中学校の校庭へとたどり着いた。
二階の窓に取り付けられたカーテンがふわりと踊るように揺れた時、窓の近くにいた、黒髪を一つに纏めた、一人の女子生徒が、窓の外を振り返った。




