第一話 小鳥遊叶梅
ーーーーーっ、ひっく…ぐすっ
遠くの方から聞こえてきた、幼い子供の泣き声に誘われるように、叶梅はゆっくりと瞳を開けた。
視界に映ったのは、真っ黒な空間の中央で、こちらに背を向けて踞る誰かの姿だった。
それは、雪のように真っ白な長い髪を持つ、自分より幼い小さな女の子だった。
こちらに背を向け、手で顔を覆い、丸くなった小さな身体を震わせて、泣いている。
泣き声の主は、この子だと確信し、一歩、一歩、ゆっくりと歩みながら、距離を近づける。
「あなたは、誰?どうして、ここにいるの?」
小さな背中に、そっと問いかける。
しかし、聞こえていないのか、女の子は顔を上げず、すすり泣く声も止まない。
更に歩みを進め、女の子のすぐ後ろにたどり着いた叶梅は、腰を落としてしゃがみこむと、優しく声をかけた。
「どうして、泣いているの?」
見ず知らずの少女だったが、独りで泣く姿が痛ましく、叶梅は少しでもその痛みを拭ってやりたいと思った。
やがて、女の子の泣き声がピタリと止まった。
少し間を置いて、ゆっくりと女の子がこちらを振り向く。
そして―――――――――――――――――――
―――――――――――――ピピピピピピピピピピッ!
突如鳴り響いた電子音が、夢の世界を跡形もなく木っ端微塵に打ち砕いた。
「…ん、ん―…」
ベッドの上で、毛布にくるまっていた少女が、小さく呻きながら、白くほっそりした腕を伸ばし、布団の上を泳ぐように探った
程なくして、枕元に設置された電波時計を探り当てたその手は、やや乱暴な手つきでアラームのスイッチを切った。
室内に再び静寂が戻り、ベッドの上で一人の少女が身を起こした。
とても、美しい容姿をした少女だった。
まだ幼さが残るが、気品を感じさせる整った顔立ちに、黒曜石のように澄んだ瞳が、形の整った鼻と、薄桃色の唇と共に、自己主張することなく、謙虚に収まっている。
梅の花びらを想わせる白い肌とは対照的な、濡れ羽色をした腰まで届く長い髪。
少女の名前は、小鳥遊叶梅。
二週間ほど前に、市立東雲中学校に入学したばかりの、平凡な女子中学生である。
叶梅は、ベッドの縁に腰掛け、隣の勉強机の上に掛けてある、時計を見上げた。
時計の針は六時を少し過ぎた辺りを指している。
あまり、ゆっくりもしていられないと思い、叶梅はベッドから降りると、ベッドの下の備え付けの引き出しに手を掛けた。
ふと、先ほどの夢の光景が脳裏を過った。
夢の内容は、もう覚えていないが、雪色の綺麗な髪と、涙に濡れた空色と金色の瞳は、今も目蓋の裏に焼き付いている。
夢の残滓を払うように首を振った叶梅は、パジャマを脱ぎ、適当に選んだTシャツに袖を通した。
十数分後。
Tシャツと黒いスウェットに着替え、長い髪を後頭部で一纏めにした叶梅の姿があった。
その手には、木で出来た棒状の得物――――薙刀が握られている。
叶梅が薙刀を習ったのは、幼少期、母に勧められたのがきっかけだった。
薙刀を自由自在に振るう母の姿に見惚れ、憧れを抱いた叶梅は、母の元で薙刀を習い始めた。
最初のうちは上手くいかない事も多く、辛く感じる事もあったが、練習を積み重ねるうちに、徐々に腕は上達していき、今では母とほぼ同じくらい薙刀を扱えるようになった。
叶梅は、薙刀を中段に構えて目を閉じ、深呼吸を一つして雑念を払い、集中力を高める。
「っ!」
目を開けると同時に、大きく踏み込んで薙刀を正面に振り下ろす。
そのまま、手を滑らせるように、八相の構えを取り、今度は側面へと切っ先を振り下ろした。
脇目もふらず、ただひたすらに薙刀を振るう。
一連の動作に、無駄な動きや力は一片もなく、流れる水のように滑らかだ。
最後に汗を飛び散らせながら、気合いと共に、薙刀を真っ直ぐ縦に振り下ろした。
叶梅が最も得意とする技であり、切っ先は一ミリのブレもなく目に見えない的を両断する。
理想通りの動きができて、叶梅の口元に自然と笑みが浮かんだ。
途端、甲高い電子音が、叶梅の意識を現実へ引き戻した。
振り替えると、タイマーの表示が、全て零になっていた。
先ほど始めたばかりだと思っていたのだが、もう一時間も経っていたらしい。
叶梅はタイマーのスイッチを止めると、タオルで簡単に汗を拭いて、水筒の水で喉を潤した。
薙刀を倉庫へしまい、その他の物を持って自宅へ戻り、脱衣所へ直行して、脱いだ衣服を洗濯機に放り込み、シャワーで全身の汗を洗い流した。
「…ふぅ」
温水が、肌を伝い落ちていく感覚が心地良い。
シャワーの栓を締めた際、ふと自身の右手に目が留まり、叶梅の表情が曇った。
その手の甲には、親指の付け根から端にかけて、刃物で切りつけられたような、傷があった。
叶梅はこの痣の存在を密かに気にしており、外出する時はアームカバーを装着したりして、人目から隠していた。
今さら気にしても仕方ないことだと内心言い聞かせ、顔を上げた叶梅は、ぎょっと目を見開いた。
一瞬だが、鏡に映った自分の瞳が、青く光って見えたのだ。
そんな馬鹿なと、叶梅は鏡に顔を近づけて覗き込む。
鏡面に映る、見開かれた瞳の色は、黒曜石を思わせる漆黒。
生まれた時から、変わらない色彩。
「…まさか、ね」
落ち着きを取り戻した叶梅は、苦笑しながら鏡から離れる。
漫画の主人公じゃあるまいし、瞳の色がある日突然変わるなど、あり得ない。
ただの見間違いだろうと結論付け、叶梅は風呂場を出て脱衣所で身体を拭いてから、髪を乾かしてから、学校指定のセーラー服に着替えた。
シワ、シミ一つない黒い生地と、それに映える純白のスカーフから、まだ卸したての新品である事が伺える。
髪を梳かし終え、再びゴムで黒髪を一つに纏めた叶梅は、脱衣所を出て廊下を歩き、リビングへ向かった。
廊下を歩いていると、出汁のいい匂いが微かに鼻腔をくすぐり、空腹を刺激し、唾が沸いてくる。
「お父さん、お母さんおはよう」
扉を開けてリビングルームへ足を踏み入れる。
ダイニングのテーブルでは、父の誠治眼鏡をかけ、新聞をめくっていた。
「おはよう、叶梅」
「おはよっ!朝練お疲れ様、毎日頑張ってるわねっ」
キッチンで、弁当に彩りよくお弁当を詰めていた桜凪が、にこっと白い歯を見せて快活に笑う。
「ちょっ、お母さん、盛り過ぎ」
愛用のお茶碗に、白米を大盛りに盛られて、叶梅は苦笑した。
「何いってんのっ、運動した後はお腹いっぱい食べないと、力が出ないわよっ」
そう言いつつ、桜凪は茶碗をぐいっと押し付けるように娘に持たせる。
叶梅は、ため息をつきながら受け取ったが、父の誠治は新聞を畳み、眼鏡の奥から温かくも真剣な眼差しを送った。
「母さんの言う通りだぞ。身体を鍛えるのも大事だが、食事を疎かにするのが、一番いけない」
「解っているよ、お父さん」
口を尖らせつつも、炊きたてのご飯の香りにほころんでしまう。
叶梅は、茶碗を両手で持って運び、自席へ着いた。
食卓には、湯気の立つ味噌汁、卵焼きと漬物に、桜凪お手製の煮物が並んでいる。
叶梅は「いただきます」と手を合わせてから、箸をとった。
白米を一口、二口口に運び、卵焼きを箸で半分に切り分けていると、不意に誠治が話しかけていた。
「叶梅、また腕を上げたな」
「み、見てたの?」
父の一言に、叶梅の頬にじわりと熱が広がった。
両親に、毎朝庭で薙刀の稽古を行っていることは、勿論知られている。
けれど、こう正面から褒められると、何処かむず痒くて落ち着かない。
「新聞を取りに行った時にな。真剣な顔も、昔の母さんそっくりだった」
「あ、ありがとう…」
蚊の鳴くような声で答えながら、叶梅は視線を茶碗に落とした。
尊敬する母のようだと言われたのは嬉しかったが、控えめで大人しい叶梅に、それを素直に表に出すのは難しかった。
「当然よっ、あたしが鍛えた、自慢の娘だものっの」
桜凪は胸を張って、豪快に言い放つ。
「…もう、お母さん…」
叶梅は、小さく呟くように制したが、言葉に力はなく、寧ろ耳まで赤くなっていた。
誠治はそんな二人を見て、目元を和らげる。
「母さん譲りの気の強さは…どうだかな」
「もう、二人とも…」
叶梅はうつむいたまま箸を動かし、声はか細く、それでも、笑みが僅かに浮かんでいた。