序 厄災の子
その場所に、朝も夜もなかった。
固く冷たい石造りの地下牢には、一片の光も届かず、泥の様に重い静寂と沈黙だけがその場を支配していた。
壁には水滴が伝い、ポツリポツリと、床を打つ。
その音が、刑の執行までを測る時計の針の様に、静寂の中で時を刻み続けていた。
牢の隅には、壁に背を預けて座る、幼い少女の姿があった。
年齢は、10歳前後だろうか。小柄な為、年齢より幼く見える。
床に広がる程長い髪は、春の訪れを告げる花のような、淡い桃色をしているが、痛んであちこちにほつれや乱れが目立ち、細かい塵やゴミが絡まって黒ずんでいる。
髪の毛の奥に隠れた、その表情は、子供らしい無邪気さや明るさは、感じられない。
頬は青白く痩せ細り、髪の間から覗く深い蒼の瞳は光を失い、曇りガラスのように虚ろで、ただぼんやりと床を眺めている。
身に纏っているボロ切れの間から覗く、棒のように細い手足には、無数の細かい傷と大小の赤黒い痣が、斑模様のように浮き出ていて、見るからに痛々しい。
この地下牢に閉じ込められ、どれ程の月日が流れたのか、もう憶えていない。
記憶の中にあるのは、扉が開く度「お母さん」と呼ぶ物心ついたばかりの自分。
――――――そして、その度に振るわれる、裁きという名の暴力。
喋ると、黙れと殴られた。
泣くと、うるさいと蹴られた。
お前さえ生まれてこなければと、何度も罵倒された。
だから、今では何も言わない。
喉が音を忘れ、口が沈黙を覚えた。
やがて、同じ体勢でいることに飽きたのか疲れたのか、少女がゆっくりと壁にもたれ掛かる。
首を傾けると「チリンッ」という澄んだ音が、暗闇に波紋のように響いた。
音の源は、少女の首に付けられた、黒いチョーカーネックレスに付けられた、透かし彫りの金の鈴だった。
この鈴の音色だけが、暗い地下の世界で、少女の心に唯一癒しと温もりを与えてくれた。
それは、ほんの微かなものだが、少女にとっては十分救いとなるものだった。
―――――――どれ程の、時間が経っただろう。
階段の向こうから、複数の鈍い足音が響く。
重たい鉄の扉の前でそれは止まり、錠が外れる音がした。
少女の身体が、びくりと震える。
足先から冷たいものが這い上がり、呼吸が浅くなる。
両手で震える膝を抱きしめ、頭を下げる。
――――――――また来た。
ぎい、と軋むような音を立てて扉が開く。
カンテラの淡い光が差し込み、闇に包まれていた地下室がぼんやりと明るく照らされる。
光は本来美しく、見るものを安心させるが、少女にとって恐怖の象徴だった。
「…出ろ」
低く、冷たい声が頭上から響く。
少女は踞ったまま、小さく首を振った。
けれど、それだけで腕と肩を乱暴に掴まれ、無理矢理立たされる。
その手の力は強く、彼女の細い骨が、悲鳴を上げるように軋む。
(いたい…)
少女の唇から、声にならない息が漏れる。
地下室から引きずり出される途中、壁に肩がぶつかり、痛みに体を震わせ、目尻に涙がにじむ。
それでも、抵抗出来なかった。
逆らえば、もっと酷いことが起きると、身体が嫌という程覚えていた。
階段を上がると、外の空気が頬を打った。初めて感じる、風。
湿った夜気の冷たさが、頬に刺さる。
しかし、それは自由の味ではなく、罰の匂いだった。
少女は大人達の手によって、集落の中央にある広場へ連れていかれた。
広場には、集落に住む多くの小妖精達が集まっていた。
「“厄災の子”…」
「あれが…」
憎悪、恐怖、嫌悪――――――あらゆる負の感情がこもった視線が、少女に容赦なく突き刺さる。
男も、女も、誰もが彼女を『罪人』として見ていた。
少女は震える肩を抱き、俯いた。
ごめんなさい、許して下さい――――そう言いたかった。
けれど、声は出ない。喉が塞がれている。
代わりに、涙が頬を伝った。
やがて、里の長が前に進み出た。
「―――“厄災の子”を、これ以上生かしておくわけにはいかん…」
その言葉は、冷たい刃のように、場の空気を切り裂いた。
周囲の誰もが否定しない。
それどころか、誰もが「そうだ」「殺せ」と叫んでいる。
決定は、既に下された。
大人達の手が、再び自分に伸びてくる。
その瞬間――――恐怖が理性を越える。
少女は本能のままに、身を振りほどいて駆け出した。
足は震えていたが、心だけが叫んでいた。
――――――生きたい、と。
「逃げたぞっ!」
「追えっ!」
誰かが叫び、怒号が上がる。
無数の声が混ざり合い、視界がぐちゃぐちゃに掻き回される。
気がついた時には、木々の間を、必死に走っていた。
森の匂い、風の音、湿った土。
どれも、初めての世界。
それでも、後ろから聞こえる足音が、全てを恐怖の感情へ変える。
ぬかるみに足を取られ、転んだ拍子に擦りむいた膝から血が滲む。
けれど、止まる事は出来なかった。
死にたくない、生きたい。
それだけが、彼女を動かしていた。
やがて、木々が途切れ、目の前に崖が現れる。
少女は立ち止まり、息を荒げて、崖下を見下ろす。
背後には追っ手。逃げ道は…何処にもない。
放たれた矢が、耳元を掠めて、風を切り裂く。
反射的に身を避けた瞬間――――足場が崩れて、空を踏む。
(―――っあ)
小さな悲鳴すら、声にならないまま。
体が宙に浮き、世界が逆さまになる。
夜空に輝く月がひどく遠くに見えた。
冷たい風が、全身を切り裂くようにすり抜ける。
崖とそこから見下ろす小妖精達が、空が遠くなり、衝撃と共に冷たい水が全身を押し包む。
少女の意識は、瞬く間に水底の泥闇へと、沈んでいった――――………。




