序章 誰も知らないプロローグ
――――――それは、星明かりすら呑み込むような、深く暗い夜の森から始まった……。
墨汁に浸されたような、暗い森の奥から、木の葉を踏みしめる小さな足音が近づいてきた。
「……………………」
木々の隙間から、亡霊のように現れたのは、ボロボロの布切れを被った、七、八
歳程の幼い少女だった。
その小さな両手で、布の端を強く握りしめ、うつむきがちにフラフラとした足取りで独り、暗い夜の森の中を歩いていく。
途中、つき出すように埋まっていた小石に躓き、そのまま転倒してしまう。
その時、布の下から「チリンッ」と澄んだ音が漏れた。
少女は、転倒した際、マントに付いた泥を払う様子もなく、ノロノロと緩慢な仕草で身を起こした。
その際、チラリと布の隙間から、少女の顔が見えた。
右目は北国の空を彷彿とさせる、鮮やかな紺碧、左目は宵闇に浮かぶ満月を想わせる、金色。
対照的な瞳は曇り硝子の様な虚ろで、何の感情も映していない。
青白く、薄汚れた生気のない表情からは、子供らしい無邪気さや明るさが感じられず、まるでゴミ捨て場に置き去りにされた、人形のようだ。
―――――――近づくな化物…………っ!
村を追い出される直前、石と共に投げつけられた怒声が痛みと共に甦り、全身がピタリと硬直する。
その言葉を皮切りに、物心ついた時から浴びせられてきた数々の暴言と、罰という名の容赦ない暴力が脳裏に甦った。
―――――――許せよ、本当ならぶっ殺してやりたいくらいなんだ…っ!
―――――――あんたさえ、あんたさえ、生まれて来なければ、あの男は今も...…っ!
―――――――何というおぞましい瞳だ…あんな者は生まれてきてはいけなかった……
―――――――全てお前のせいだっ、お前さえ生まれて来なければ、皆幸せだったのに……っ、忌々しい、呪われた厄災の魔女め…………っ!!
視界が歪み、胸が見えない何かに圧迫され、苦しくなる。
たまらずその場から逃げ出し、夜の森の中を宛もなくひたすら走り続けた。
目を閉じても、両手で耳を塞いでも、自分を罵る言葉は、冷たく蔑んだ眼差しは消えてくれない。
目尻に、じわりと涙の珠が浮かび上がる。
空色の瞳から、涙が溢れて滝のように頬を伝う。
その度に、何度もこすって赤く腫れた目元にしみて、ヒリヒリと痛んだが、涙を止める術はなかった。
ごめんなさい、ごめんなさいと、震える唇で紡ぐ謝罪の言葉は、誰にも届く事はなかった…。
生まれた時から、少女には親も自分の名前すらもなかった。
何故なら、物心つく前から暗く冷たい地下室に幽閉され、罪人のように扱われてきたからだ。
事実、自分は生まれながらの大罪人だ。
自分が生まれたせいで、沢山の同胞が、命を落としたと、いつか誰かにそう聞かされた。
故に、同胞達は彼女を『厄災の魔女』と呼んで蔑み、少女はその小さな身体で、有り余るほどの罰を浮けてきた。
誰もが皆、汚物を見るような目で自分を見る。
お前さえ、生まれて来なければと、呪いの言葉を吐く。
悪意の刃は、幼い彼女の心を、容赦なくズタズタに引き裂いていった。
少女は、虐待とも呼べる理不尽な仕打ちに対し、『ごめんなさい』と謝る事しか出来なかった。
彼らが決して、自分を許してくれないことは理解りつつ、それでも踞り、許しを乞う術しか、彼女は知らなかった。
自分が取り返しのつかない事をしてしまったと、幼いながら、罪の自覚を持っていた少女は、ただひたすら痛みに耐える孤独な日々を送っていた。
今は無理でも、痛みに耐えていれば、いつか自分を許してくれるかもしれないという、淡い望みもあった。
しかし、そんな希望も、あっけなく打ち砕かれた。
ある日突然、鎖で繋がれていた地下室から、複数の大人達の手で乱暴に引きずり出され、村の出入口まで連れていかれ、地面の上にゴミのように乱暴に投げ捨てられた。
――――――疫病神を、これ以上里に置いておく訳にはいかん…
蔑んだ眼差しと共に、村から出ていくよう告げられた。
生まれた時から、冷たい地下室以外、何一つ知らずに、育ってきた彼女にとって、着の身一つで村の外に放り出される事は、死刑を宣告されたに等しい。
少女は泣いて大人達にすがり、必死に許しを乞うた。
例え、辛く苦しい思い出しかなくとも、ここにしか自分の居場所がない事は、解っていた。
だが、大人達は最後まで自分を許さなかった。
少しでも自分が近づこうものなら、殴り、蹴飛ばし、棒で突いて、一歩たりとも、村の入り口には近づかせなかった。
容赦なく浴びせられる暴言と、石の冷たさに耐えきれず、少女は泣きながらその場を立ち去るしかなかった。
――――――二度と里に戻ってくるな。その時は、命がないと思え…
憎悪のこもった視線が背中に突き刺さる中、誰かが吐いた呪いの言葉が、いつまでも耳の奥にこびりついて、離れなかったーーーーーー
「……っあ」
次の瞬間、少女の片足が崩落し、暗闇に引きずり込まれるように、大きくバランスを崩し、小さな身体が宙を舞った。
そのまま、少女は遥か下の湖に落下した。
派手な水しぶきが上がり、黒く冷たい水が、少女の身体を押し包む。
少女はもがきながら、細く小さな腕で、必死に水をかき分け、水面へと顔を出した。
しかし、息継ぎをする間も無く、すぐにまた水中へ引きずり込まれるように沈む。
何度も浮き沈みを繰り返すうちに、身に纏っている布は水を吸って、鉛のように重くなり、もがけばもがく程、鎖のように絡み付いて身動きがとれなくなっていく。
身を切るような冷たさが、幼い彼女から体力と気力を、容赦なく奪っていった。
死の影が、無数の黒い腕を伸ばし、自分の身体を水底に引き込もうとしている様を想像し、背筋が寒くなった。
「ーーーーーー助けてっ!助けてっ!!誰か……っ」
助けを呼ぼうと声を張り上げるも、ここは里からも遠く離れた夜の森。
助けてくれる者は、近くにいないと、頭では解っていた。
そもそも、忌み嫌われ、生きてきた自分に、手を差しのべてくれる者など、誰一人いなかった。
遂に残り少ない体力も底を尽き、少女は力なく水の中へと沈んでいった。
息が出来ず、肺がキリキリと痛む。
しかし、指一本動かす力さえ、もう少女には残されていなかった。
ーーーーーーー生まれてくることが、罪なら...
ーーーーーーーどうして、私は生まれてきたのかな……
意識と共に、遠くなっていく水面を虚ろに眺めながら、少女の脳裏を、走馬灯のように今までの記憶が次々と流れていった。
(……私は、里のみんなを、不幸にした悪い子………私なんて、いなくなった方が、みんな幸せかな……)
生きることに、絶望しきっていた少女は、水底の泥闇に身を委ねるべく、目を閉じた。
ふと、まぶた越しに微かな光を感じ、うっすらと目を開ける。
ぼやける視界の中を、白い光が舞うように、少女の元へ降りてきた。
それが、蝶の形をしていると認識した直後、少女の意識はぷつりと途絶えた。
直後、暗い水の中で、蛍のように淡い光が瞬く。
光は、水の中で揺らめきながら、徐々に光量を増していった…。