心の痣
強気に見えて弱い彼女。どんなことがあっても想いは変わらない。
私は怖かった。そう私は怖かった。目の前にいる貴方のことが。大好きでたまらなくて誰にも取られたくなかった。だから、みっともないと思いながら強気な女の振りをして、散々試し行為を繰り返していた。皆からはサバサバしていて堂々としているタイプだと思われているが、そんなことはなかった。本当は臆病でしかなかった。そして面倒なタイプだ。でも、顔のキツさからそう思われている。唯一対等に接してくれたのは貴方だった。「長い年数一緒にいたから」ではなく、本当の私をまっすぐ見てくれている。貴方は私のことを「親友」だと言っていた。だからこれ以上は踏み出せない。貴方はどう思っているのだろうか。目の前の貴方は相変わらず笑顔をこちらに向けている。感情が読めない。というよりも、読むのが怖かった。ずっと優しくて、ずっと笑顔を向けてくれて。ずっと一緒にいるのにたった二文字が言えない。この関係が壊れてしまうのが怖かった。目の前の貴方が去っていく気がして。クルクルと回るストローがまるで私の心のように回っていた。今日はこの二文字を言おうと決めていた。この決心は何回目だろうか。今日こそは。今日こそは。
「じゃあね」「また今度ね」
結局今日も言えなかった。帰りはコンビニでスイーツでも買おう。少しでも苦い気持ちを消したかった。街にはコツコツとハイヒールの音だけが虚しく響いている。目一杯のお洒落にメイク、それでも貴方が振り向いてくれないと意味がない。目線を感じて振り返ると、貴方がこちらを見ている。微妙な距離感。今までになかった張り詰めるような空気感。
「今日も楽しかった?」
「楽しかったよ」
と手を振りながら答える。さっきの空気感は一瞬で消え去った、かに思えたが違った。前にも後ろにも進めない。まるで私の心そのもの。観覧車が向こうで煌びやかに回っているのが見える。ゆらゆらと貴方の目にもその観覧車が回る。私の中の沢山の記憶もぐるぐると回る。この時間の意味とこの静寂の意味。眩暈がした。きっとこの時間で全てが変わるんだろうという予感はした。ずっと続く沈黙。不思議なほど通行人はいない。
結局、私はこの空気に耐えられなかった。目の前の貴方から背を向けて逃げた。ハイヒールのヒールが折れても走り続けた。足に血が滲んでいるのが分かる。振り向けなかった。私はいつだってそうだ。こんな時は一目散に逃げることしか出来なかった。過去の恋人は追いかけることもなく踵を返して帰っていった。それで、過去の恋人とは終わりになった。私はいつも逃げてばかりだ。後ろにしか進めない。
煌びやかな観覧車がぼやけて見えなくなった。私自身も、他の人もこんな姿を見たら馬鹿みたいだと思うだろう。それでも走って走って走って、とうとう躓いてしまった。ぺたりと地面にへたり込んで動けなくなる。そして、子供のようにわんわん泣き出した。全てがもう私には耐えられなかった。今は過去の恋とは違うのだ。違いは分からないけど、直感で違うと分かっている。もう何もかもが終わってしまったのだ。一番失いたくない存在から逃げたのだから。
その時、散々聞きなれた足音が速度を上げて近づいてくる。その足音は私の近くで止まった。背中に温度を感じる。
「大丈夫だから」
と悲しそうに一言呟きながら、まるで子供をあやすかのように優しく撫でる。私が泣き止むまでずっとずっと撫でてくれた。落ち着いたか、という貴方に頷くのが精一杯だった。やっぱりこの人は優しい。いや、私にとっては優し過ぎた。もう二文字を言うのは止めにした。これ以上困らせたくない。それと同時にもう「親友」という関係も終わりにしようと思った。ぼんやりとどこに引っ越そうかと考えていた。もう私には会わない方がいい。生きる邪魔をしたくなかった。
足の汚れをはたいて立ち上がる。もう靴なんてどうでも良かった。そして、この五文字を口にした。
「さようなら」
二文字は言えなかった癖に五文字はハッキリと言えた。貴方は驚いた顔をして、悲しそうな顔をした。今度は貴方がぺたりと地面にへたり込んでしまった。全部全部私のせい。何もかも。初めて私からハッキリと言った。貴方のそんな姿は見たくなかったけど、私はこれしか思いつかなかった。不器用としか言いようがない。泣かないように歯を食いしばって、ハイヒールを拾って歩き出した。
もう観覧車は回ることを止めていた。強い風が通り過ぎる。まるで私を責めるように。当たり前だ。私は世界で一番大切な「親友 」を傷つけたのだから。でも、やっぱり悔しかった。誰にも取られたくないという思いは今でもあった。とても身勝手な考えなのは分かっていた。でも、矛盾した感情は頭の中でグルグルと回っていた。もし、あの時間に戻れたら私は何をしていたんだろう。手を伸ばしていたんだろうか。結局、同じ結末しか思いつかなかった。ドラマのようなキラキラした恋は私には到底出来ないものなのだと考えると笑える。
痛む足を痛くなさそうに装って歩く。同時に心の痛みもなさそうに装いながら。その時に待って、と言いながら私の腕を貴方の手がしっかりと握っていた。酷いことを言ったのに、まだその手は優しかった。それが余計に辛かった。でも、それを振りほどいて性懲りもなく走り出した。家まで走って鍵をかけた瞬間、倒れ込んだ。息が荒い。脚を見ると傷が沢山ついてボロボロだった。深い傷もついている。自業自得だ。家にあった絆創膏を貼って寝転んだ。また涙が溢れる。傷が心のように脈を打って痛かった。その時スマートフォンが震えて、通知を見ると貴方から「大丈夫?」の一言。一言以外には何もなかった。返信をしないままにするとそれ以降にメッセージが送られることはなかった。
気付くと朝になっていた。幸い、いつもより早く起きられたので退職の旨を書いた書類を作って出勤した。とにかくこの街から離れたかった。この街にいると頭がおかしくなりそうだった。脚の傷を隠すようにロングスカートを履いた。鏡を見るといつものハキハキした偽物の自分が映っている。それから幾許か経ってようやく退職となった。次の会社はもう決まっていた。この街から遠く離れた場所。本当にもう会うことはないだろう。
その時に世界がゆらぎ、そのまま世界が暗転した。目が覚めると白い天井。腕には点滴の針が刺さっている。どうやら過労で倒れたらしい。あれから、忘れたいと思って仕事に没頭し過ぎた結果だった。結局私は何がしたかったんだろう。自分の気持ちからも、貴方からも逃げて。挙句の果てに過労で倒れる。私って何なんだろう。熱が下がらなくて余計に頭がクラクラした。点滴がポツリ、ポツリ、と涙のように落ちて流れ込んでくる。
スマホを取り出して、あの日の通知を見返す。もし、ここで返事をしたらまだ間に合うのだろうか。でも、それはあまりにも虫が良過ぎる。それに日が経ち過ぎている。その間に貴方は素敵な人と出会っているかもしれない。それでも、また楽しかった思い出が駆け巡る。
夕暮れの海を見つめて、ベタだねと笑い合う。
ジェットコースターに乗って叫ぶ。
観覧車に乗って街を見下ろす。街がミニチュアみたいで楽しかった。
ライブに行って二人して泣く。
夏祭りで射的の勝負をする。結局二人とも一度も当たらなかった。
雪合戦をして雪まみれになる。
バーで二人で語り合う。
真剣な悩みを聞いてもらう。
夜景を見下ろして、キラキラした街並みを眺める。
カラオケで日頃のストレスを発散する。タンバリンなんかも借りて。
楽しかったな。あの頃に戻れたらどんなに嬉しいことか。白い天井を眺めながら色鮮やかな想い出を振り返っていた。まるでスクリーンだった。あれから熱も下がり、退院することになった。一通りお礼を言いながら晴れた空を歩いて家に帰った。私の心とは正反対の空の色が憎らしかった。
帰るとまだ空の段ボールが積みあがっていた。そう、引っ越しの準備の途中だった。段ボールに物を入れて丁寧にラベリングしていく。最後に残ったのは、貴方との思い出だった。どうするか迷った。でも、今更持っていても意味がない。死んだ目をしながら、黒いゴミ袋にまとめて投げ入れた。スマホを開いて、思い出の写真もラベリングしていたフォルダごとゴミ箱に放り投げた。全てが無に帰した。これでいいのだと言い聞かせて。それでも涙が零れ落ちる。本当に一人になってしまった。友達なんていなかった。「親友」が全てだった。友達のような思い出をくれたのは貴方だけだった。もう少しでこの街を離れるのにいつまで貴方のことを考えているのだろう。その考えを振り切るためにたっぷり入ったごみ袋を捨てにいった。しばらくすると収集車が来る。バキバキと音を立てて消えていく想い出を眺めていた。
とうとう引っ越しの日が来た。最低限の荷物しかないから自分で全てを持っていくことにした。街がどんどん遠ざかっていく。そして、全く見えなくなった。
知らない街。途中で自動販売機のコーヒーを買う。無機質な音を立てて缶コーヒーが出てきた。当たり付きの自動販売機が「7777」と当たりを知らせてきた。無意識にもう一つ同じコーヒーを選ぶ。振り返っても誰もいなかった。当たり前だ。一口飲むといつもよりも苦かった。
そして、もう少し進むと新しい家に辿り着いた。部屋を開けると空虚な空間が広がっていた。段ボールを全て置いて、作業を進める。荷物が少ないからすぐに終わった。最低限の生活ができる部屋を眺めた。そして、当たりの缶コーヒーを開けて一思いに飲み干した。部屋に大の字になって寝そべってみる。ひんやりと冷たかった。明日からは新しい職場だ。やることは前の職場と同じだから、最低限の準備だけして早めに寝ることにした。新しい職場で挨拶を済ませ、業務に取り掛かる。やっぱり慣れているものが多いと覚えも早い。ここでもキツく見られたのか、またしても友達はできなかった。昼休みにランチをしている同僚の話し声を聞いて、羨ましさを募らせていた。昼ご飯を食べて、早めに業務に取り掛かった。どこにいても寂しさは消えないようだ。昼休みも仕事をしていたからか、早めに帰ることになった。早めに帰ってもやることはないのに。
こういう時、何をしていたのかもう忘れていた。ただただ虚しい。ベランダから空を眺めると大きな月、星の瞬き。宝石を散りばめたような空だった。何をしてもつまらなかった。近くにあるバーを調べて、行くことにした。ありきたりなカクテルを頼んでゆっくりと飲む。そんな時、隣に座った男性にいわゆるナンパをされた。落ち着いていて、大人っぽかった。することもなかったので、一緒に飲むことにした。丁寧に質問をして、適度に自分の話をするような人。きっとモテるんだろうな、とぼんやりと考えていた。そうしていると、男性は心配してくれた。大丈夫だと嘘をついた。全然大丈夫じゃないのに。目の前の男性が話すたびに貴方と比べてしまう。同じ「男性」と話しているのに楽しくなかった。それは貴方が好きだったからなのか、貴方が楽しさを作ってくれていたのか。今では分からない。確かめる術を自分から手放したのだから。貴方は今どうしているんだろう。元気にしているのだろうか。もう横の男性の声は聞こえなくなっていた。ぼーっとしていた私を見てなのか、男性が
「好きな人がいるんですか」
と聞いてきた。
何も答えられなかった。私にはもう好きになる資格はなかった。代わりにポタポタと涙が零れ落ちた。これが自分の気持ちだった。結局気持ちには嘘をつけない。一気に思いが溢れてきた。気持ちを伝えられなくてもいい。今すぐにでも会いたい。色々なところに行きたい。想い出を沢山作りたい。あの頃に戻りたい。それが全てだった。やっと横の男性の言葉が聞こえてきた。
「俺じゃ駄目かな」
今、一番聞きたくなかった言葉だった。大切な人から聞きたかった言葉だった。すぐにお会計を済ませて、答えを告げないまま店から出た。あの男性も追いかけてくることはなかった。結局みんなそうだ。みんなみんなみんな。追いかけてくれたのは貴方だけだった。
私にとっては「親友」は何でも話せて、何でも出来て、どんな時でも話を聞いてくれて、私のヒーローだった。もう一度だけでもいいから会いたかった。でも、あの日のことがあるからもう会いたいだなんて言えない。何があっても言えないのだ。私は頼り過ぎていた。貴方は面倒だったかもしれないのに。やっと知らない街に来たのに、頭はあの街から一歩も動けないままだった。引っ越しまでしたのに、感情は全てあの街に置いてきてしまっていた。ゴミ袋に入れてもゴミ箱に捨てても頭の中のものは捨てられない。分かっていたのに。分かっていたのに。どこまで行っても、私はずっとあの街に縛られるのだろう。逃げるのは諦めろということなのだろうか。それでも、ここまで逃げてきたのだからもう戻れなかった。意地でしかなかった。まるで子供だ。
翌日のことだった。出張命令が出た。場所は寄りにもよってあの街。一番帰りたくて帰りたくなかった街。本当は断りたかった。でも上司からのお達しだから断ることはできなかった。
車に乗ってあの街に向かう。いつぶりだろう。取引先に挨拶を済ませて仕事にとりかかる。応援だったからか、退勤までかなりの時間を要した。上司には近くのホテルを取って明朝に帰るとだけ連絡を入れた。
辺りは真っ暗だった。私は最後だと言い聞かせてあの場所に向かうことにした。煌びやかな観覧車を見て帰ろう。そう言い訳をしてあの場所へと向かった。そして目的地に着くと、見慣れた後ろ姿が柵にもたれながら遠くを眺めていた。まさかいるなんて思っていなかったから、何も出来ずに立ち尽くしていた。愛おしい後ろ姿。謝りたかった。出来ればこのまま抱きしめたかった。でも、それは自分が許さなかった。その場から静かに去ろうとした時、ヒールの音がコツッと鳴ってしまった。貴方が振り返る。すると、目を見開いてただ立ち尽くしていた。まるで私の写し鏡のように。あの日以来に直接対峙することになってしまった。会いたかった会いたくなかった。言葉を聞くのが怖かった。怖くて今度は逃げもできなかった。手足が震える。泣きそうなのを必死にこらえている。観覧車は煌びやかに回っている。まるであの日に帰ってきたかのように。また観覧車が貴方の瞳に映る。綺麗だった。通行人もいなかった。私も貴方もしばらく動かなかった。私はずっと貴方から目が離せずにいた。貴方はしばらくすると目を伏せてしまった。きっと呆れられてしまったのだろう。
私が去ろうとしたのと同時に、貴方は顔を上げた。今までに見たことのない表情をしているのを見て、脈が早くなるのを感じる。ゆっくりとこちらに近づいてくる。私はまるでメデューサと目が合ったように動けなくなってしまった。とうとう、今までになかった距離まで近づいていた。目に映る私。そこには本当の私が映っていた。
「俺じゃ駄目かな」
一番聞きたかった人から聞くとこんなにも響きが違うのかと驚いた。ずっと怖かった。きっともう私は忘れられていると思っていた。とめどなく涙が溢れる。
「貴方じゃないと嫌だ」
ようやく素直な言葉が出てきた。いつもあなたに引っ張られてばかりだ。だから余計に怖かった。いつ見捨てられるか怯えていた。でも、違った。貴方はずっと真っすぐにを見ていてくれていたのに。私はそれに気づかない振りをして大事なところで目を逸らしていた。友達だって恋人だってすぐ離れていったから怖かった、なんて言い訳でしかない。一番は「貴方にどうしても嫌われたくなかった」からだった。貴方だけはどうしても失いたくなかった。タイミングはいくらでもあったのに、目を逸らし続けていたのは私の方だった。無意識に遠ざけていたのは私だった。心は常に逃げ回っていた。
そう考えている間にもずっと見つめ合っていた。視線が交わっているだけなのに溶けてしまうかのような感覚に陥っていた。貴方の目もだんだんと溶けていくのが見えた。気がつくと今までの時が嘘かのように混じり合っていた。初めての感覚と香水の匂いにクラクラした。脳もどんどん溶けていく。もう言葉はいらなかった。それが全てだった。息遣いが聞こえる。頭に手を回されてもう逃げられなくなっていた。しばらく貪るように求め合った。そして、ようやく時間が元に戻った。貴方が愛おしそうに私を見つめる。
「好きだよ」
聞いたことのない声色でそう告げた。
「好き」
今まで言えなかった二文字がするりと零れた。そう言うと今度は優しく甘い味を一つくれた。私もお返しに一つキャンディーをあげた。そうすると、いつもみたいに笑ってくれた。
まるで、さっきのことが幻だったかのようにあの時より前の雰囲気に帰っていた。手を差し出すとあたたかい手で握ってくれた。歩きながら「不器用でごめんなさい」と言うと、貴方も同じことを言って驚いた。私の中では凄く器用なイメージしかなかったから。そう言うと、「お互い様だったんだね」と笑顔で返してくれた。なんだか可笑しくて私もつられて笑ってしまった。手はずっと繋いだままだった。