白昼夢
「…ねえねえ」
「うん? なぁに?」
「このお店ってちょっとトイレの位置がおかしいと思わない?」
「……そうね。 言われてみればたしかにちょっと変ね」
「でしょう? どう言えばいいのかわからないけど…、女性用の方が外側にくっついてるというか、男性用の方が内側に飛び出すようになってるというか、これだと外から見たら階段を横に倒したようになるはずなんだけどそんな感じ無かったよね」
「うんうん。 男性用の方は中をちゃんと見たことないけど、出入りするときに隙間から少し見えた感じだと極端に広くなってるとかでもなかった気がするし……、なんでだろう?」
「それがさ、この前その理由を聞いちゃったんだけど気味が悪くって…」
「え? もしかしてまた怖い話? そういうのやめてよぉ。 ここ気に入ってたのにもう来れなくなるじゃん……」
近くのテーブルからそんな話し声が聞こえてきた。
ここはこの地方では誰でも知ってるような、しかしほかの地域の人は誰も知らないような所謂ローカルチェーンのコーヒーショップだ。
俺はここでバイトしている友人に頼まれてドリンクか何かの機械の修理のために呼ばれたのだが、生憎その友人がまだ来ていなかったため、カプチーノを飲みながら待っているところだった。
機械の修理といっても俺にできるのはせいぜい何か詰まってるのを取るとか弛んだネジを締めるとかそのくらいしかできないと言ったのだが、機械音痴の友人は「それでも私よりもマシだから見るだけでも見て」と頭を下げて頼んできたために内心渋々来たのだ。それなのに肝心の友人が遅刻していたのであとで何を奢ってもらおうかと目論んでいたところ、近くのテーブルの女子高生たちがそんなうわさ話を始めたので怖い話好きな俺はついつい耳を寄せてしまった。
「実はその通りで怖い話なんだけどさ。 自分だけ知ってると余計に怖いから……。 お願い! この想い共有して!」
「ええー…。 仕方ないなぁ…。 その代わりあんまり怖い話し方とかしないでよー?」
「うんうん! ありがとう! それでね…実はこのお店って何年か前に改装したみたいなんだけど、その前はトイレは普通に男女が並んでる感じで今みたいな変な間取りじゃなかったみたいなの……」
怖い話し方はしないように頼まれていたはずだが、いかにも怪談らしい話し方にしか聞こえなかった。
まあ本人たちが何もつっこんでないのでこれは無粋なんだろう。
「じらしても仕方ないから結論だけ先に言っちゃうと、改装前にこのお店働いていた男の人が男性用のトイレで首を吊ったらしいの」
「えー? それでトイレの位置変えちゃったの? それならわかるけど、店長さんかな?オーナーさん?どっちかわからないけど責任者の人が鈍感だったりすると、そのまま続けちゃいそうだったからそこは良かった気がするね」
「そう! それは私も同感なんだけど、実はその店長さん鈍感な人だったみたいなの!」
「えっ? どういうこと? 実際改装されてるのに?」
「そこが怖い所で、まあ誰かが首吊りしたなんてそれだけで十分怖いんだけど…。 そのあとからトイレで色々起きるようになっちゃったみたいなの…」
「えー…、何かって? 何が起きたの?」
聞き手の子も怖がってる割に興味津々だな。俺も知りたいから良いんだけど、怖いもの見たさってやつなんだろう。
「そのあと、そのトイレで首を吊った男の人がぶら下がってるのを見た人が何人も出たみたいなの…。 1人や2人じゃなくって、たまたま何も知らないお客さんが見て悲鳴をあげて、それを聞いたほかのお客さんや従業員さんが駆け付けたらその人たちも見ちゃって、みんなが見たから当然また誰かが首を吊ったんだと思って警察に連絡したらいつの間にか消えちゃってたとか…。 ほかにも誰もいないのに男の人の声が聞こえたとか、縄か何かの軋むような音が聞こえたとか、鏡の端に誰かが映ったのに振り向いたら誰もいなかったとか…。 この手の話でありそうな事はほとんど全部って言っていいくらいに色々起きたんだって…」
「うわー…そんなの絶対やだー……。 そんなお店誰も来なくなるんじゃない?」
「そうなの。 男性用トイレって言う場所が場所だけに男性だってそういうのは嫌がって来なくなるし、女性はほとんど変な体験することはなかったらしいんだけど、やっぱり気持ち悪いじゃない? だから客足も遠のいて、もちろんバイトさんとかも嫌がって辞める人が増えちゃって、それでも店長さんはなかなか信じなかったみたいで、ただの噂なのにほかの人たちを情けないだのとか文句言いながら、しばらく耐えれば噂も風化して客足も戻るだろうって続けてたみたい。 不幸中の幸いでお客さんがほとんど来ないから従業員さんがほとんどいなくなっても何とか回せてたっていうのもあったみたいね。 人件費?とかの面でも助かっただろうし」
「ふーん…。 って、あれ? でも今こうなってるってことはやっぱり何かあったのよね?」
「そうそう。 ある夜に店長さんが1人でお店の片づけをしてたら、やっぱりトイレの方からガタンッて物音がして…、確認しに行ったらそこでついに見ちゃったらしいの……」
「やー……。 夜に1人って最悪じゃない…。」
「うん。 それでさすがに店長さんも噂が本当だったって気づいてすぐに改装することになったんだって……。 でもそれがちょっとズレてて……」
「どういうこと?」
「私たちみたいなお客さんからはわからないんだけど、キッチンの奥に通路があってその先が従業員用の休憩室になってるらしいの」
「うん。 普通じゃない。 それがどうしたの?」
「その休憩室なのよ」
「…えっ?」
「前に男性用トイレだった場所。 今は休憩室になってるらしいの」
「えー! どういうこと!?」
「ここのトイレって窓がないからわかりにくいかもしれないけど、キッチンの方からトイレの向こう側を回るように通路があって…、その先…、つまり元々男性用トイレだった場所が今の休憩所になってるんだって……」
「やだ! それって従業員の人たちなんともないの? そんなの絶対何か起きるじゃん!」
「そうなんだけど…。 このお店ってバイトの面接は必ずその休憩室でやるんだって、その面接のときに何か見たり感じたりする人はもうその時点で無理でしょう? だからそういうのがわからなかったり、わかっても平気な人が働いてるみたいなの」
「そんなの私は絶対無理ー……」
「私も無理。 だけどここってちょっと時給高めじゃない? それに噂では休憩室に従業員用の無料ドリンクバーがあったりするらしくて気にしない人にとってはすっごく良い環境なんだって。 だから人気のバイト先でもあるんだって」
「嘘! 従業員用のドリンクバーってすごくない? だってここコーヒーショップなのに、休憩室にはお店用とは別の機械があるって事でしょう?」
「そうなのよ。 まあさすがに改装前に使ってた古い機械らしいんだけど、実質特別手当みたいなものよね。 そういうのがあるから多少怖い思いしても続ける人がいるみたいよ」
「えー……。 たしかに魅力的だとは思うけど、私だったら無理だなぁ」
聞いてよかったのか悪かったのか…、俺が頼まれた修理というのは十中八九その休憩室のドリンクバーの機械の事だろう。
さすがにお店で使う機械は俺のような素人に頼むことはないだろうし、友人の話でも従業員用の古い機械だとか言っていた覚えがあるのでまず間違いない。
怖い話が好きだとはいえ本当に出ると云われるような場所に行ったことはない。そういうものに興味がないと言うと嘘になる、しかし本気で怖い思いをしたいわけじゃない。
さっきまでは他人事の噂話であったのに、まさか自分が直面することになるとは…。気楽に人の話を聞いていた俺と交代するかのように今彼女たちは肩の力を抜いて学校の友達や教師の愚痴を言い合ったりしている。ここでバイトする気でもなければ関係がないからだろう。彼女たちは何も悪くないが少し恨めしい。
ここまで待ってから何だが、もう帰ってしまおうか…。そんな思いが生まれたとき。
「ごめん! お待たせ―! 途中まで来てからスマホ忘れてたことに気づいちゃってさ―――」
友人のご登場だ。
(この野郎…!)
曲がりなりにも女の子に対して思う事ではないかもしれないが、その時まず思い浮かんだ言葉はそれだった。
そのまま怒鳴りつけてやりたい気持ちもあったが、さすがにもうそんな事をするほど子どもではない。
一呼吸おいてから小声で彼女に確認してみる。
「ふー……。 ちょっと確認したいんだが、ここの休憩室に幽霊が出るって本当か?」
「え? ああ、うん。 そうだよー。 あれ? 知らなかった? けっこう有名だから知ってると思ってたんだけど。 まあ私は見たことないんだけどね」
あっさり認めやがった。言い方が軽いのにもイラっとくるが、たしかに有名な事なら知らなかった俺にも非があるかもしれないのだけれど…。
「バイト友達は何人か見たとか聞いたよ。 あっ、そっか! キミが来てからまだ半年も経ってなかったっけ。 それじゃ知らなくても仕方ないかも。 ごめんごめん。」
そう。俺は今年進学を機にこちらに越してきたので、この辺りのローカルなネタには疎いのだ。けっして友達が少ないからだとは思いたくない。
「でだ……。 言いたいことは色々あるがとりあえず、見て欲しい機械というのはその休憩室にあるドリンクバーの機械で間違いないか?」
「うんうん。 そうだよ。 古いせいかどうにも調子が悪くてね。 店長さんはお金払ってまでプロに修理してもらう気はないみたいだし、ほかのバイトの人たちもあんまりこういうのに詳しい人がいなくてね」
「俺だってファミレスとかのドリンクバーを使うくらいで、そんな機械ちゃんと見たことないから大したことできないぞ?」
「うんうん。 わかってるよ。 なんとかなれば良いなってくらいで本気で期待してるわけじゃないから気楽に見てよ」
そう云われると何とかしてやろうと思ってしまうのは負けず嫌いなのだろうか。
「まあ……、直せるかどうか以前にその部屋に入るかどうか迷ってるんだけどな」
「えー…? 怖いのー? 案外普通だよ?」
……馬鹿にするような口調じゃないのは良いが、図太そうなこの女の普通は当てにならない気がする。
「怖いのもあるが…、人が死んだ場所って普通は嫌だろう?」
「そう? えー…、じゃあどうする? 無理そう?」
嫌ではあるものの、見えない人もいるみたいだし、何よりこのまま帰るのも薄情な気がする。
「……とりあえず、その休憩室には行くよ。 そこで何か見えちゃったりしたらすぐに帰るからな?」
「うーん。 仕方ないかー。 それじゃ何も見えないことを願って早速行っちゃいますかっ」
「……わかった」
少し残っていた冷めたカプチーノを一口で飲み干し、カップを返却口に置きつつ件の休憩室へ移動する。
友人が従業員の人たちに俺の事を説明しそれに会釈しつつ裏に通してもらう。通路の隅には何が入ってるのかわからないダンボールがいくつも積まれていて元々細いであろう通路がより細く見える。
「ここ狭いでしょ。 ぶつからないように気をつけて通ってね」
おそらく改装時に少々無理に通路を作ったせいで狭くなったんだろうなと思いながら、先に見える休憩室の扉に向かって進む。おどろおどろしいものを想像していたが、友人の言う通り“案外普通”だ。まあ、おどろおどろしい扉というものがどんなものかは俺にもわからないんだが。
「ここだよー」
何のためらいもなくあっさり扉を開けやがった。
生唾を飲み込んで覚悟するくらいの間は欲しかったんだが…、こいつにそんなものを求めるのも酷か……。
見えちまったらどうしようかと思っていたんだが、幸いにもそこはやはり“案外普通”の部屋だった。事務用のテーブルやパイプ椅子があり、ゴミ箱らしきものや壁際の棚には件のドリンクバーの機械が置いてあるだけだった。天井の蛍光灯が一本切れかけているのか点滅しているのが不気味といえば不気味だがそれくらいだった。
「たしかに普通だな」
「でしょー」
なぜ少し誇らしげなのか、理解はできないが安心しつつ入室する。
「それで、その機械が?」
「うん。 なんか頻繁に動かなくなるんだよねぇ。 やっぱり古いせいなのかな?」
「うーん。 見た感じではそんなに古くも見えないんだけどな。 試してみてもいいか?」
「もちろん。 好きなように見てみて」
機械の横に置いてある紙コップを1つもらって動くか確認してみると、音はするものの液体が出てこない。どこかで詰まっているのだろうかと考えて取り外しできそうなところを探る。
「これどこか詰まってるんじゃないか?」
「えー? 口にするものだから定期的に掃除してるはずだけどなあ?」
「はずって、お前はやってないのか?」
「うん。 その日の閉店後の片づけのときに掃除することになってて、ほら私は門限があるから、遅番で入ることがなくってやったことないんだよ」
「ああ、なるほど…。 お、これかな」
話しながらあちこち触っていたら動かせそうな箇所を見つけたので外してみる。外しながらも、それなら掃除用の取り外し方のマニュアルとかあるんじゃないかと今更ながらに思ったが、もう手遅れ感があるので黙ってそのまま続ける。
「うん? ……うわっ! なんだこれ!」
外したパーツの中を覗いてみたとき、一瞬それが何なのかわからなかった。
髪の毛だ。誰かの髪が液の浮き出し口に詰まっている。
誰のなのか、なんでなのか、掃除してるはずじゃないのか、疑問ばかりが頭に浮かぶ。気持ち悪くて反射的にパーツを投げたくなったが、自分のものではない事が脳裏を過ったために手が離せなくなってしまった。冷静だったならどこかに置けばいいとすぐ気づきそうなものだが、そのときはそんなことを考えられなかった。
「うわー。 気持ち悪いねー」
俺の焦りとは対照的に友人のどこかのんびりした声が聞こえる。そのおかげなのかなんなのか、若干の冷静さを取り戻した俺はパーツを裏返し振るようにして髪だけ床に落とす。ゴミ箱の上でそれをやらなかったのは、やはりまだ動揺していたせいか。
「なんなんだ!」
もうそんなことしか言葉にできない。
―――ポタッ。ポタッポタッポタッ。
動揺の中、髪を落として全部取れたかパーツを確認していたら。手元に茶色く濁った水滴が落ちてきた。
機械から漏れてきたわけではない。しっかり見たわけではないが、明らかにもっと上の方から落ちてきたのが見えていた。
何も考えず天井を見上げてしまった。もしかしたら嫌なものが見えちゃうかもしれないとかそんな考えもなく、それが当然のように。
天井からは何かの液体が垂れてきていた。少しずつシミが広がり、いくつもの雫が今にも落ちそうになっている。
理由はわからない。ただその時、何かが出てくる前兆としか思えなかった。理屈ではなく直感でしかないが間違いなくやばいものが出てくる。
「―――逃げろ!」
それだけ叫ぶ。友人も同じ考えだったのか無言ですぐに走り出した。
「逃げろ! すぐ逃げろ!」
俺はそれだけを叫びながら店外に向かって走り続ける。
俺の焦りが伝わったのだろうか、従業員の人たちも疑問も何もなく黙って即座に走り出す。
ほかのお客さんも同じく店外へ走り出す。
(ここは常に逃げることを想定していないといけない危ない店という共通認識でもあるのだろうか?)
あまりにもスムーズに避難が進みすぎてそんな疑問が浮かぶが、今はとりあえず外に出ないといけない。
俺の判断でみんなを避難させたことで生じた責任感なのか、何となく俺が一番最後に出なければいけない気がして出入口で一旦立ち止まりほかの人たちを外へ誘導し、ほかに誰もいないことを確認してから自分も外に出た。
「………えっ?」
外に出ると、先に逃げたはずの人が誰もいない。いつの間にか夜になっていて辺りは真っ暗でほかの通行人すらいない。
振り返って店を見ると、真っ暗で“CLOSED”の札が掛かっている。
俺は……、何を見ていたんだろう……。
よくよく思い返してみると、友人だと思っていた彼女は誰だったんだろうか……。