ファーストキス
「か~くん」
女性は少女のようなあどけない笑みを浮かべて俺の昔のあだ名を呼んだ。俺のあだ名は何もないという意味の『カラ』だ。しかし、一部の女子からは『か~くん』と呼ばれていた。この呼び名は可愛らしく聞こえて、好感度があるように思えるが実際は違う。これは俺を憐れむ心から生まれた呼び名だ。
「お前は……誰だ」
俺は臆病な人間だ。もしも相手が男性だったならば声を発することができずにフリーズしたままだった。しかし、相手が女性だったので声を出すことができた。女性なら無慈悲な暴力の狂飆にさらされる危険がないと感じたからだ。
「か~くんは私のことを覚えていないの?」
シルバーアクセサリーのようなキラキラと輝く銀色の髪、ルビーのような魅了的な赤く大きな瞳、ガラスのように透き通る白い肌、ギリシャ彫刻のような筋の通った小高い鼻、甘い果実のような淡い桜色の小さな唇、こんな美しく透明感のある女性を俺は今まで見たことはない。しかし、俺のあだ名を呼ぶのならクラスメートであることは間違いないだろう。
「ごめん……わからんわ」
「いいのよ。私は甘南備よ」
甘南備のことははっきりと覚えている。クラスでは孤立した存在の俺を憐れむように声をかけてくれた女子の1人で、特に甘南備は一番俺を憐れんでいた女子だ。友達と呼べるような存在のいない俺は、お昼休みは新太郎たちのおもちゃにならないように、1人で机に座り寝たふりをしていた。甘南備は寝たふりをしていた俺に、ニコニコと笑みを浮かべながら声をかけてくれた。人と話すことが苦手な俺、特に異性と話すのは苦手だ。これは女性が嫌いと言う意味ではなく、思春期にありがちな女性に対して苦手意識があったからだ。しかし、今思い返すと女性に対して過敏に意識してしまうので、極度に緊張していたのだ。あの時の俺は、その感情の意味が理解できずに、顔を真っ赤にして体が硬直していた。もちろん、今でも女性は苦手である。でも、あの時と違い女性に対しての自分自身の感情は理解している。
「嘘だろ……」
中学の時の甘南備は、お世辞でも美人と部類されるタイプではない。顔にはソバカスがあり、細目で団子鼻、でも愛嬌のある笑みを浮かべて、声をかけてくれる甘南備を好きだと言う気持ちに気付いたのは中学校を卒業してからだ。高校に進学してからの俺は、いじり……いや、いじめの対象からは外れて、憐れみで声をかけてくれる女子の存在もいなくなった。高校時代の俺は完全に一人ぼっちだった。完全な1人ぼっちになった俺は、甘南備との何の変哲もない思い出が俺の恋心を気付かせてくれた。好きだった女性の顔を忘れることなんてない。俺の目の前にいる女性は、俺の思い出の中にある甘南備とは別人だ。
「失礼よ、その言葉は!」
甘南備と名乗る女性は頬を膨らませてすねた顔をする。
「ごめん」
「冗談よ、か~くん。私、あの頃からだいぶ変わったからね。柊たちも全然気付いてなかったわ」
俺は美しい甘南備の容姿ばかりに気を取られて大事なことを忘れていた。
「……お前がやったのか」
アニメに出て来そうな美少女に見えた甘南備の姿が、今はホラー映画に出て来そうな残忍な悪女の姿に見える。本当に人間の目はいい加減だ。
「逆よ。私がやられたのよ」
甘南備はニヤリと笑みを浮かべる。この笑みを魅惑的な微笑と捉えるか氷の微笑と捉えるかは、俺の心の天秤の傾きで決まるだろう。
「……」
俺の心の天秤は氷の微笑に傾いて全身が恐怖に染まる。
「もぅ!か~くん、ひどくない。今のは笑うところよ」
「……ごめん」
「か~くんは変わらないね」
「……」
甘南備は悲し気な目で俺を見た。今もあの時のように俺のことを憐れんでいるのだろう。
「か~くんも災難だったね。柊に騙されてバーに呼び出されて、挙句の果てにはレイプの手伝いまでさせられるなんて……ホント、可哀そう。でもね、ちゃんと嫌なことは嫌と言えるようにならないとダメよ」
「ごめん」
甘南備の言う通りだ。この場で何が起きたのかは理解はできないが、俺は加害者側で甘南備は被害者側であることに間違いないだろう。
「か~くんは、私とエッチがしたかったの」
「……」
透き通る白く美しい顔を淡いピンク色に染めた甘南備が車から降りてきた。そして、タイトミニスカートから伸びる細くて綺麗な足と、ざっくりと開いた白のブラウスから零れ落ちそうな大きな胸の谷間を見せつけるように闊歩して、俺に向かって近づいて来る。俺は不謹慎にも甘美なふとももから舐め回すようにざっくりと開いた胸元に目をやった。
「か~くんも男だもんね。こんな格好をしていたら足や胸元に目がいくのは当然ね」
「ごめん」
俺は緊張と興奮で顔が真っ赤に染まる。
「か~くんになら襲われてもいいかな」
「……」
甘南備の体と俺の体は磁石のS極とN極のように引き寄せられていく。
「か~くんは嫌なの」
「俺は……」
柊が言った通り俺は生粋の童貞だ。風俗店へ行ったこともなく女性の裸などネットでしか見たことはない。女性に触れるのも小学三年生の遠足で手を繋いだことが最後だ。しかし、今、発酵したパン生地のようなフワフワで暖かい甘南備の肌が俺の体に密着している。叶うのならばエッチをしたい。もしエッチができなくても、この暖かい温もりを1秒でも長く感じていたい。
「かわいい」
この時甘南備はどのような顔をしていたのか俺にはわからない。俺は恥ずかしくて甘南備の顔を見ることができない。しかし、甘くて心が落ち着く気持ちの良い香りが俺の顔に近づいて、柔らかい感触を唇に感じた。