至福の時
「か~くん、少しは落ち着いたかな」
「あぁ」
俺は小さく頷く。
「それならよかったわ。か~くん、落ち着いたのなら、こっちを見て欲しいな」
甘南備は柊の死体がある方向を指さす。俺は恐る恐る指さす方へと視線を向ける。
「えっ!柊の死体がない……やん」
先ほどまであったはずの柊の死体は無く、かわりに泥が道路に散乱している。
「甘南備、嘘じゃない。嘘じゃないねん。ホンマに柊がいてん」
俺は再び動揺して大声を上げてしまう。
「うん。わかっている。か~くんは嘘なんかつかいないわ」
動揺して子犬のように震えている俺を甘南備は笑顔で諭してくれる。
「どうなっているねん。何がおきてるねん」
「か~くんは不思議な体験をしたんだね」
「そうやねん。こんなことありえへんねん」
「か~くん、道路で座り込んでいるのは危ないわ。場所を変えてゆっくりと話を聞いてあげるわ」
この道路は人通りや車の通行が少ない所だが、全く通行がないわけではない。運よく俺が座り込んでいる間は、甘南備以外誰も通行してこなかったのは幸いだったのかもしれない。
「あぁ、そうやな。待ち合わせのバーに行こか」
「か~くん、実はか~くんが経験した不思議な体験には心当たりがあるの。そのことに詳しい人がいるから別のバーに行こ」
「えっ!心当たりがあるのか」
「うん」
「……」
俺は少し考え込む。自分の身に起きた不思議な体験が、どのような因果で起きたのか知りたい。しかし、人見知りの俺は知らない人と会うことはかなりの抵抗がある。それに俺には果たさなければいけない使命も抱え込んでいる。もし、このまま別のバーに行ってしまったら、俺の童貞卒業作戦が失敗に終わる。今まで生きてきた人生の価値観を狂わせるような出来事が起きたにもかかわらず、俺は童貞を卒業したい気持ちを捨てきれずにいる。
「どうしたの」
甘南備は心配そうに俺の顔を覗き込む。
「あのバーじゃあかんのか」
俺はあっさりと欲望に負ける。
「もしかして、か~くんは早く家に帰りたいのかな」
「そんなことないわ」
俺は早口で否定する。
「う~ん……」
甘南備は困り顔で少し考え込む。
「そのバーはどこにあるねん」
俺は甘南備の誤解を解くために、妥協しなければいけないと焦りを感じた。
「枚方市駅の近くのバーになるの。ここからだと長尾駅からバスで30分くらいかな。でも、か~くんにも用事があるよね」
「ええよ。行くわ」
これは願ってもないチャンスかもしれない。枚方市駅へ行くのは俺の作戦の1つでもある。見知らぬ人と会うのは嫌だが、ラブホが近くにある枚方市駅へ向かうことは願ったり叶ったりだ。
「ほんとに!ありがと」
甘南備は嬉しそうに微笑む。
「じゃぁ、か~くん。行こ」
甘南備は細くて白い手を俺に差し出す。俺は思わず顔が真っ赤に染まる。
「う?どうしたの」
「大丈夫……自分で立てるわ」
俺は甘南備が差し出した手を、強く握りしめたかった。でも、恥ずかしくて拒絶してしまった。
「ちょっと、メールを送るわね」
俺は拳を握りしめて己の気弱さに後悔をしながらバス停へ向かった。
「か~くん、席空いてるわよ」
今は帰宅の時間帯なので、長尾駅発のバスに乗車する人は少なめである。逆に枚方市駅から長尾駅へ向かうバスは込み合っている。
「あぁ」
俺はぶっきらぼうに答えるが内心はガッツポーズをしている。女性の隣に堂々と座ることなど俺の人生では起こり得ないイベントだ。俺はニタニタと気持ち悪い笑みが浮かび上がるのを必死で堪える。
「ちょうど出発のバスが止まっていてよかったわ」
「あぁ」
長尾駅のバス停に辿り着くと、5分後に出発予定のバスが停車していた。俺たちは運よくバス停で待つことなくバスに乗車することができたのである。
「か~くんは、枚方市駅の方へは良く行くのかな」
「たまにかな」
甘南備は、バスの中で不思議なできごとの話をするわけにもいかないので、あたりさわりのない話題をふってくる。俺は喋りが得意ではないので、話しかけてくれるのは嬉しいが、上手く話を盛り上げることはできない。それに甘南備の話よりも、時々バスの揺れで肩と肩がぶつかる瞬間に感じる柔らかく弾力のある肌の感触に意識を集中してしまい、話が頭へ入ってこない。俺はバスが激しく揺れることを祈りながら、甘南備との狭い空間を全力で謳歌していた。
「もう、着くわね」
「あぁ」
俺と甘南備との会話は、俺が頷くだけでほとんど盛り上がることなく、終点である枚方市駅に着いた。しかし俺にとっては十分に満足のいくバスの時間であった。
「こっちよ」
甘南備は再び俺を導くように手を差し出した。
「あぁ」
俺は真っ赤になりそうな顔を隠すように下を向いて手を伸ばす。すると、甘南備は俺の手を優しく包むように握ってくれた。俺はこの時、昨日キスをしたことを鮮明に思い出す。そして心の中で、甘南備は俺のことが好きなのではないかという疑問が確信へと変わり、人生で最大の喜びを得た。
「か~くん」
甘南備の意図はわからないが、俺のあだ名だけを呼ぶ。俺はその呼びかけに返事をせずに自然と笑顔で答える。俺は今日初めて素直な自分の気持ちを顔で表現することができた。俺は甘南備の手を優しく握り返して、恋人のような雰囲気を味わいながら甘南備が案内するバーへ向かった。




