実現
絶望的な悪夢が現実だったと知った時、俺の脳は防衛本能が作動した。
俺の脳は悪い記憶を排除して、良い記憶を優先的に思い浮かべた。その記憶とは甘南備からキスをしてきたことだ。俺は本能的に自分の唇を触る。俺のカサカサの唇に、グミのように柔らかく甘い香りが漂う甘南備の唇が重なった。俺は童貞でありキスもしたことはない。中学の時に好きだった甘南備は、甘美な色気を纏った美しい女性に成長していた。あんなにも美しくなった甘南備が俺のファーストキスの相手になるなんて、俺の人生で一番のジャイアントキリングと言えるだろう。
恐怖に飲み込まれて怯えていた俺は、甘南備との甘い出来事を思い出すことで、天に召された気分へ早変わりした。甘南備との一時の甘い出来事は、妄想ではなく現実だ。この事実は俺を天国へ誘うには十分な理由であった。頬の筋肉が緩み、人様に見せられない愉悦の笑みを俺は浮かべる。そして、思い出したくない記憶に蓋をするためにさらなる欲望が目覚める。
「会いたい……甘南備に会いたい」
俺の脳裏に浮かび上がる記憶がある。それは、甘南備が俺に囁いたあの言葉だ。 「か~くんは、私とエッチがしたかったの」と言った甘南備の顔はまんざらでもなかった。むしろ俺を誘っているようにも思えた。その証拠に自ら進んでキスをしてくれた。もしかして、甘南備は俺のことを好きなのかもしれない。これはいつもの妄想ではなく、根拠のある推測だ。俺は再び甘南備に会って、あの言葉の真偽を確かめたい。しかし、甘南備と会うにはどこへ行けば良いのだろうか。甘南備の連絡先は知らない。現実の壁が俺の行く手を塞ぎ、天にも召す気分が再び地獄へと突き落とされていく。
「俺の人生なんて結局こんなもんか」
俺は愚痴をこぼす。俺の人生で思い通りになったことなど1度もない。むしろ、思いとは逆の方へことは進んでしまう。今回もそうだ。自分を変えるために柊の誘いにのって、Bar Heavenに行った。しかし、そこで待ち受けていたのは俺を嘲笑する舞台であった。
「行くんじゃなかったわ……」
俺はため息を付いてバーへ行ったことを後悔した。
『ピロロロリン、ピロロロリン、ピロロロリン』
突然、俺のスマホが鳴った。
「もしかして、甘南備か!」
俺はいつもの妄想が発動した。あの時、俺は何かしらの理由で眠ってしまった。甘南備は眠った俺を家へ送り届けるために、俺の財布とスマホを取り出して、住所と電話番号を調べたのだ。それで辻褄が合う。俺が自宅で眠っていたことと甘南備から連絡がきたことに……。俺はいつもと同じように自分にとって都合の良い妄想をして、スマホの画面を確認する。
「……」
俺は宝くじに当選したかのような絶頂の笑みを浮かべる。スマホの画面には甘南備と表示されていた。俺の妄想が初めて実現したのだ。俺はすぐにでもスマホを取りたかったが、体がカチンコチンになってしまい、自分の手が借り物の手のかのように自分の思い通りに動かない。
「早く……早く……」
早くスマホを取らないと切れてしまう可能性がある。自分からかけ直す勇気はない。このチャンスを逃すわけにはいかない。しかし気の小さい俺がこのプレッシャーに打ち勝てるはずがない。俺は千載一遇のチャンスを逃す。
「クソ!クソ!クソ!」
俺は自分の弱さを罵った。ただスマホをとるだけだ。それだけなのに俺は緊張のあまり体が硬直して、思うように動くことができなかった。スマホが鳴りやんで緊張が解けた俺は、右手でスマホを握りしめ、左手で零れ落ちそうな涙をぬぐった。
『ピロ』
「もしもし」
再度スマホが鳴り、早押しクイズのボタンを押すかの如くスマホにでる。
「か~くん私、甘南備よ」
鼓膜が溶けてしまいそうな魅惑的な甘い声が俺の頭の中を駆け巡る。おそらく俺は幸せそうな顔をしているに違いない。
「か……んなびか、なんかようか?」
心臓音が隣の家にまで聞こえそうなほど鼓動して、馬並みの鼻息をたてている俺だが、そんな様子を微塵にも感じさせないためにめんどくさそうに返事をする。
「また……、か~くんと会って話したいの。今日の晩空いてるかな」
俺は即答で「空いてるで」と言いそうになるが、口をぎゅっとチャックして、飛び出る言葉を塞いだ。そして、あるはずもない予定を確認するふりをする。
「ちょっと待ってや。スケジュールを確認するわ」
「あ!予定あるなら諦めるよ」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってや。すぐに確認できるし」
俺は慌ててスケジュールを確認するふりをする。その時間は約1秒。
「問題ないわ」
「よかったぁ。じゃぁ、19時にヘヴンで待ってるわね」
「あぁ」
俺は慌てた素振りを隠すために素っ気なく返事をした。しかし、甘南備がスマホを切ると、俺の嬉しさは津波のように全身を覆いつくす。
「やたぁ~~~~」
俺は家が揺れるほどの大声で歓喜の声を上げた。




