4.
「レインハルト、今なんて?」
僕は思わず聞き返した。聞き間違いであって欲しくなかったからだ。
狭い路地裏にその声ははっきりと響いた。
「シュウ・ヘルゼン」
左右を壁に囲まれ、正面にはレインハルト、背後にはロナウド。見上げた空には、窓から窓へとかけられたロープに、風にはためく洗濯物。壁に空いた小さな穴からネズミが顔を出して、どこかへ走って行った。
この左右の家々に住む人々は、今ごろ革命祭のステージか屋台に夢中で、そのうち幾人もが皇帝に瞳を輝かせ胸を躍らせ、手を振り歓声を上げて、この祭りの日を祝っているだろう。
僕は空を仰ぎ見た。はためく洗濯物の間から、青く澄んだ空が僕の目に飛び込んでくる。手に持ったままのキャスケットを握りしめる。
ひどく口の中が渇いたように感じるのに、僕は頬が緩むのを抑えきれなかった。腹の底から熱いものが込み上げてくるような感覚。久しぶりに僕も胸が躍るのを覚えた。
「それは本当ですね?」
「え? あ、ああ。もちろん偽名の可能性もーー」
「ありません」
僕はレインハルトの言葉を遮る。
偽名? そんなのありえない。あのシュウ・ヘルゼンが、本当にあのシュウ・ヘルゼンが生きているというのなら、誰かが自分の名を使うなんてことを許すはずがない。だから本物。それに、レインハルトのこの言い分なら、シュウ・ヘルゼンは生きている。
10年前の戦火は、今では革命戦争と呼ばれている。まあ僕の知ったこっちゃないからその話はどうでもいいんだけれど、ともかくあれで、王都城下の街々は燃え、多くの人が非業の死を遂げた。燃えた家々から逃げ出した人々は、その身の火を鎮めようと用水路へと身を投じた。用水路では収まらないと、城下の堀さえも、黒く焼けた屍体で埋まったという。それが転じて帝都に遺る掘は今でも黒堀と呼ばれる。ネーミングセンスはないと思う。
ともあれ、その戦火から脱出したヘルゼン元公爵は、一家を連れて郊外へ隠遁したと聞く。その中にシュウ・ヘルゼンがいたかどうかは定かではない。ただ一つ言えることは、シュウはあの日、城内にいたということだけ。
「ロン?」
思えば、レインハルトが僕の名を呼んだのはそれが初めてだった。
ーー君、僕の名前覚えてたんだ?
そう僕が口を開く前に、レインハルトが僕の顔に手を伸ばした。赤茶色の髪が強く吹いた風に靡く。顎を傾けられる。手袋に包まれたままの親指が僕の目尻を拭う。
「……ちょ、」
僕は息を飲みーー、渾身の腹パンを繰り出した。
「ちょっと!? 何勝手に人の顔触ってくれちゃってるんですか!?」
「痛い! 酷い!」
「酷いってのはこっちの台詞ですよ! 僕の顔に気安く触るんじゃありません!!」
良い子のみんなも悪い子のみんなも、大事なことだから覚えておこうね。顔がいい相手の顔を殴ると社会的に抹消されるから、狙うなら確実に服で隠れるところにするんだよ⭐︎
ということで、僕はレインハルトをボコボコにすることにした。
「待て待て。落ち着け」
が、流石にそれはロナウドが黙ってはいなかった。うまく鳩尾には入らなかった腹パンは、レインハルトを僕から数歩引き離すことには成功したけど、まあか弱い僕の力程度で倒れてくれるほど警備隊サマは甘くなかった。
僕はロナウドに羽交締めにされ、レインハルトはその前で腰に手を当てて僕を見つめている。
「むぅ」
「勝手に触れたのは悪かったって。それにしたって殴ることなくない?」
「美しい僕に触れようなんて100年早いんですよバーカ」
僕の頭の真上から「なんてくだらない争いなんだ」って聞こえてきた気がするけど、気にしないであげるね、ロナウド。
それからレインハルト。僕に触れてこの程度で済んでいることを後々感謝することだよ、君は。
僕が落ち着いたと見るや、ロナウドは僕の拘束を解いた。僕は頬を全力で拭いてから、レインハルトを睨め付ける。
「そもそも、何をしようとしていたんです」
「それは、君があまりにも変な顔をしていたから」
「は? 僕の顔が変? 目が腐ってるんじゃないですか???」
「そこまで行くともう自信とかそういう問題じゃなさそうだな」
後ろからロナウドが呟いた。聞かなかったことにしてあげるから、ちょっと黙ろうね。
レインハルトは「そうじゃなくて、」と口のなかで言ってから、何か言おうとして、やっぱり口篭って、「その……」とかなんとかモゴモゴしてから、口もとを手で隠して斜め上に視線をやった。
「君が、泣いているように見えたから」
……は。
はあ??? 待って、なんだって? そしてなぜ顔を赤らめる! ちょっと待ってよ耳の赤さを隠しきれてないよ。
僕の後ろでロナウドが「ふむ」とかなんとか言ってるし、え? なんだって? 僕が泣いているように見えたからなんだって? 気色悪いな!
僕が「こいつありえない」って顔をレインハルトにお披露目している間に、ロナウドが僕の横を通り過ぎて、レインハルトの肩をトンと叩いた。
「そうか。あれだけいつも言い寄られておきながら、彼女の一人も作らないなとは思っていたが……、お前、そっちか」
「そっちってどっちかなあ!?」
ロナウドは、俺はお前の相棒だからな、とでも言いたげに、レインハルトの背中をバシバシ叩く。僕に殴られるよりアレの方が痛そうだ。バディに勝手に男が好きだと決めつけられた挙句それを否定する暇も与えられず酷く叩かれて痛がる警備隊サマは、まあいい気味だとは思わないでもないんだけど。流石に僕の良心がちょっと痛むので、止めてあげようかなと、僕はロナウドを呼んだ。
「安心してください。僕、男に興味はないんです」
「知っている」
「そうですか」
相棒が僕に取られるかもしれないと思ったわけではないらしい。まあでも、ロナウドからの背中への攻撃は止んだようだし、レインハルトは僕に感謝するべきだね。
その代わり、ロナウドはレインハルトに、「残念だったな」と慰めの言葉をかけた。
「だから違うって! っていうか、君たち何わかり合ってますよみたいな雰囲気出してるの!?」
「いいんだぞ。おれは気にしない」
「僕も気にしません。恋愛は自由であるべきですから。ただ、僕はお応えできませんってだけで」
「残念だったな」
「俺が振られたみたいな空気演出するのやめてくれない!?」
キャンキャンとよく鳴く。レインハルトは僕よりよっぽど涙目で、ロナウドに抗議する。それに対しロナウドはどこ吹く風。照れ隠しなどするなとばかりのロナウドに、レインハルトは勝ち目がない。残念だったね。
僕は二人がじゃれあっている間に、目元を拭った。指先は濡れていない。
シュウは僕の古い知り合いだ。あの戦火の中で、きっと助からなかったろうと思っていたのに。
シュウ・ヘルゼンは、前トラメナス王国において、ヘルゼン公爵家の第1公子だった。ヘルゼン公爵前妻譲りのホワイトミルクティーの髪は僕と同じくらいのショートヘアで、やや長い前髪から覗く二重の瞳は大きく、長いまつ毛に彩られていた。小さい頃から「女の子みたいでかわいい」と言われ続けた彼は、確かに僕の姿にも似ている。ちょうど背格好も同じくらいのはずだ。
僕より2つ年上のシュウは、僕の知る限りでは、とてもかわいそうな男の子だった。
僕の目の前の男二人はようやくじゃれあうのをやめ、背筋を正すことを思い出したらしい。
「それにしても、君、シュウ・ヘルゼンのことを知っているんだね? 何か関わりがあったの?」
レインハルトはわざとらしく話を変えようと試みる。僕にそんなのが通用すると思う? 面白いからちょっとからかってみよう。
「関わりとは? まさか僕が他の男と親密な関係にあるとでも思いました?」
「そ! ういうんじゃないけどお!?」
なんで赤くなるんだよ。否定するならもっとちゃんと否定しようよ。
僕がもう一歩レインハルトから離れたところで、今度はロナウドが口を開いた。
「確かに、あの公子からはいい噂は聞かなかったな」
「そうだろ!? だから、君が何かおかしなことに巻き込まれている可能性だってあると思っ」
「だからといって、あの態度はないだろう」
「君は俺の味方なの!? 敵なの!?」
「相棒のつもりだったが」
「そうだよ!!」
レインハルトはもうやけくそとばかりに叫んだ。人気のない路地裏は狭く、すぐ近くの壁に反射して、その声はあたりに響いた。本当に住人たちが外に出ているような日でよかった。
僕はロナウドと目くばせする。いつまでもこんなところにいても仕方がない。っていうか、街の通りには美しく着飾ったお嬢様たちがわんさかいるのに、なんでこんな狭いところで男二人に囲われなくちゃいけないんだ。
仕方がないからちょっとだけ教えてあげようと、僕は口を開いた。
「シュウ公子とは幼い頃によく会っていたんです。もう10年以上も前のことですが」
僕はロナウドに視線を送る。
「言うほど悪い方ではないんですよ」
ロナウドは一つ瞬いて、すぐに「悪かった」と口にした。無愛想だけれど、思慮分別がないというわけではないらしい。
実際、シュウの噂にはいいものは少なかった。彼をよく知るものたちだって、大抵は良い顔をしなかった。
元第7位皇位継承者。その元が付く前から、彼の頼れる肩書きは、皇位継承権以外にはなかった。彼の母は彼を産んですぐに流行病で儚くなったという。それからすぐに公爵は新しい妻を取り、幼い公子は前妻の子ということで、父母の愛に触れることなく育った。母の顔すら知らない公子は、しかしその母によく似ていた。
僕が思うに、公爵はその公爵妃を随分愛していたのだと思う。激情が身を焦がすほどに。だからこそ、シュウから距離を取った。忙しいという免罪符で。その髪の色も顔立ちも、前妃を思い起こすから。
そうして家族からも使用人からも腫れ物扱いを受け、またその密かな愛を知った後妻やその子供たちからは嫌がらせを受けるようになっていったシュウは、いつしかあらぬ噂を流されるようになった。一つ問題があったとすれば、シュウは彼らが思う以上に賢く、彼らが思う以上に残虐性を心の奥底に秘めていたと言うことだ。
「まあ、受けた痛みは10倍以上にして返すような方でしたけど」
「結構性根は悪そうだけど」
「否定はしません」
レインハルトとロナウドが目を見合わせる。彼らが何か言葉を発する前に、僕が続けた。
「ちなみに僕はそれを手伝う側でした」
「随分仲がよかったんだね?」
「まあ。一応は」
仲は悪くはなかったと思う。それなりに馬もあったし。僕をさまざまなところに連れて行っては、そのたびに迷子になっていたなぁ。そうして見つかって、お叱りを受けて。迷子になった時より、怒られて泣いていることの方が多かった。
公爵家の使用人たちは信用できない人たちばかりだったし、宮廷にいられる時だけが彼の息のつける時間だったのだろう。声をあげて泣く姿は、宮廷でしか見せなかった。笑うことも、泣くことも、決して人前ではしない少年だった。
宮廷の使用人たちはそのことをある程度は知っていたし、シュウのことを気にかけるように言われていたから、彼のことを可愛がっていた。笑顔一つで大人たちが絆されていく姿は、彼にはどう映っただろう。今となっては僕が彼と手を繋いで庭園を駆けるなんてことはありえないから、もうきっと知ることはないだろうけど。
懐かしい思い出は泡のように浮かび上がっては消えていく。その泡を割るように、レインハルトは僕を見つめていた。どういう関係かって話をしていたもんね。
「君って何者?」
「さっき名乗りませんでしたっけ」
「名前は聞いたよ。でも、どうして元公子様とそんなに仲よくなったのかはわからない。まあでも、少なくとも貴族の血が流れているんだろう? 俺は聞いたことないから、没落した家門かもしれないけれど」
レインハルトが言う。僕の方こそ、レインハルトなんて名前は初めて聞いたし、あのジャックに弟がいたなんて話も記憶になかったくらいだけど、仕方ないから教えてあげよう。
僕は胸を張り、軽く手を添えた。
「もう一度自己紹介をしましょうか? 僕はロン・ジェイデン。皇室に仕えたジェイデン家の第5子です」
ジェイデン伯爵家は、前トラメナス朝より前から、王室一族の補佐をする家系だった。幾度も崩壊を迎え、また幾度も再生するトラメナス王国において、その権威を守り続けてきた家である。当然現帝においても、前王朝の従者だからとないがしろにされることなく、重要な意味を以て伯爵位を賜っている。
「ジェイデンといえば、新入りが確かそのような名だったと思うが」
「そういえば。シン・ジェイデンって名乗ってたっけ」
ロナウドの発言に、レインハルトがその新入りとやらを思い出しながら続けた。
シン・ジェイデン。
レインハルトが発したその名前に、僕は飛び上がった。
「えっ!! シンおにぇーさま、警備隊に行ったの!?」
「なんだって?」
決して噛んだわけではないんだよ、決して。
帝都で聞くわけがないと思っていたその名は、確かに僕のよく知る人の名前だ。戸籍上は叔母にあたる人だけど、万が一にも「おばさん」なんて言ったら絞め殺されるから、愛と敬意を込めて「おにぇーさま」と呼んでいる。当然「鬼」の意だ。
そりゃあ、皇室に仕え、いざという時にはその身を呈して皇室を御守りすることを家訓とするジェイデン家にあって、随一の強さを誇る人だから、兵卒としてはこの帝国でもかなり上位に入るだろうけど。僕が家を出てから音沙汰がないなと思っていたら、あの人まで帝都に来ていたなんて。もし道端で遭遇したらと考えるだけでゾッとする。
「となると、アレの弟ということか」
「いえ、シン・ジェイデンは僕の叔母です。可愛らしく『お姉さま』と呼ぶことを強要されているだけで」
「さっきのがかわいらしいのかどうかについては議論の余地があると思うけど」
余計なことを口走るレインハルトにはとりあえずひと睨み入れておく。
それにしても、あんな鬼のような人が警備隊に入るだなんて。規律を守るような人じゃないと思うんだけど。民間人に被害が出ないか心配になってきたよ。
「あんまり印象に残ってないけど、似ている……のかな?」
レインハルトが僕をじろじろと見つめてくる。僕とシンおにぇーさまはそんなに似ていないと思うけれど、まあ、美しい僕を見つめたくなってしまうのは本能だから許してあげよう。
彼らに教えてあげる義理はないから言わないけど、そもそも、シン・ジェイデンは、ジェイデン家には養子として入っている。ジェイデン一族の姿とは似ないのは当然だし、僕と似ていないのも当然のことだ。
「ともかくそういうわけで、僕はシュウ・ヘルゼンと交流があったんです。幼馴染だからというわけではありませんが、僕には彼を捕まえることはできませんよ」
「そうしたら、懸賞金の10億ジェニーどころか、手伝いの報酬もあげられないし、なんなら警備隊の公務を妨害したとして、隊まで連行してもいいんだけど」
「なんて卑怯な! 僕は今なけなしの3ジェニーしか持っていないっていうのに!」
いくらなんでも酷いと思わない? 悪魔のような微笑みを浮かべるレインハルトの後ろで、ロナウドは無表情のまま立っている。君たち、もしかしなくても、いつもそうやって捜査をしているね?
でも実際、あのシュウを捕まえるくらいなら、10億ジェニーくらい自力で稼いだほうがよっぽど楽だ。捕まえるまでもそうだけど、捕まえてからだって、何をされるかわかったものじゃない。
彼がこれまでにやってきた悪行を、きっと彼らは断片しか知らない。あの人は、人を痛めつけるのが好きなわけじゃない。自分だけがその位置にいるのが嫌なんだ。だから、少しずつ嬲っていく。自分のところまで、できればその先まで落ちろとばかりに。その過程で痛めつけるという行為が入るだけだ。
僕が平穏に生きるために、シュウに目をつけられては困る。
「君は帝国の臣民として手伝ってくれると思っていたんだけど」
雨に濡れた犬みたいな目で、レインハルトが言った。
でも、僕だって黙ってそれに従うわけにはいかない。僕たちの平穏無事な余生のためにもこれは大事なことなんだ。
「ええ、ええ。手伝いたい気持ちはやまやまですよ。お金も欲しいです。でも、それとこれとはわけが」
「ロン」
ここまでほとんど口だししてこなかったロナウドが、一言それだけ声を出した。そのまま僕はじっと見つめられる。
その瞬間、僕の脳裏には以下のことがよぎった。
彼らは帝国警備隊に所属する荒くれ者だ。たとえ僕が伯爵の庇護下にある身分だったとしてもーーようは貴族の身分を有していたとしても、警備隊に楯突いていいことなんてない。それどころか、もしも彼らが平民出身だったとしても、警備隊としての活動時に僕が反抗の意を示したとあれば、帝国の法によって裁かれるなんて理不尽極まりないことが起こり得たり起こり得なかったりもするわけで。少なくとも今ここでもう一度断りでもすれば、レインハルトは警備隊の本部へと僕を連れて行くだろう。非力な僕では彼らには勝てない。逃げることができたとしてもーー、美しく、かつまた高い魔力量を誇る僕の噂を彼らが見つけ出すことはきっと容易なこと。
そして、もしも彼らに捕まったら、僕を知る人物に会う可能性がある。
「仕方ないですね」
僕がため息混じりにそう言えば、レインハルトがパッと嬉しそうに顔を明るくした。君のためではないからね、決して。
「でも、先ほども言った通り、シュウ・ヘルゼンを捕まえることを手伝うことはできません」
「だったら」
「その代わり、その愉快犯とやら、もしくは広告にシュウの名前を出したそいつを捕まえることは手伝います」
そのくらいなら許されるだろう。というか、愉快犯とやらの方は僕としても捕らえておきたいところだからね。
そう時間もかからないだろうし、それでお金が手に入るっていうなら、いい仕事だろう。お金は大事。これ、覚えておくんだよ。お金があれば大抵のことはなんでもどうにかなるんだから。
そうして、僕たちの帝国祭爆弾魔捜索が、ちゃんと始まったのだった。